第19話:共犯者の誓い、執務室の夜は更けて
王宮へ戻る馬車の中、私とヴィクトール様の間には、降り続く雨の音だけが響いていた。
共にずぶ濡れになり、王と顧問という立場を忘れて泥にまみれた夜。魔法のないこの世界では、冷えた体温はそのまま命の危機に直結する。私は四十歳の分別の火を灯し、王宮へ着くなり、動揺する使用人たちを叱咤して湯を用意させた。
「陛下、まずはその濡れた衣類を脱いでくださいませ。わたくしが温かい飲み物を用意いたします」
私は執務室の暖炉に火を入れさせ、自分も手早く着替えると、母方の実家から届いていた滋養強壮に効く薬草茶を淹れた。ヴィクトール様は、先ほどまでの激昂が嘘のように静かになり、大きな毛布に包まって私の手元をじっと見つめている。
寺院で私がぶつけた、「分かってほしかった」という本音。それが、若き王の頑なな独占欲を、別の形へと変質させてしまったようだった。
「……アステール。すまなかった」
温かいカップを差し出した時、ヴィクトール様が掠れた声で呟いた。
「何に対する謝罪でしょうか、陛下。わたくしを雨の中に放置したことですか? それとも、あのように物騒な剣を振り回したことかしら」
「……君を信じられなかったことだ。いや、信じられなかったのではない。君が、私なしでも完璧に物事を解決してしまうことが……怖かったのだ」
ヴィクトール様は、お茶の湯気の向こうで、初めて自分の「弱さ」を露わにした。
「私が王として、男として、君をこの手で守らなければ、君はいつか、そののらりくらりとした足取りで、私の届かない場所へ消えてしまうのではないか。そう思うと、理性が焼き切れるような焦燥に駆られるのだ」
魔法のない世界において、想いを伝える手段は、こうして言葉を尽くすしかない。
私は、彼の震える指先をそっと包み込んだ。二十三歳の若き肌は、先ほどの冷たい雨を忘れさせるほどに、熱を帯び始めている。
「……陛下。わたくしは、ここにいますわ。陛下が用意してくださった、この埃っぽい執務室の椅子が、今のわたくしの居場所です」
私は努めて穏やかに、そして事務官としての冷静さを込めて告げた。
「わたくしは陛下を信じて、わたくしの過去という『汚れ』を陛下の御手に触れさせぬよう、独りで清算しようといたしました。陛下がそれを『水臭い』と仰るのであれば、これからは、より醜い実務の裏側をお見せすることになりますわよ。……覚悟はよろしくて?」
私はそのまま、机に積み上げられた書類の山へと向き直った。
ルイス・フォン・クロムウェル。あの亡霊に引導を渡すための、最終段階である。
私は夜通しで筆を走らせた。隣国の王室へ宛てた、特使随行員による不適切な資金流用と、我が国の貴族に対する恐喝の事実を記した公式な抗議文書。そして、母方のアルフォンス商会による、クロムウェル家の資産差し押さえを確定させるための、複雑な契約の詰め。
魔法で相手を消し去ることはできないが、数字と法律を積み上げれば、相手を社会的に葬り去ることはできる。
ヴィクトール様は、私の隣でその作業をじっと見守っていた。
私がペンを動かす音。彼が時折、温かいお茶を啜る音。
窓の外。雨が上がり、東の空が白み始める頃、私は最後の一枚に、特別顧問としての署名を記した。
「……終わりましたわ。これで、ルイスが再びわたくしの前に現れることは、二度とございません」
権利書は、既に私の手元にある。二十年前の過ちは、今、完全に灰となって消えたのだ。
私は椅子の背もたれに深く体を預け、大きく溜息を吐いた。
「……見事だな、メルセデス」
ヴィクトール様が、椅子の傍らに立ち、私の肩にそっと手を置いた。
「剣を振るうよりも、君のペンの方が、遥かに残酷で確実だ。……私は、そんな君を恐れるべきなのかもしれん」
「あら、陛下。わたくしを怒らせなければ、このペンは陛下の最大の味方になりますわよ」
私が冗談めかして微笑むと、ヴィクトール様は膝を突き、私の手を取って、その甲に深く接吻した。
「……分かっている。君は、私の片翼だ。……これからは、君の覚悟を疑うような真似はしない。君が独りで戦うというのなら、私はその背後で、誰にも邪魔をさせぬよう盾になろう」
それは、一方的な保護ではなく、対等な「共犯者」としての誓いだった。
王子の瞳からは、先ほどまでの子供のような嫉妬が消え、大人の男としての、深い覚悟と敬愛が宿っていた。
夜明けの光が、執務室の床に長い影を落とす。
私たちは、共に徹夜の疲労を感じながらも、どこか晴れやかな気持ちで朝の訪れを迎えていた。
「……陛下、そろそろ朝食のお時間ですわ。今日は特別な燻製肉をご用意させますから、しっかり食べて公務に励んでくださいませ」
「ああ。……だが、その前に一つだけ言っておく」
ヴィクトール様は、私の手を握ったまま、不敵に笑った。
「あの男は去ったが、君を狙う影が消えたわけではない。王宮内でも、君を王の弱点だと見なす者が増えている。……これからは、私がお前の傍を離れん。仕事中も、食事中もだ」
「……はい?」
「共犯者なのだろう? ならば、隠し事はなしだ」
のらりくらりと逃げる道は、どうやら完全に塞がれてしまったらしい。
私は、繋がれた手の熱に、かつてない安寧の予感と、それ以上の「多忙」な予感を覚えて、密かに天を仰いだ。
魔法のない異世界。
王子の執着という名の黄金の鎖は、私の過去を浄化した代わりに、私をより深く、王宮という名の底なし沼へと引きずり込んでいく。
だが、その重みが今は、不思議と心地よいことを、四十歳の私は認めざるを得なかった。
「……陛下。お顔が近すぎますわよ。……さあ、仕事(朝食)の時間ですわ」
私は微笑み、王子の手を引いて、新しい一歩を踏み出した。




