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甘美な安寧を愛した四十路貴族令嬢は、不器用な王子の執着に捕まる ~魔法のない世界で事務能力無双はしたくないのに~  作者: 寝不足魔王


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第16話:静かなる拒絶、扇の裏の処世術

 呼吸を忘れるほどの静寂。それは魔法によって時間が止められたかのようだったが、実際には数百人の貴族たちが放つ、生々しいまでの好奇と緊張が凝縮された結果に過ぎない。

 私の右側には、王としての絶対的な権威と、若い剥き出しの独占欲を宿したヴィクトール王の手。

 私の左側には、かつての因縁を優雅な毒へと変え、余裕の笑みで過去をちらつかせるルイスの手。

 差し出された二つの手は、どちらも私を「自分という檻」に引きずり込もうとする、拒絶を許さぬ圧力を放っていた。


(……なにした私。いえ、本当になにしたのよ、私。ただ、のらりくらりとお茶を飲んで、時々砂糖を多めに淹れてあげていただけなのに)

 視界が白むような絶望感の中で、私の脳細胞は前世の社畜時代に培った「トラブル回避能力」を最大出力で回し始めた。

 魔法のないこの世界において、社交界とは言葉なき戦場だ。ここでどちらかの手を取れば、それは一方を明確に拒絶したことになり、明日には「王が隣国と決裂」あるいは「王顧問、元婚約者と不倫の果てに逃亡」といった尾ひれがついた噂となって国を揺るがすだろう。

 四十歳の私にとって、そんな面倒な事態は御免被る。


 私は、微かに震える指先を悟られぬよう、持っていた琥珀色の扇をパチンと音を立てて閉じた。その乾いた音が、会場に満ちていた極限の緊張をわずかに震わせる。

 私は二つの手を交互に見つめることもせず、ただ、淑女としての完璧な角度で、どちらにも属さぬ虚空へと深い一礼を捧げた。

「……陛下。そして、クロムウェル卿。まことに恐れ多くも、身に余る光栄に存じますわ」

 私の声は、ひどく穏やかで、温度を欠いていた。ヴィクトールの瞳に動揺が走り、ルイスの口角がわずかに吊り上がる。

「ですが、まことに残念ながら……わたくし、先ほど不慣れな靴を履いておりましたせいか、少しばかり足を挫いてしまいましたの。今宵のダンスは、どなた様とも踊らぬと、神に誓って決めておりますのよ」


 嘘である。私の足は、今この瞬間に王宮を全力で駆け抜けられるほどに健康そのものだ。

 だが、貴族社会において「淑女の体調不良」は、たとえ王であろうとも踏み込めない神聖不可侵の聖域だ。これ以上、踊ることを強要すれば、それは「弱った女性を虐げる不徳な男」という汚名を着ることになる。

 ヴィクトールの差し出された手が、悔しげに震える。

「……足を? アステール、なぜそれを早く言わなかった。今すぐ侍医を――」

「陛下、大げさでございますわ。少し休めば治る程度のこと。……クロムウェル卿も、せっかくの親善の席で、足を引きずる女と踊っては隣国の名が廃るというものでしょう?」

 私が扇の裏で微笑むと、ルイスは肩をすくめて、差し出していた手をゆっくりと引いた。

「おやおや、手厳しい。……ですが、その『逃げの美学』こそが君の持ち味だったね、メル。……お大事に。僕の隣は、いつまでも空けて待っているよ」


 ルイスはそう言い残すと、優雅に一礼して人混みの中へと消えていった。

 後に残されたヴィクトールは、怒りと心配と嫉妬が入り混じった、酷く複雑な表情で私を見つめていた。

「……陛下。わたくしはあちらの壁際で少し休ませていただきます。陛下は王としての公務を、どうか完遂なさってくださいませ」

 私は逃げるようにして、その場を後にした。


 夜会の後半。足が痛いはずの私は、会場の隅にある簡易的な執務用の机に向かっていた。

「……顧問。本当に足はよろしいのですか?」

 恐る恐る声をかけてきたのは、例の文官だ。

「ええ、陛下がご覧になっていない時だけ治る魔法のような怪我ですわ。……それよりも、あちらのクロムウェル卿が提出してきた貿易協定案。あれ、見せていただけます?」

 私は「女」としての戦いを放棄した代わりに、「特別顧問」としての実力を行使することにした。

 ルイスは隣国の特使として、こちら側に不利な条項を並べた協定案を持ち込んでいた。かつての私を欺こうとした時と同じように、一見すると友好的に見えるが、その実、我が国の流通を独占しようとする卑劣な計算が隠されている。


 私は扇を置き、ペンを取った。

「ここと、ここの数字。市場の価格推移と合致しませんわね。……それから、この関税の免除期間。隣国の主要産品だけが優遇されるように仕組まれているわ」

 魔法のない世界において、数字は唯一無二の真実だ。私はルイスが「大人の余裕」で構築した外交文書を、四十歳の現実的な視線で次々と解体していった。

 夜会が終わる頃には、ルイスが「かつての想い出」を盾に獲得しようとしていた政治的優位は、私の赤ペンによってボロボロに切り裂かれていた。


 ヴィクトールは、私が社交の華としてではなく、冷徹な事務官としてルイスを打ち負かす様子を、遠くからじっと見守っていた。

 彼の目から、先ほどの子供のような嫉妬が消え、代わりに深い敬愛と、ある種の覚悟が宿り始めていた。

「……アステール。君は、私を守ってくれているつもりか」

 夜会が引け、誰もいなくなった回廊で、ヴィクトールが私を呼び止めた。

「陛下。わたくしはただ、職務を果たしたまで。……不正確な書類は、わたくしの生理的に受け付けませんの」

「……強がりを。君が、あの男に対峙するために、わざと私からも距離を置いていることくらい、分かっている」

 ヴィクトールは私に歩み寄り、私の手からインクの汚れたペンを取り上げた。

「……今は、私の片翼として飛ぶがいい。だが、いつか君が空を飛ぶのに疲れた時は、私がその体を、二度と放さぬよう抱き止めてみせる」

 王子の不器用な情熱が、冷たい夜風に乗って私の胸に届く。私はのらりくらりとその言葉をかわす余裕もなく、ただ月の光に照らされた彼の横顔を、静かに見つめることしかできなかった。


 自室に戻ったのは、深夜も深まった頃だった。

 ドレスを脱ぎ、ようやく手に入れた一人きりの静寂。

 だが、机の上に置かれた一つの木箱が、私の目に入った。

「……誰からの届け物かしら。陛下から?」

 私は不審に思いながらも、その箱を開けた。

 中に入っていたのは、宝石でも花でもなかった。

 それは、古びて変色した、一通の書類の写し。

 二十年前、私がルイスとの婚約を破棄した際、実家の金庫から盗まれ、紛失したはずのアステール家の「古い秘密」に関わる権利書の一部だった。


 手に持っていた書類が、指先から滑り落ちた。

 魔法のないこの世界で、一度失われた書類が戻ってくることの意味。

 それは、ルイスが単に私を誘惑しに来たのではなく、私の「弱み」を文字通り握りしめて現れたことを意味していた。

「……なにした私。……いえ、これはもう、私が何かをしたとか、そういう話じゃないわね」

 窓の外。闇に沈む王都のどこかで、ルイスの冷笑が聞こえた気がした。

 私の平穏な四十路を、過去の呪縛が、再び冷たく縛り上げようとしていた。


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