傷は時間が解決するものではない、受け入れることが出来るか、だ
「…………」
俺は目の前にいる帝暁を見つめたまま、すぐには返事をしなかった。
「ねえ」
「…………」
「聞いてる?」
「聞いてるよ」
「だったら早く答えなさいよ」
痺れを切らしたように暁が一歩こちらへ近づいてくる。
「私と友達になるの? ならないの?」
「いや……」
「何よ」
「近い」
「は?」
帝は一瞬きょとんとしたあと、言われて初めて気づいたように自分と俺との距離を確かめる。
確かに近い。
あと少しどちらかが動けば肩が触れてしまいそうな距離で、普段から誰かと話す時でさえ必要以上に間を空けてしまう俺にとっては、普通に会話するには少し落ち着かない近さだった。
「これくらい普通でしょ」
「俺にとっては普通じゃないんだよ」
「何それ」
「女子とこんな距離で話すことなんて、ほとんどないから」
「…………」
帝が黙った。
気のせいかもしれないけれど、さっきまで強気だった表情が一瞬だけ崩れ、頬がほんの少し赤くなったようにも見える。
「だったら、さっさと答えればいいじゃない」
「だから考えてるんだって」
「友達になるかどうかで、何をそんなに考えるのよ」
「俺には結構重要なんだよ」
実際、俺にとって『友達』という言葉は、それほど軽いものではなかった。
今日初めて会ったばかりの相手で、しかも少しぶつかっただけなのに土下座まで要求してきた女子と、いきなり友達になるかと聞かれているのだから、少しくらい警戒するのは普通だと思う。
「…………」
「何よ、その顔」
「別に」
「今、絶対失礼なこと考えてたでしょ」
「考えてないよ」
「嘘」
「本当だって」
「怪しい」
帝が疑うように目を細め、そのままさらに一歩踏み込んできた。
「ちょっ、だから近いって!」
「だったら早く答えなさいよ!」
「急かすなよ!」
思わず一歩後ろへ下がる。
すると、さっきまで不満そうだった帝の表情が僅かに変わった。
「…………」
「何?」
「今の反応」
「は?」
「私のこと、怖がってる?」
「いや……」
すぐには答えられなかった。
怖くないと言えば、たぶん嘘になる。
空手をやっているらしいし、さっきは土下座まで要求されたうえ、今だってかなり近い距離から睨まれているのだから、普通に考えれば多少は怖い。
けれど、その一瞬の迷いを帝は別の意味に受け取ったらしい。
「……やっぱり、あんたも同じなの?」
「同じって何が――」
帝の手に力が入り、指先がゆっくりと丸まっていく。
拳が固く握られた、その時だった。
「暁!」
鋭い声が背後から響いた。
暁の動きがぴたりと止まる。
俺も振り返ると、校門の方から一人の女子がこちらへ駆けてくるのが見えた。
「あ……」
見覚えがある。
入学式で、新入生代表として壇上に立っていた女子だ。
黒髪をポニーテールにまとめ、何百人もの前でも堂々と挨拶していた、明るい雰囲気の少女。
名前は確か――帝雪。
そして、こうして近くで見ると改めてよく分かる。
「やっぱり……似てるな」
暁と、ほとんど同じ顔をしている。
入学式の時にも思ったけれど、どうやら本当に双子らしい。
ただ、今の二人を見ていると、そんなことを気にしていられる空気ではなかった。
「何してるの、暁」
「雪には関係ない」
「関係あるよ」
「ない」
「あるって」
帝雪は息を整える間もなく暁の前まで来ると、俺との間に割って入るように立った。
「入学初日なんだよ?」
「だから何」
「だからって……」
帝雪は一度だけ俺を見たあと、すぐに姉へ視線を戻す。
「また、拳で何とかしようとするの?」
「…………」
その一言で、空気が変わった。
さっきまでの言い合いとは明らかに違い、暁の表情から余裕が消え、その目だけが急に鋭くなる。
「雪」
低い声だった。
「何?」
「それ以上言わないで」
「でも、暁――」
「あんたにだけは言われたくない」
「…………っ」
帝雪の表情が固まった。
「暁……」
「何よ」
「私は……」
何かを言おうとしている。
けれど、その先が続かない。
暁はそんな妹の顔を見ていられないように視線を逸らした。
「もういい」
「よくないよ」
「いいって言ってるでしょ」
「私は、あの時――」
「言うなっ!」
暁の声が周囲へ響いた。
「…………」
近くを歩いていた何人かの生徒が驚いたようにこちらを見る。
その視線に気づいた暁は、さっきまでの勢いを押し込めるように強く唇を噛んだ。
