第12話:牙を剥く静寂、王の独占欲は理性を焼く
王宮という場所は、驚くほど現金な場所である。
女官局の長年積もり積もった不正を、魔法も権力も使わず、ただ「数字」と「市場価格」という極めて現実的な暴力で粉砕してから数日。私の周囲を覆っていた、あの棘のような視線は、いつの間にか霧散していた。
だが、それが好意に変わったわけではない。
「……おはようございます、アステール顧問」
廊下ですれ違う官僚や女官たちは、深々と頭を下げる。だがその瞳の奥には、腫れ物に触れるような、あるいは深淵を覗き込むような明らかな「畏怖」が張り付いていた。
かつて私を「四十路の妖婦」と嘲笑っていた者たちは、今や私の姿を見るなり、音を立てずに道を空ける。それはかつての王妃が持っていた、恐怖による支配に近いものだった。
(……あらあら、随分と静かになったものだわ)
私はのらりくらりと、誰とも目を合わせずに自室へと続く回廊を歩く。
平穏。そう、状況だけを見れば平穏そのものだ。嫌がらせの書類は届かず、直接的な罵声を浴びることもない。だが、この「誰も寄ってこない静寂」は、魔法のない世界において、一人の人間が社会的に孤立していることを意味する。
四十歳の私にとって、それは望むところですらあったが、それを許さない男が一人だけいた。
「アステール。顔色が悪いな。……少し、休みが必要だ」
執務室の内扉を開けて入ってきたヴィクトールは、開口一番、私の手からペンを取り上げた。
「陛下、まだ本日の予算案の精査が残っております。顔色が悪いのは、昨晩の寝酒が少しばかり強かったせいかと」
「嘘を言うな。君は、王宮内の誰とも話をしていない。……私が、君をこの場所に縛り付けたせいで、君から笑顔を奪ったのか?」
ヴィクトールの青い瞳には、燃えるような熱量と、それと同じくらい深い焦燥が宿っていた。
彼は、周囲が私を恐れ、遠ざけている現状に、私以上に心を痛めているようだった。いや、それは痛みというよりも、「自分以外に彼女を理解する者がいない」という、歪んだ充足感に近いのかもしれなかった。
「……来い。見せたいものがある」
ヴィクトールは私の返事を聞く前に、その力強い手で私の手首を掴んだ。
魔法のないこの世界で、王の手の熱は、ダイレクトに私の肌へと伝わってくる。彼はそのまま、王宮の最深部、限られた王族しか立ち入りを許されない「秘密の温室」へと私を導いた。
そこは、石造りの王宮の無機質さとは対照的な、緑溢れる楽園だった。
建物の構造を工夫し、地下から温水を循環させることで冬の寒さを防ぐ、物理的な叡智の結晶。魔法のない世界でこれほどの熱帯植物を育てるには、どれほどの労力と金銭が費やされたことか。
「ここは……亡き先王陛下が、孤独を癒やすために作らせた場所だ」
ヴィクトールは私の手を離し、色鮮やかに咲き誇る花々を見つめた。
「外の世界は、常に誰かが誰かを欺き、血を流し、権力を奪い合う。だが、ここには静寂しかない。……アステール。君を、ここへ閉じ込めてしまいたくなる」
その言葉は、冗談には聞こえなかった。
ヴィクトールは私を振り返り、その若々しい横顔に、暗い独占欲を滲ませた。
「顧問としての君の有能さは、今や王宮中の知るところだ。誰も君に逆らえぬようになった。だが、それは君をさらに孤独にするだけだ。……もういい。顧問など、辞めてもいいのだぞ」
「陛下、何を仰いますの」
「辞めて、私の手の届く場所で、ただ守られていろ。外の敵、数字の計算、官僚たちの策謀……そんなものはすべて私が引き受ける。君は、ここでただ花を眺めていればいい」
王子の言葉は、一見すれば極上の甘い誘惑だろう。
二十歳も年下の、一国の王が、すべてを捨てて自分を愛し、守ると言っているのだ。
だが、私の中に湧き上がったのは、甘いときめきではなく、四十路の女としての「呆れ」だった。
「――陛下」
私はゆっくりとヴィクトールに歩み寄り、彼の手を、今度は私の方からそっと包み込んだ。
「陛下は、わたくしをそんなに弱くお見積りかしら? あるいは、わたくしを『のらりくらり』としか生きられない、中身のない飾り物だと思っておいで?」
「……そんなことは思っていない」
「いいえ、思っていらっしゃいますわ。陛下は、わたくしを籠に閉じ込め、陛下がいなければ生きていけない存在にしたいのでしょう。……ですが、残念ながら、わたくしは陛下が生まれる前から、この泥臭い世界で一人で生きてきましたの。数字を武器に戦うことも、孤独を友にすることも、わたくしにとっては日常です」
私はヴィクトールの青い瞳を真っ向から見据えた。
「陛下が守るべきは、わたくし一人ではなく、この国の民であり、未来でございます。わたくしをここに閉じ込めてしまえば、陛下を支える片翼を自ら折ることになりますわよ。……陛下は、そんなに愚かな王でいらっしゃいますか?」
ヴィクトールは息を呑み、言葉を失った。
私の言葉は、魔法のような力はないが、長年の人生経験に裏打ちされた重みがある。彼は、自分の独占欲が、いかに彼女を侮辱するものであったかを悟ったのか、顔を赤らめて視線を逸らした。
「……君には、勝てないな」
「当たり前ですわ。陛下より二十年も長く、お茶を啜っておりますもの」
私が微笑むと、温室の中の張り詰めた空気が、ようやく和らいだ。
ヴィクトールは私の手を握り返し、今度は支配するためではなく、等身大の青年として、そっと自分の額を私の手に押し当てた。
「……すまない。君が眩しすぎて、自分の闇に引き込みたくなった。……明日からも、隣の部屋で、私の背中を叩いてくれ。君がいなければ、私はただの冷徹な怪物に戻ってしまう」
私たちは、しばらくその秘密の花園で、静かな時間を共有した。
魔法のない世界。人と人が分かり合うには、こうして言葉を尽くし、熱を伝え合うしかない。その不器用さが、今の私には酷く愛おしく感じられた。
だが、温室を出て、自室に戻った私を待っていたのは、平穏への更なる刺客だった。
「……お嬢様。お忍びで、叔父様からの急使が参っております」
執事が差し出した一通の密書。そこには、叔父カシムの力強い、だがどこか焦りのある筆跡で、こう記されていた。
『隣国の社交界に、死んだはずの男が現れた。……メル、お前の『かつての婚約者』、ルイス・フォン・クロムウェルだ。奴は、お前を連れ戻すと豪語している。用心しろ』
手に持っていた密書が、指先から滑り落ちた。
「……ルイス?」
二十年前、私がこの「のらりくらり」の人生を選び、実家を死守する決意をした元凶。
王子の執着という名の底なし沼に加え、過去の亡霊が、私の安寧を食らい尽くそうと動き始めていた。
「なにした私……いえ、これはもう、私が何かしたなんてレベルじゃないわね」
私は震える手で、冷えたお茶を飲み干した。




