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甘美な安寧を愛した四十路貴族令嬢は、不器用な王子の執着に捕まる ~魔法のない世界で事務能力無双はしたくないのに~  作者: 寝不足魔王


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第17話:奪われた安寧、孤独な事務官の綱渡り

 魔法の火が灯ることのない夜、真実を照らし出すのは一本の蝋燭の焔だけだ。

 私は執務室の机で、ルイスから届けられたあの書類を凝視していた。二十年前の私が、若さと混乱、そして微かな期待ゆえに犯してしまった取り返しのつかない過ち。アステール家の紋章が刻まれたその紙片には、領地の一部を隣国貴族、すなわちクロムウェル家へ永久に割譲するという不当な契約が、紛れもない私の署名と共に記されていた。


(……救いようがないわね、当時の私)

 頭が痛い。魔法の解呪で消し飛ぶような呪いならどれほど良かったか。だが、この世界において署名と印章の重みは絶対だ。ルイスは、この紙一枚でアステール家を破滅させることも、私を隣国へ強制的に連行させることもできる「正当な権利」を握っている。

 もし、この事実をヴィクトール陛下が知ればどうなるか。彼は間違いなく王権を持ってこの契約を「無効」と宣言するだろう。だが、それは隣国に対する明白な条約違反となり、断罪劇で揺れるこの国の信頼を根底から破壊しかねない。

 私の過去というゴミのせいで、あの若き王の未来を泥で汚すわけにはいかなかった。


「……おはようございます、アステール顧問。顔色が一段と優れないようだが」

 翌朝、内扉から現れたヴィクトールが、私の顔を覗き込むようにして問いかけてきた。

「陛下、おはようございます。……ええ、少々寝付きが悪くて。四十も過ぎると、枕が変わるだけで体調に出るものですわ」

 私は努めて「のらりくらり」とした微笑を浮かべた。だが、ヴィクトールの鋭い青い瞳は誤魔化せなかった。彼は私の手元にある、半分も進んでいない計算書類を見つめ、不審げに眉を寄せた。

「嘘だな。君が枕のせいで仕事の精度を落とすはずがない。……昨夜、何か届かなかったか? 君の部屋へ入ろうとした使用人が、送り主不明の箱を見たと言っている」

「……ただの、実家からの季節の品ですわ。叔父様に贈るための確認をしておりましたの」

 私は心臓の鼓動を悟られぬよう、事務的にペンを走らせた。

 ヴィクトールはしばらく私を無言で見つめていたが、やがて吐き捨てるように言った。

「……私に頼れと言ったはずだ、メルセデス。君が一人で抱え込もうとする時、君は決まって私の知らない、遠い場所を見ている」

 王子の声には、怒りよりも深い悲しみが混じっていた。私は胸が締め付けられるのを感じながらも、視線を書類から逸らすことができなかった。


 昼過ぎ、王宮の公的な連絡網とは別の経路――母方の商会の使いを装った者から、一通の小さな紙片が届けられた。

『今夜、王都西の外れにある古い寺院にて待つ。一人で来い。さもなくば、この契約書を王宮の門に貼り出すことになる』

 ルイスらしい、傲慢で確実な脅迫。

 私は、自分が何をすべきかを知っていた。これは私個人の負債だ。王を、国を巻き込むわけにはいかない。私は長年培った「逃げと潜伏」の技術を使い、側近たちの目を盗んで王宮を抜け出す計画を練った。


 雨が降りしきる深夜。

 私は地味な旅装に身を包み、かつて領地の視察で使い古した泥除けの外套を羽織って、王都の裏通りを歩いていた。魔法のないこの世界、降り続く雨は音を消し、視界を遮る最高の隠れ蓑になる。

 辿り着いたのは、崩れかけた石造りの古い寺院だった。

 扉を開けると、カビの臭いと埃の匂いが鼻を突く。祭壇の前、一灯のランプを揺らして、ルイス・フォン・クロムウェルが優雅に腰掛けていた。


「素晴らしい。約束を守ってくれたね、メル」

 ルイスは立ち上がり、私に向かって手を広げた。

「書類を返しなさい、ルイス。貴方がそれを持ち続けていても、隣国の王室は認めないわ。二十年前とは国際情勢が違うのよ」

「情勢なんてどうでもいい。僕が欲しいのは、アステールの土地じゃない。……その土地を死守しようと、必死に、孤独に戦う君の顔だ」

 ルイスは狂気を孕んだ笑みを浮かべ、私に歩み寄ってきた。

「僕と一緒に隣国へ来い。そうすれば、この書類は灰にしてあげよう。君のような冷徹で有能な女を、あの若造の王宮で腐らせておくのは忍びないんだ」

「断るわ。わたくしの居場所は、わたくし自身が決めるもの」

 私は懐から、あらかじめ用意していた別の書類を取り出した。

「ルイス。貴方が隣国の国庫から私的に流用している資金の証拠よ。母方の商会を使えば、貴方の不始末を暴くことなど容易いこと。……書類を返しなさい。さもなくば、貴方は国へ帰る場所を失うわ」


 それは、事務官としての私が放った、乾坤一擲の反撃だった。

 ルイスの顔から余裕の笑みが消え、冷酷な光が宿った。

「……やはり、君は可愛くないね。……だが、そんなに僕を怒らせていいのかい? ここで僕が叫べば、君が不貞の密会をしていると――」


 その時だった。

 寺院の重厚な扉が、物理的な衝撃によって激しく蹴破られた。

 轟音と共に流れ込んできた冷たい風と雨。そして、そこに立っていたのは、抜き放たれた剣に月光を反射させた、憤怒の化身のようなヴィクトールだった。


「……そこまでだ、クロムウェル。その汚れた指で、私の顧問に触れるな」

 ヴィクトールの声は、氷点下まで凍りついていた。彼の後ろには、数人の近衛兵が控え、寺院の周囲を完全に包囲している。

「陛下……!? なぜここに……」

 私は愕然として立ち尽くした。一人で解決するはずだった。彼をこの泥沼に引きずり込んではいけなかったのに。

 ヴィクトールは私を見ることなく、ただルイスを、今すぐ八つ裂きにせんばかりの勢いで睨み据えた。

「アステール。……私に嘘をつき、護衛を撒き、こんな場所でこの男と何を密約している」

 王子の瞳は、悲しみと裏切りへの怒りで激しく揺れていた。

「陛下、違います、これは……わたくしが、わたくしの過去を清算するために……」

「黙れ! 君の過去も、君の罪も、君のすべては私のものだと言ったはずだ!」


 ヴィクトールは一歩、また一歩と、剣を構えたままルイスへとにじり寄る。

 魔法のない世界。ここで剣が振るわれれば、どちらかの命が確実に失われる。

「さあ、クロムウェル。死に場所を選ばせてやる。……私のメルセデスを、汚そうとした報いを受けろ」


 私は、自分の「のらりくらり」とした処世術が、最悪の結果を招いたことを悟った。

 王子の独占欲という名の炎。ルイスの執念という名の毒。

 板挟みになった私は、降りしきる雨の中、崩れかけた寺院で、かつてない人生の岐路に立たされていた。

 私は震える足を叱咤し、二人の男の間に割って入ろうと、一歩を踏み出した。


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