第13話:亡霊の羽音、平穏を裂く過去の記憶
燃え上がる暖炉の火が、叔父カシムからの密書を黒い灰へと変えていく。
パチパチと薪が爆ぜる音だけが、執務室の静寂を埋めていた。私はその灰が形を失い、完全に消え去るまで、じっと見つめ続けていた。
魔法の呪いなど存在しないこの世界において、最も人を縛り、心を蝕む呪いとは、すなわち「過去」という名の記憶に他ならない。
「……ルイス・フォン・クロムウェル」
二十年ぶりにその名を反芻しただけで、口の中に苦い砂を噛んだような感覚が広がった。
四十歳の私にとって、それは若き日の過ちという言葉で片付けるには、あまりにも重く、醜悪な泥濘であった。両親を亡くし、伯爵家を継いだばかりのうら若き私に、甘い言葉で近寄ってきた男。彼は私の心を求めていたのではない。アステール家の広大な領地と、母方の実家が持つ底なしの財産を、自らの放蕩の種にするために、執拗に婚約の座を狙っていたのだ。
私が「のらりくらり」と独身を貫き、他人を信じず、事務的な数字の世界に閉じこもるようになった元凶。その亡霊が、今さら何の用があって私の前に再び姿を現そうとしているのか。
「アステール。……何度呼べば気が済むのだ」
背後からかけられた低く鋭い声に、私は弾かれたように振り返った。
いつの間にか内扉が開いていた。そこには、険しい表情を浮かべたヴィクトールが立っていた。彼は私の手元にある、まだ煙を上げている暖炉と、そして私の顔を、交互に凝視している。
「……陛下。失礼いたしました。少々、考え事をしておりまして」
「考え事だと? 君がペンを持たず、白昼夢を見るなど、あってはならないことだ」
ヴィクトールは私に歩み寄り、机の上に置かれた帳簿に目を落とした。そこには、私が無意識のうちに書き連ねていた、意味をなさない数字の羅列があった。
「計算が合っていない。君らしくもない。……何があった。隣国の騎士団長からの報せに、何が記されていたのだ」
王子の観察眼は、恐ろしいほどに鋭かった。
私は動揺を隠すように、努めていつもの「のらりくらり」とした微笑を浮かべた。
「ただの親戚の近況報告でございますわ。叔父様はいつも大げさな書き方をなさいますの。……さあ、陛下。こちらの予算案の最終確認を――」
「誤魔化すな!」
ヴィクトールが机を強く叩いた。魔法のないこの世界では、その物理的な衝撃こそが、彼の激しい感情の吐露そのものだった。
「君の瞳は、今、ここにいない。……二十年間、君が誰にも触れさせず、誰にも見せなかった心の奥底に、何が入り込もうとしているのだ。私が、君の隣にいるというのに!」
ヴィクトールは私の肩を掴み、逃がさないように自分の方へと引き寄せた。
若き王の青い瞳には、私を独占したいという剥き出しの熱と、それ以上に、私の平穏を侵食しようとする見えない敵に対する、激しい敵意が宿っている。
「……陛下、これはわたくし個人の、とうの昔に終わった話でございます。陛下が煩わされるようなことではございません」
「君のすべては、今の私の管理下にある。……それを忘れたか」
ヴィクトールは私の耳元で、低く、威圧するように囁いた。
「君をこの王宮へ連れてきたのは、君を失わぬためだ。……何者にも、君の安寧を奪わせはしない。それが過去の亡霊であろうとな、私はそいつを何度でも処刑台へ送ってやる」
その苛烈なまでの言葉に、私はわずかに身を震わせた。
新王ヴィクトール。彼は有能で、冷徹で、そして一人の女に対する愛を、王としての支配欲と混同している。その危うさが、今の私には酷く重荷であり、同時に、どうしようもなく甘やかな救いのように感じられてしまうのが、自分でも恐ろしかった。
「……陛下、お顔が近すぎますわ。……それに、わたくしはそんなに守られるだけの、か弱い令嬢ではございません」
「知っている。君が数字で人を殺せるほど冷徹な魔女であることも、誰よりも図太く生き抜いてきたこともな。……だが、君が一人で抱えようとするその『孤独』だけは、私に分け与えろ。……命令だ」
ヴィクトールは私の指先を絡め取り、そのまま自分の唇に寄せた。
若々しい体温と、王としての冷徹な意志。その矛盾した熱が、私の心の澱を掻き回していく。
私は彼をいなす言葉を見つけられず、ただ黙って、彼に手を預けるしかなかった。
窓の外には、王都の夕闇が広がり始めている。
魔法のない世界において、夜は平等の闇をもたらすが、その闇の中から這い出してくる「過去」を止める術を、私はまだ持っていなかった。
同時刻、王都の賑やかな大通りを、一頭の美しい白馬に跨った貴公子が、ゆったりとした足取りで進んでいた。
彼の纏う衣服は、王都の最新の流行とは一線を画す、隣国の洗練された仕立て。すれ違う女性たちが一斉に頬を染めて振り返るほどの美貌を湛えたその男――ルイス・フォン・クロムウェルは、王宮の巨大な尖塔を見上げ、優雅に唇を歪めた。
「……ずいぶんと立派な檻に囲い込まれているようじゃないか、メルセデス」
彼は懐から、かつて自分が彼女に贈った――そして、二十年前に突き返されたはずの、琥珀のブローチを取り出した。
「だが、お前の安寧を壊せるのは、この世で私だけだ。……二十年前の続きを始めよう。今度は、逃がさないよ」
王宮の執務室で、ヴィクトールの腕の中に囚われていた私は、不意に背筋を凍らせるような嫌な予感に襲われた。
「……アステール、どうした」
「……いえ。少し、寒気がしただけですわ。……陛下、そろそろ離していただけません? まだ決済しなければならない書類が残っておりますの」
私はのらりくらりとその腕をすり抜け、再びペンを取った。
若き王の執着と、過去の亡霊の再臨。
私の甘美な安寧は、今、音を立てて崩れ去ろうとしていた。
迫りくる嵐の気配を感じながら、私はただ、目の前の確かな数字だけを信じるように、必死に机に向かい続けた。




