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甘美な安寧を愛した四十路貴族令嬢は、不器用な王子の執着に捕まる ~魔法のない世界で事務能力無双はしたくないのに~  作者: 寝不足魔王


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第21話:老獪なる執政、獲物を囲う網の目

 魔法という、ことわりを歪める奇跡が存在しないこの世界において、権力の正体とは極めて単純明快な三つの要素で構成されている。「金」と「武力」、そしてそれらを管理するための「知」である。それ以外はすべて、無能な民草を惑わし、分不相応な夢を見せるための虚飾に過ぎない。


 王宮の北側に位置する、厚さ三インチもの重厚なオーク材の扉に守られた私室。そこは、若き新王ヴィクトールが断罪した前王妃の兄、ガストン公爵の居城であった。窓の外には、王都の灯火が星屑のように散らばっているが、そのすべては彼の指先一つで、文字通り消し去ることのできる脆弱な光であった。

 ガストンはクリスタルのグラスに注がれた、氷のように冷えたワインを一口啜った。琥珀色の液体が喉を通るたび、彼の脳内では、この国という巨大な機構を動かすための数字が、緻密な歯車のように音を立てて噛み合っていく。


「……ルイスの若造め。所詮は隣国の小癪な貴公子に過ぎん。女の情に訴えて家を乗っ取ろうなどと、甘い。反吐が出るほどに甘いな。あのような未熟な誘惑に、二十年も独りで領地を守り抜いてきた女が屈するとでも思ったか」

 ガストンの声は、使い古された革の装丁を撫でるような、乾いた不快な響きを湛えていた。

 彼は二十年以上にわたり、レガリス王国の財政を影で操ってきた男だ。ヴィクトールが前王妃を処刑した際、その兄であるガストンの首が飛ばなかったのは、彼が「慈悲」を受けたからではない。彼を殺せば、王宮の給与支払いが止まり、街の穀物市場が麻痺し、国が数日のうちに死に体となるよう、彼が実務の全域に毒を回していたからに他ならない。新王であっても、この「現実という名の怪物」を殺すことはできなかったのだ。


 ガストンが狙っているのは、アステール伯爵令嬢メルセデスという「女」そのものではない。彼が見ているのは、その四十歳の肉体の背後に控える、巨大な実利の集合体――レガリス王国の命運を左右しうる、三つの「力」であった。


(あの女を我が掌中に収める。それは、この王国という器を、中身ごと買い取るのと同義だ)

 ガストンは机の上に置かれた、メルセデスに関する分厚い調査報告書を、鷹のような鋭い指先で叩いた。

 魔法によって無から有を生み出せないこの世界において、第一の価値は、彼女の母方の実家「アルフォンス大商会」が誇る、底なしの財力だ。大陸全土に張り巡らされた物流網と、王家の国庫すら凌駕する圧倒的な現金。あの大商会の唯一の血縁である彼女を支配下に置けば、軍隊を動かし、官僚を買い占め、国のすべてを意のままに動かす軍資金が手に入る。

 かつて、国が飢饉に喘いだ際、ガストンはその商会の倉庫を奪おうとして失敗した苦い記憶がある。だが今、その継承権を持つ女が王宮に自ら飛び込んできたのだ。これを機を逃す手はない。


 第二の価値は、隣国の王家騎士団長カシムという、大陸最強の武力との血縁である。

 魔法による目に見えぬ防衛壁がないこの平原の国々にとって、カシムの率いる鉄騎兵の突撃は、草原を薙ぐ死神の鎌と等しい。彼女を人質として、あるいは「一族」として囲い込めば、隣国の軍事的脅威は瞬時にして絶対的な防衛力へと転じる。武力なき平和など、紙の上に描いた夢に過ぎないことを、ガストンは誰よりも知っていた。


