第15話:仮面の再会、静寂を切り裂く宣戦布告
深夜の執務室に満ちた殺気は、魔法の火花などよりも遥かに熱く、肌を焼くようだった。
抜身の剣を手に、漆黒の怒りを瞳に宿したヴィクトールと、バルコニーの縁に腰掛け、月光を背に余裕の笑みを浮かべるルイス。その中心に立たされた私は、四十年の人生で最も不毛な「仕事」の予感に、深く、重い溜息を吐き出した。
「陛下、剣を収めてください。ここで隣国の貴族を不審死させれば、叔父様が築いてきた国境の平穏が、一晩で瓦礫の山に変わりますわ」
私はヴィクトールの前に立ち、その震える剣先を遮るように手を広げた。
「退け、メルセデス! この男は……この亡霊は、君を壊しに来たと言ったのだぞ!」
「ええ、聞いておりました。ですが、死体の後始末をするのはわたくしと実務官たちの仕事です。陛下のお手を汚す価値もございません」
私は敢えて冷徹に、事務的な言葉を選んで王子の熱を冷まそうとした。
対するルイスは、私のその言葉さえ楽しんでいるかのように、優雅に立ち上がると、王族に対する最低限の礼を保ったまま、不敵な笑みを深くした。
「……相変わらずだね、メル。君のその、冷たい氷のような合理性にこそ、僕は惚れ直してしまう。……陛下、今夜のところは失礼しましょう。ですが、またすぐにお会いすることになりますよ。次は、公の場で」
ルイスはそう言い残すと、夜の闇へと溶けるようにバルコニーから消え去った。
後に残されたのは、荒い息を吐き続けるヴィクトールと、荒らされた執務室、そして最悪の余韻だった。
「……なぜだ。なぜ、あんな男を生かして帰した」
ヴィクトールが、絞り出すような声で私に問う。その瞳には、私を守りきれなかった悔しさと、私に踏み込ませてもらえない「過去」への激しい嫉妬が渦巻いていた。
「陛下……あのような男に、陛下がその尊い立場を賭ける必要はないのです。……わたくしが、わたくし自身の手で清算いたしますわ」
私は彼の冷たい手に、そっと自分の手を重ねた。二十歳の熱い肌が、私の手の内で微かに震えている。王妃を断罪した王は、今、一人の女性を奪われまいとする一人の青年に戻っていた。
翌晩。王宮の広間は、皮肉なほど華やかな光に満ちていた。
新体制の確立を祝うための公式夜会。魔法のないこの世界において、これほどの大規模な照明を維持するには、数千本の蝋燭と、それを絶やさぬよう立ち働く無数の召使いたちの労働が必要だ。その圧倒的な富と権力の象徴こそが、この国の基盤であった。
私は特別顧問としての正装――母方の商会から届いた、深海のような蒼色のドレスを身に纏い、会場の隅に立っていた。
周囲の貴族たちは、私を「王の寵妃」として、畏怖と好奇の視線で眺めている。だが、今の私にとってそんなものは雑音に過ぎない。
夜会の半ば、会場の空気が不自然にざわめき始めた。
王宮の儀仗兵が、一人の賓客を案内してきたのだ。
「隣国からの特使の随行員、ルイス・フォン・クロムウェル卿でございます」
アナウンスされたその名に、私は持っていた扇を握りしめた。
ルイスは、非の打ちどころのない貴族の礼装に身を包み、堂々と広間へ現れた。隣国の有力貴族としての身分を公式に盾にし、新王であるヴィクトールですら、公の場で手を出せない完璧な「仮面」を被って。
彼は私を見つけると、周囲を惑わせるような美しい微笑を向け、そのまま中央へと進んだ。
演奏が始まり、ダンスの時間が訪れる。
魔法のない世界におけるダンスとは、言葉なき外交であり、魂の奪い合いだ。
ヴィクトールが、玉座から立ち上がり、誰よりも早く私の前へと歩み寄った。その一挙手一投足に、王としての絶対的な権威と、「誰にも渡さない」という剥き出しの宣戦布告が込められていた。
「……アステール伯爵令嬢。私と踊れ。これは王命である」
ヴィクトールは、私の目の前で、力強く、そして震えるほど真っ直ぐな手を差し出した。
周囲の令嬢たちが息を呑む。王が最初の一曲を、公的に「お気に入り」と認めた女性に捧げる。それはこの国において、婚約にも等しい重みを持つ行為だった。
だが、その手が私に触れる直前。
反対側から、滑り込むように洗練された影が現れた。
「――おやおや。これほど美しい女性を独り占めにするのは、王族の振る舞いとしても少々強引ではありませんか? 陛下」
ルイスが、王族への不敬にならないギリギリの距離で、しかし確実にヴィクトールの動線を遮るようにして立っていた。
彼は優雅に一礼し、王子への「配慮」を見せつつも、私に向かってその細く長い手を、ヴィクトールと全く同じタイミングで差し出した。
「メル。二十年前の続きを踊ろうか。君の手の温もりを、僕の指先はまだ覚えているよ」
会場が、氷りついたような静寂に包まれた。
右側には、若々しい熱量と、権力という名の重圧を纏った新王ヴィクトールの手。
左側には、洗練された余裕と、過去の因縁を武器にする亡霊ルイスの手。
二人の男は一言も交わさない。ただ、視線だけで火花を散らし、私という「安寧」の結節点を奪い合おうとしていた。
魔法など存在しない。空を飛ぶ鳥も、心を変える呪文もない。
あるのは、差し出された二つの手と、それを見つめる数百の好奇の目。そして、四十年の歳月を経てなお、安穏とした暮らしを願ってやまない、一人の女の困惑だけだ。
(……なにした私。いえ、本当になにしたのよ、私。ただ、のらりくらりと、お茶を飲んでいただけなのに)
私は、震える指先をドレスの裾に隠し、冷徹な思考を巡らせた。
どちらの手を取っても、私の平穏な四十路は、二度と元には戻らない。王子の執着か、過去の亡霊か。あるいは、そのすべてを薙ぎ倒して突き進む、さらなる茨の道か。
私は、差し出された二つの手を見つめたまま、ゆっくりと、そして優雅に一歩を踏み出した。
魔法のない異世界。
私の「のらりくらり」とした戦いは、ここからが本当の幕開けだった。




