第18話:雨の決着、数字は剣よりも強し
雨音が、崩れかけた寺院の石床を叩く。
その激しい響きさえ、ヴィクトール陛下が放つ圧倒的な殺気に飲み込まれていくようだった。抜き放たれた剣の切っ先は、かつての婚約者、ルイス・フォン・クロムウェルの喉元を正確に狙っている。一振り。それだけで、私の過去を呪う亡霊の命は絶たれ、同時にこの国と隣国との間に、決して消えない血の溝が刻まれることになる。
「……退け、メルセデス。そいつの命は、私が今ここで、正式な不法侵入者として、あるいは私の顧問を脅かした大罪人として刈り取る」
ヴィクトールの声は、冷たい雨よりも低く、重い。彼の背後で控える近衛兵たちもまた、王の怒りに呼応するように殺気を高めていた。魔法など存在しないこの世界において、剥き出しの武力とは、絶対的な死の同義語だ。
「陛下、なりません。わたくしの前に、その剣を汚してはなりませんわ」
私は震える足を叱咤し、ヴィクトールとルイスの間に、自らの体を割り込ませた。
「陛下が今ここでルイスを斬れば、それは感情に任せた私刑と取られかねません。叔父様が、そしてわたくしが守り抜いてきたこの平穏な国を、一時の憤怒で戦火に晒すおつもりですか?」
「平穏だと!? 君が、この男に脅かされ、私に嘘をついてまで独りでこんな場所へ来た。その事実を、どう私に耐えろというのだ!」
ヴィクトールの瞳は、裏切られた悲しみと、自分を頼ってくれなかった無力感で、激しく揺れていた。
私は彼を真っ向から見据えた。四十歳の、のらりくらりと生きてきた女の、ありったけの覚悟を瞳に込めて。
「……陛下。わたくしを、信じてはくださいませんか? わたくしが、この男を清算すると申し上げたことを」
「信じている。だが……!」
「信じているのであれば、わたくしの仕事を見ていてください。……ルイス、貴方もよ。二十年前、貴方はわたくしを『冷めた女』だと笑ったわね。ええ、その通りよ。わたくしは、数字で測れない情熱など信じていないの」
私は懐から、寺院に来る前に書き上げた一枚の羊皮紙を取り出した。
「ルイス。貴方が持っているその『割譲契約書』、残念ながら現行の法規では無効ですわ。……陛下、この男が持っているのは、二十年前のアステール家の『旧式印章』によるものです。ですが、父は亡くなる直前、偽造防止のために印章の意匠を微細に変更し、王宮に届け出ておりました。つまり、その契約書は成立以前に、公的な効力を失っている『ただの紙屑』に過ぎないのです」
「な、何を……出鱈目を言うな!」
ルイスの顔から余裕が消え、焦りが滲み出した。
「出鱈目ではありませんわ。王宮の公文書館に、変更届が今も眠っています。わたくし、顧問としてその整合性を既に確認済みですの。……貴方がそれを王宮の門に貼り出せば、恥をかくのは貴方の家系だけよ。偽造書類で他国の領地を狙った、薄汚い詐欺師としてね」
魔法のない世界。書類の一文字、印章の細工、届け出の日付。それらこそが、人を縛る真の鎖だ。私は二十年間、事務的な整合性だけを信じて実家を守ってきた。その経験が今、私を救う最強の武器となっていた。
「さらに」
私は冷徹な事務官の口調で続けた。
「叔父の伝手で、貴方の実家の借財状況も全て洗わせてもらいました。母方のアルフォンス商会は、貴方の実家が担保に入れている隣国の鉱山の権利、既にその六割を買い占めております。……ルイス。貴方が今、この場で陛下の寛大さに甘え、速やかにこの国を立ち去るというのなら、破産だけは免れるよう計らってあげてもよろしくてよ?」
寺院の中に、ルイスの絶望的な沈黙が流れた。
王の武力。そして、メルセデスという女が突きつけた、冷酷なまでに完璧な経済的、法的な包囲網。
ルイスは、自らの敗北が、剣ではなく「数字」と「根回し」によって確定したことを悟った。彼は膝をつき、雨に濡れた床を拳で叩いた。
「……相変わらずだ、メル。……君は、本当に可愛げのない……完璧な女だよ」
ルイスは絞り出すような声で笑い、立ち上がった。その瞳からは、先ほどまでの歪んだ執着が消え、敗者の空虚さだけが残っていた。
「陛下、私の負けだ。……今夜のうちに、この国を発ちましょう。……だが、忘れないでほしい。その女を繋ぎ止めているのは、愛などという不確かなものではない。彼女が愛しているのは、数字の合う平穏だけだ」
ルイスは、ヴィクトールの鋭い視線を浴びながら、影のように寺院の闇へと消えていった。
静寂が戻った。
雨音だけが響く中、ヴィクトールはゆっくりと剣を鞘に収めた。
彼は、呆然と立ち尽くす私に歩み寄り、何の言葉もなく、ただ激しく私を抱きしめた。
「……陛下」
「……なぜだ。なぜ、いつも私を蚊帳の外に置く。君の過去を、君の苦しみを、なぜ私に背負わせない」
王子の声は震えていた。私の肩に顔を埋めた彼の体温は、冷たい雨に打たれて驚くほど低い。
「……陛下にだけは、わたくしの覚悟を信じて、分かっていただきたかった。それだけでしたのに」
私の本音が、ポロリとこぼれ落ちた。
「わたくしは陛下を信じて、事務官として戦いました。陛下は、わたくしが独りで戦えることを、信じてはくださらなかった」
ヴィクトールは私を抱きしめる力を強めた。
「……すまない。……怖かったのだ。君が私の知らない過去へ、誰にも触れられぬ場所へ、消えていってしまうのが……耐えられなかった」
魔法のない世界において、想いを伝える手段は、こうして抱き合い、言葉を尽くすしかない。
私は、彼の広い背中に、そっと手を回した。
若き王の不器用な執着。それは独占欲という名の枷であり、同時に、四十歳の私の孤独を、力強く繋ぎ止める楔でもあった。
「……帰りましょう、陛下。明日も、明後日も、王宮にはわたくしが片付けなければならない書類が、山のように待っておりますわ」
「ああ。……一生かかっても、片付けられぬほどの仕事を用意してやる」
ヴィクトールは私の顔を上げ、濡れた私の前髪をそっと払った。
二人の間にあった「王と顧問」という建前は、この夜の雨によって洗い流された。
残されたのは、運命という名の共犯関係。
私たちは、王宮へと続く雨の回廊を、二人で歩み始めた。
のらりくらりと生きてきた私の平穏は、こうして、より深淵な執着という名の底なし沼へと沈んでいく。
だが、その沼の底がこれほどまでに温かいことを、四十歳の私は、ようやく認め始めていた。




