第22話:束の間の安寧、二人の甘い(?)時間
王宮の回廊から人の気配が消え、夜の帳が不自然なほど重く垂れ込めていた。
魔法の概念が存在しないこの世界において、静寂とは安らぎではなく、物理的な遮断を意味する。いつもなら深夜まで交代で立ち働く女官たちの足音も、遠くで響くはずの衛兵の甲冑が擦れる音も、今夜に限っては霧の向こう側へ押し流されたかのように届かない。
「……あら。本当にお茶のお代わりが来ないわね」
私は、執務机に置かれた冷え切ったカップを見つめ、小さく溜息を吐いた。
四十歳の独身令嬢として二十年、のらりくらりと世間の波風を避けて生きてきた私の勘が、この異常な静寂を「嵐の前触れ」だと告げている。本来ならばヴィクトール陛下がとっくに戻り、私の隣で「仕事が終わらない」と不器用に溢しているはずの時間だ。それが未だに不在ということは、あの方がどこか別の区画で、身動きの取れない状況に追い込まれていることを意味していた。
「(まあ、考えても始まらないわね。お腹が空いては戦もできないし、のらりくらりと待つことにしましょうか)」
私は椅子から立ち上がると、自室の棚の奥から、叔父カシムが持ち込んだ秘蔵の燻製肉と、母方の実家から届いた酒精の強い果実酒を取り出した。
魔法で一瞬にしてご馳走を出すことはできない。だが、私にはこうして不測の事態を「究極の有給休暇」にすり替えるだけの、図太い人生経験がある。私は暖炉に薪を足し、パチパチと爆ぜる火を眺めながら、独りで静かに杯を傾け始めた。
どれほどの時間が過ぎただろうか。
廊下の向こうから、荒々しい軍靴の音が近づいてくるのを感じた。公爵の私兵たちの整然とした足音ではない。焦りと、怒りと、剥き出しの熱を孕んだ、聞き慣れた足音だ。
内扉が激しく開き、肩で息をしながらヴィクトール陛下が飛び込んできた。
「……アステール! 無事か!」
彼の正装は乱れ、マントの裾には泥が跳ねている。おそらく、ガストン公爵派の貴族たちに囲まれていた会議室を、王としての威圧と物理的な強行突破で抜け出してきたのだろう。
「陛下。無事も何も、ご覧の通りですわ。ちょうど美味しいお肉が切れたところでしたの。……そんなに怖ろしい顔をして、わたくしの燻製肉が欲しかったのですか?」
私がのらりくらりと、わざと抜けた声を出すと、ヴィクトール陛下は毒気を抜かれたようにその場に立ち尽くした。そして、崩れるように私の傍らへ歩み寄り、椅子の背もたれを掴んで深く頭を垂れた。
「……良かった。……回廊の兵が入れ替わり、私への報告が意図的に遮断されたと気づいた時、私は……君を失う恐怖で、理性が焼き切れるかと思ったのだ」
「陛下、お顔を上げてくださいませ。わたくしはここにいますわ」
私は、震える王子の肩にそっと手を置いた。若々しい体温が、冷たい夜風を纏った上着越しに伝わってくる。
「陛下。明日の評議会、ガストン公爵が何か仕掛けてくるのは明白ですわね」
「ああ。……君を隣国のスパイとして告発し、私の傍から引き剥がすつもりだろう。偽造された証拠も、既に用意されているはずだ」
ヴィクトール様は、私の手を強く握り締めた。その瞳には、新王としての冷徹な怒りと、一人の男としての、今にも壊れそうな脆さが同居していた。
「……もし、明日私が君を守りきれなかったら。もし、この国の法が、君という真実を裁こうとしたら。……アステール、私は王座を捨ててでも、君を連れて――」
「――陛下」
私は、彼の言葉を遮るように、温めた果実酒を彼の唇に押し当てた。
「そのような弱気なことを。陛下が守れなくても、わたくしは自分で自分を守りますわよ。……陛下は、この二十年、わたくしがどれだけ多くの厚顔無恥な親戚や、強欲な隣国貴族を数字だけで薙ぎ倒してきたか、まだ分かっていらっしゃらないようね」
私は、少しだけ意地悪く、だが最高の慈愛を込めて微笑んだ。
「わたくしは陛下の思っているような、か弱い令嬢ではございません。実力行使には、それ以上の実力で、のらりくらりと返り討ちにするのがわたくしの流儀です。……ですから、今夜だけは公務も、明日への不安も、すべてこのお酒と一緒に飲み干してしまいなさいな」
魔法のない世界。未来を予知する水晶玉も、運命を変える呪文もない。
あるのは、明日の死闘を前にした二人の、不器用な触れ合いだけだ。
ヴィクトール陛下は私の差し出した酒を飲み干すと、少しだけ頬を赤らめ、私の膝の上にそっと頭を預けてきた。王としての仮面を脱ぎ捨てた、ただの二十三歳の青年の甘え。私はそれを拒まず、彼の黒髪を優しく撫でた。
「……君は、強いな。……四十年の重みというやつか」
「ええ。陛下が生まれる前から、わたくしはこうして自分の安寧を守るために、冷徹に計算を積み重ねてきましたの。……陛下にだけは、その『強さ』を分かっていただきたかった。わたくしは、守られるだけの荷物ではなく、陛下と共にこの国を歩む、対等な共犯者なのですから」
以前、雨の寺院でぶつけた本音が、再び口をついて出た。
ヴィクトール様は私の手を握り返し、噛みしめるように何度もその指先に口づけを落とした。
「……ああ。分かっている。分かっているとも。……明日の評議会は、私と君の、最初の共同作業だ。……あの老いた公爵に、新しい時代の幕開けを、その目に焼き付けてやろう」
窓の外。夜明けの空が、微かに白み始めていた。
魔法が存在しないこの世界において、朝の光は常に残酷なまでの平等さでやってくる。
私たちは、寄り添ったままその光を見つめていた。
ガストン公爵という名の巨大な影。彼が張り巡らせた「魔女狩り」という名の網。
だが、今の私には、隣で静かに闘志を燃やす王子の熱があった。
「……陛下、お時間ですわ。そろそろ、その乱れた正装を整えませんと。王としての威厳を欠いては、公爵様に笑われてしまいます」
「ああ。……メルセデス。次にこの部屋に戻る時は、お前を私の正式な伴侶として、誰にも邪魔されぬ地位を与えてからだ」
ヴィクトール様は立ち上がり、最後の一度、私を強く抱きしめた。
のらりくらりと生きてきた私の安寧は、今、王妃としての戦いという名の嵐に飲み込まれようとしている。
だが、その嵐さえも心地よいと感じてしまうのは、この若き王の執着が、私の孤独を完璧に埋めてしまったからだろう。
私は、王子の背中を見送りながら、机の上に残された一通の、まだ誰にも見せていない書類に指を触れた。
ガストン公爵。貴方が用意した偽造の密約書など、わたくしの持つ『真実の数字』の前では、ただの焚き付けにもなりませんわよ。
私は不敵な笑みを浮かべ、決戦の場へと向かう準備を始めた。
魔法のない異世界。四十歳の事務官の本気が、いま、王国の歴史を塗り替えようとしていた。