 そして第三、これが最もガストンにとって看過できないことだが、彼女自身の持つ「不気味なほどの事務処理能力」であった。

(女官局の膿を一晩で抜き取り、帳簿の数字だけで長年の重鎮たちを平伏させた。あのような『目』を王の隣に居座らせておけば、私が二十年かけて築き上げた私財の隠し場所も、いずれ暴かれることになろう。数字こそがこの世の真理だと説くあの女は、私のような古い世界の支配者にとって、最も排除すべき死神に他ならん。有能な敵は、手なずけるか、さもなくば再起不能なまでに叩き潰すのみだ)


 ガストンにとって、メルセデス・アステールは手に入れるべき最高の資産であると同時に、真っ先にその芽を摘まねばならない「猛毒」でもあった。彼女がヴィクトールの片翼として羽ばたき続けることは、ガストンたちが甘い汁を吸い続けてきた不透明な時代の終焉を意味するのだ。


「……準備は整ったか」

 ガストンが短く問いかけると、部屋の隅、オイルランプの光さえ届かぬ影の中から、一人の従者が音もなく跪いた。

「はっ。王宮内には既に『アステール顧問は隣国のスパイであり、陛下を秘薬で惑わしている』という噂を十分に流布させました。彼女の有能さを嫉妬し、気味悪がっていた古い女官や、彼女によって地位を奪われた無能な官僚たちは、喜んでこの『魔女狩り』に同調しております。明日の評議会では、私が用意した偽造済みの隣国との密約書を突きつけ、彼女を公的に拘束いたします」

「ヴィクトールはどうしている」

「閣下の息のかかった地方貴族たちが、国境付近での些細な諍いを大げさに報告し、緊急会議という名目で陛下を別の区画に足止めしております。今夜一晩、陛下が彼女の元へ駆けつけることは物理的に不可能です。回廊の警備も、既に閣下の私兵に入れ替わっております」


 ガストンは満足げに目を細め、最後の一口を飲み干した。

 魔法のない世界。一度流れた醜聞と、王宮の重鎮たちが声を揃えて唱える「正義」という名の合意。それを覆す術など、一介の独身令嬢に有るはずもない。かつて彼女の父、先代の伯爵もまた、実直すぎて利用価値がないと判断し、ガストンが事務的に社交界から干し上げた男だった。その娘もまた、同じように「実務」という名の刃で裁いてやるまでだ。


「……あのアラフォーの女。自分がどれほど美味な獲物か、その鈍感な頭では気づいてもいないだろうな。せいぜい、今夜限りの安眠を貪るがいい。明日、目覚めた時には、王宮は彼女を拒絶する巨大な檻へと変わっているのだから」

 ガストンは、机の上に置かれた「王宮顧問」という役職名が記された木製の駒を、無造作に指で弾き飛ばした。駒は床を転がり、闇の中に消えた。


 その頃、王宮の隣室にある執務室。

 メルセデス・アステールは、机の上に広げられた膨大な資料を前に、ふとペンを止めて首を傾げていた。

「……なんだか、今日はお茶のお代わりが来ないわね。女官たち、また何かお祭りの準備で忙しいのかしら?」

 窓の外、王宮を包み込みつつある不気味な静寂にも、回廊を巡回する兵たちの鎧の擦れる音が、聞き慣れた王宮守備隊のものよりわずかに重いことにも、彼女はまだ気づいていなかった。

「陛下も、さっきから戻ってこられないし。……まあ、お忙しいのは良いことよね。わたくしも、今のうちにこの帳簿を片付けて、明日はのらりくらりと庭園の散歩でもしようかしら」

 彼女は、自分が既に巨大な網の中に閉じ込められていることも知らず、呑気に冷え切った茶器を見つめていた。


 魔法など存在しない。

 あるのは、老獪な権力者が二十年かけて張り巡らせた執拗なまでの策略と、それとは対照的な、四十歳の独身令嬢のあまりにも無防備な平穏だけだった。

 ガストン公爵による、情け容赦のない「魔女狩り」の幕が、いま、静かに上がろうとしていた。

 王宮の長い回廊には、彼女を連行するための軍靴の音が、死神の足音のように着実に、一歩ずつ近づいていた。窓の外では、月が厚い雲に隠れ、彼女の安寧を飲み込むような深い闇が、音もなく王宮全体を覆い尽くしていった。


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