「ここで、その話をしないで」
「……ごめん」
「謝らないで」
「でも……」
「聞きたくない」
「…………」
帝雪さんはそれ以上何も言えなくなり、俯いたまま制服の裾を握った。
「…………」
俺には、二人が何の話をしているのか分からなかった。
ただ、普通の姉妹喧嘩ではないということだけは分かる。
双子なのだから、昔は誰よりも近い存在だったのかもしれない。
同じ家で育ち、同じ年齢で、同じ時間を過ごしてきたはずなのに、今の二人の間には他人が簡単に踏み込めないほど深い何かがあるように見えた。
「……櫻坂君」
帝雪さんが俺を見る。
「え?」
「ごめんなさい。暁が――」
「雪」
暁がすぐにその言葉を遮った。
「勝手に私の代わりに謝らないで」
「でも……」
「私は自分で話せるから」
「…………」
帝雪さんが黙る。
暁は小さく息を吐くと、気持ちを切り替えるように俺へ向き直った。
「櫻坂」
「何?」
「さっきの話」
「友達?」
「……そう」
今度の暁は、さっきまでの勢いが嘘だったように少しだけ視線を逸らしていた。
「嫌なら、嫌って言って」
「…………」
「別に、無理にとは言わないから」
あれほど答えを急かしていたのに、今はどこか自信がなさそうで、それどころか断られることを少し怖がっているようにも見える。
「一つ聞いていい?」
「何よ」
「何で俺なの?」
「え?」
「今日会ったばかりだろ。何で俺と友達になりたいんだ?」
「…………」
暁はすぐには答えなかった。
少し迷うように視線を泳がせたあと、小さく息を吐く。
「私、男子と話すの得意じゃないの」
「そうなの?」
「見れば分かるでしょ」
「まあ……」
「そこは否定しなさいよ」
「嘘ついても仕方ないし」
「ほんっと、あんたって……」
暁が眉を寄せる。
けれど、今度は怒らなかった。
「男子って、私を見ると大体距離を取るのよ」
「…………」
「怖がるか、変に気を遣って機嫌を取ろうとするか、そのどっちか」
「空手で脅すからじゃない?」
「…………」
「…………」
「それもある」
「あるんだ……」
「うるさい」
少しだけ刺々しさが戻った。
でも、不思議と嫌な感じはしなかった。
「でも、あんたは違った」
「何が?」
「私が怒ってても普通に言い返してきた」
「理不尽だったから」
「土下座も断った」
「普通は断るだろ」
「空手をやってるって言っても、態度を変えなかった」
「殴られたら普通に嫌だけどな」
「…………ふふっ」
「?」
暁が小さく笑った。
それは、教室で見た鋭い顔とも、さっき俺を睨んでいた時の顔とも違っていて、ほんの一瞬だけ年相応の女の子らしい柔らかさが見えた。
「そういうところ」
「どういうところだよ」
「私を普通に扱うところ」
「…………」
「怖がったり、持ち上げたりしないで、普通に同級生として話すでしょ」
「同級生なんだから普通だろ」
「だから、それがいいの」
暁は少し照れたように視線を逸らした。
「もしかしたら……あんたとなら普通に友達になれるかもしれないって思った」
「…………」
その言葉を聞いて、俺は少しだけ考え込む。
何となく横を見ると、帝雪さんは黙ったまま暁を見つめていた。
その表情が妙に気になった。
姉が誰かと友達になろうとしていることを嬉しく思っているようにも見えるのに、それと同時に、どこか寂しそうでもある。
「暁……」
「何?」
「…………」
帝雪が何かを言いかける。
「その……」
「何よ」
「……ううん。何でもない」
「…………」
暁は怪訝そうに妹を見る。
けれど、それ以上追及することはなかった。
「…………」
二人に何があったのか。
俺には分からない。
ただ、さっきまで暁に抱いていた『乱暴で面倒そうな女子』という印象は、少しだけ変わっていた。
言葉も態度も荒いし、人との距離の取り方だって、たぶんかなり下手なのだろう。
けれど、それだけではないらしい。
「……俺でいいなら」
「え?」
「友達になるよ」
「…………」
暁の目が大きく開いた。
「本当に?」
「自分から誘っといて何で驚くんだよ」
「だって……」
「まあ、友達になるくらいなら」
「…………」
「ただし、一つ条件」
「何?」
「すぐ拳を握るのはやめてくれ」
「…………」
「俺、痛いの嫌だから」
「……分かった」
「本当に?」
「努力する」
「努力じゃなくて、やめてくれよ」
「うるさいわね」
「そういうところだぞ」
「殴るわよ?」
「もう破ってるじゃん」
