第14話:綻びる仮面、王都に降り立つ不敵な影
王宮の空気が、ここ数日で目に見えて尖り始めていた。
魔法の概念が存在しないこの世界において、人の悪意や殺意は、目に見えぬ波動ではなく、物理的な事象となって現れる。回廊を巡回する近衛兵の数は倍になり、私の執務室の周囲には、常に抜き身の剣のような緊張感を湛えた兵たちが配置されるようになった。
それは守護という名の、甘美な監禁に近い。
「陛下、これは過剰ですわ。監査官の執務室の前に、これほど多くの兵を置く必要がどこにありますの?」
私は、内扉を開けて入ってきたヴィクトールに対し、机に積まれた報告書を指し示しながら抗議した。書類の受け渡しをする文官たちさえ、兵たちの威圧感に気圧され、まともに仕事ができないと言い始めている。
だが、ヴィクトールは私の言葉を気にする風もなく、私の隣に座ると、その冷たい指先で私の頬をなぞった。
「君の安全を確保することは、今の私にとって国庫の管理よりも優先順位が高い。……不満か?」
「不満ですわ。わたくしは陛下をお助けするためにここへ参りましたのよ。陛下の独占欲のために、国政を滞らせるなど本末転倒です」
私が突き放すように言っても、ヴィクトールの青い瞳には、燃えるような執着が揺らぐことなく宿っている。彼は私の手に自分の手を重ね、逃がさないように力を込めた。
「……隣国から来た不審な男が、王都の宿に腰を落ち着け、君の名を触れ回っているという報告が入っている。かつての知人、だそうだな?」
心臓が嫌な音を立てた。王子の情報網が、すでにルイスの尻尾を掴んでいる。
「……陛下、それは」
「言わなくていい。君が口にしたくない男のことなど、私の耳に入れる必要はない。ただ、そいつが君の平穏を乱すというのなら、私は王として、そして一人の男として、そいつの存在をこの国から抹消するだけだ」
ヴィクトールの声は、どこまでも冷酷で、一切の迷いがなかった。新王として血の断罪を終えたばかりの彼にとって、敵を排除することは呼吸をするのと同じくらい、当然の選択肢なのだ。
私はその夜、一人で執務室に残っていた。
ヴィクトールを説得し、強引に寝所へと戻らせた後の、束の間の静寂。
魔法のない世界において、夜の闇はすべてを隠してくれる防壁だと思っていた。だが、今夜の闇は、むしろ何かを招き寄せているような不気味な粘り気を持っていた。
(……二十年前、私はあの男を、この手で切り捨てたはずだったわ)
回想が、泥のように足元から這い上がってくる。
アステール家の財産に目をつけたルイスは、私を言葉巧みに惑わし、裏では他の令嬢とも浮名を流しながら、実家の乗っ取りを画策していた。私がそれに気づき、冷徹に婚約を破棄した時、彼は笑いながら言ったのだ。「君のような冷めた女を、私以外に誰が愛するというんだい?」と。
その言葉が、今の私を作った。誰にも頼らず、誰にも心を許さず、ただ数字だけを信じる「のらりくらり」とした四十年の人生。それを今さら、どのような面を下げて壊しに来たというのか。
不意に、窓の外から微かな音が聞こえた。
ガリ、という、硬い爪が石を掻くような音。
この国に魔法はない。空を飛ぶ術も、壁を抜ける術もない。だが、熟練の隠密技術や、あるいは狂気じみた執念があれば、三階にあるこの執務室のバルコニーに辿り着くことは、不可能ではない。
私はペンを置き、ゆっくりと立ち上がった。
護衛を呼ぶべきか。いや、ここで騒ぎを大きくすれば、ヴィクトールは間違いなくルイスをその場で斬り捨てるだろう。それは、私が望む「清算」ではない。
私は意を決して、バルコニーへの扉を開いた。
吹き込んできた夜風と共に、闇の中から一人の男が滑り込むように入ってきた。
月の光を背に受けて立つその姿は、二十年前と少しも変わらない、残酷なまでの美貌を湛えていた。
「――お久しぶり。僕の愛しい、メルセデス」
ルイス・フォン・クロムウェルは、優雅に一礼し、まるで自分の部屋に戻ってきたかのような厚かましさで微笑んだ。
「……不法侵入よ、ルイス。衛兵を呼べば、貴方は今夜のうちに処刑台へ送られることになるわ」
「おやおや、相変わらず冷たいね。二十年も経てば、少しは丸くなっているかと思ったけれど。……でも、その刺すような視線こそが、僕の知っているメルだ」
ルイスは私に歩み寄り、その白い指で、私が大切に守ってきた「事務官としての聖域」である机を汚すようになぞった。
「ずいぶんと立派な檻に飼われているじゃないか。あの若造の王様は、君の使い道を知っているようだ。……けれど、君の本当の価値を知っているのは、僕だけだと思わないかい?」
「貴方の言う『価値』とは、アステール家の金庫の鍵のことでしょう。……二十年前と同じく、貴方には何も渡さないわ。今すぐ消えなさい」
私が毅然と言い放つと、ルイスはクスクスと肩を揺らして笑った。
「金? ああ、それも魅力的だね。けれど、今の僕が欲しいのは、君そのものだよ。君が築き上げたその『鉄壁の安寧』を、内側からボロボロに崩して、僕を頼らざるを得ない状況に追い込む……。想像しただけで、ゾクゾクするじゃないか」
魔法のない世界において、言葉という名の毒は、時に物理的な刃よりも深く突き刺さる。ルイスの歪んだ執着は、王子のそれとは全く異なる、純粋な「破壊衝動」に満ちていた。
「――そこまでだ。その汚い手を、私の顧問から離せ」
背後で、内扉が激しく開かれた。
そこには、剣を抜き放ち、瞳に漆黒の殺意を宿したヴィクトールが立っていた。
王としての礼装は乱れ、肩で息をしている。彼は私がルイスと二人きりでいることに、理性が焼き切れるほどの激昂を感じているようだった。
「ヴィクトール……陛下!?」
「下がっていろ、メルセデス。……この男が、君を脅かしていた亡霊か。……今すぐ、その舌を引き抜いてやる」
王子の放つ武圧が、部屋中の空気を震わせた。魔法こそないが、死線を越えてきた王の放つ殺気は、物理的な圧力となってルイスを襲う。
だが、ルイスは恐れる風もなく、むしろ楽しげに目を細めた。
「おやおや、陛下。そんなに怖い顔をしないでください。僕はただ、古い友人と再会を楽しんでいただけですよ。……ねえ、メル。君の新しい飼い主は、ずいぶんと血の気が多いようだね」
私の平穏な四十路は、今、完全に崩壊した。
独占欲に狂う若き王と、過去を弄ぶ亡霊のような男。
二人の男の火花に挟まれ、私はただ、冷え切った夜の執務室で、かつてない激動の予感に震えるしかなかった。
「なにした私……いえ、もう、いいわ。やってやるわよ」
私は密かに拳を握り、目の前の二人を見据えた。
魔法のないこの世界で、私の「のらりくらり」とした戦いは、ここからが本当の本番だった。