「…………あ」
「早すぎるだろ」
「今のは言っただけだから」
「屁理屈だな……」
そう言うと、暁が少しだけ笑った。
その笑顔につられて、俺も僅かに口元が緩む。
「じゃあ、今日から友達ね」
「うん」
「後からやっぱり無しとか言わないでよ」
「言わないよ」
「絶対?」
「多分」
「殴るわよ」
「だから!」
「冗談よ」
「暁の冗談は怖いんだよ……」
そんなやり取りをしていると、
「……よかった」
小さな声が聞こえた。
帝雪だった。
「何が?」
暁が振り向く。
「…………何でもない」
「何よ」
「本当に何でもないから」
「…………」
暁は納得していないようだった。
それでも帝雪さんは、それ以上何も言わず、ただ姉の姿を静かに見つめている。
「…………」
その目を見ていると、何となく思う。
この子は本当は、暁に何かを伝えたいんじゃないだろうか。
言いたいことがある。
伝えたいことがある。
けれど言えないというより、言おうとするたびに暁の方が拒んでしまう。
そんなふうに見えた。
「じゃあ」
俺は鞄を持ち直した。
「俺、そろそろ帰るよ」
「もう帰るの?」
暁が尋ねる。
「家事もあるし、教科書も少し見ておきたいから」
「……真面目なのね」
「家帰っても暇なんだよ」
「そう」
「それに、明日また会うだろ」
「まあ……同じクラスだし」
「じゃあ、また明日」
「…………」
二人へ背を向け、歩き出そうとする。
「櫻坂」
「ん?」
振り返る。
暁は少しだけ言いづらそうな顔をしたあと、小さく口を開いた。
「……また明日」
「うん。また明日」
それだけ答え、もう一度前を向こうとする。
「櫻坂君」
今度は帝雪から呼び止められた。
「何?」
「…………」
帝雪は一度だけ暁を見る。
それから、少し迷った末に俺へ視線を戻した。
「暁のこと……よろしくね」
「雪」
暁の声が低くなる。
「そういうこと言わないで」
「…………ごめん」
「だから」
暁の表情が苦しそうに歪んだ。
「謝らないでって言ってるでしょ」
「…………」
帝雪は、それ以上何も言えなくなった。
「…………」
ごめん。
謝らないで。
たったそれだけのやり取りなのに、妙に胸に残った。
何を謝っているのか。
どうして暁は、妹から謝られることをそこまで嫌がるのか。
今の俺には何も分からない。
ただ、二人の間に俺の知らない何かがあることだけは確かだった。
「……じゃあ、また明日」
これ以上ここにいるのも違う気がして、俺は今度こそ歩き出した。
しばらく進んだところで、何となく気になって振り返る。
「…………」
二人はまだ同じ場所に立っていた。
帝雪は暁を見ている。
けれど、暁は妹の方を見ようとしない。
同じ顔をした双子なのに、その間には目に見えない壁でもあるように感じられた。
「…………」
その壁が何なのか、俺にはまだ分からない。
そして、今日会ったばかりの俺が簡単に踏み込んでいいものでもないのだろう。
「帰るか……」
前を向き、再び家へ向かって歩き始める。
今日は朝から、本当に色々なことがありすぎた。
由美姉ちゃんと四年ぶりに再会して、妙に小柄なのに逆らいにくい担任には早速目をつけられ、小鳥遊という由美姉ちゃんと同じ名字の女子にも出会った。
そして、帝暁と友達になった。
その双子の妹である帝雪とも、初めて言葉を交わした。
まだ入学初日だというのに、昨日まで名前すら知らなかった人たちが、少しずつ俺の周りに増えている。
今までの俺なら、それを面倒だと思っていたはずだ。
人と関われば、それだけ考えることも増える。
相手のことを気にしたり、自分がどう見られているのかを気にしたり、時には余計な問題に巻き込まれることだってあるのだから、一人でいた方がずっと楽だと思っていた。
「…………」
それなのに、今日だけは不思議とそこまで嫌ではなかった。
由美姉ちゃんと再会できたことも。
小鳥遊という気になる同級生ができたことも。
土下座を要求してきた暁と、なぜか友達になったことも。
面倒と言えば面倒なのかもしれない。
けれど、それだけではないような気がしている。
明日になれば、また同じ教室へ行く。
そこには暁がいて、小鳥遊がいて、学校のどこかには由美姉ちゃんもいる。
そう考えると、この学校で過ごす明日がほんの少しだけ気になった。
一人でいる方が楽だと思い続けてきた俺が、誰かと会うために明日を気にしている。
そんな自分自身の変化が、今日一番の驚きだった。




