不器用な人ほどまっすぐに言葉を向けてくる
「ふわぁぁ……へっくしゅっ!」
くしゃみと一緒に身体が跳ね、その勢いで椅子までガタッと大きな音を立てた。
「…………」
静かだった教室に思った以上の音が響き渡り、何人かがこちらを見たような気がして、俺は反射的に顔を伏せる。
「……最悪」
気のせいだ。
今のは誰も見ていなかったし、もし見ていたとしても、ただくしゃみをしただけなのだからすぐに忘れる。
そういうことにしておこう。
恐る恐る顔を上げると、枢木先生は教卓の前に立ったまま、明日の予定について説明を続けていた。
どうやら二度目の自己紹介を終えたあと、そのまま机へ突っ伏して眠ってしまっていたらしい。
「…………寝てたな」
それも、少し目を閉じたという程度ではなく、先生の説明をほとんど聞いていないくらいにはしっかり眠っていた。
入学初日から遅刻して、教室へ入った途端に罰として自己紹介をさせられ、そのあと入学式に参加し、戻ってきたと思ったら今度は正式な自己紹介でもう一度クラス全員の前に立たされる。
人から注目されるだけでも疲れる俺にとっては、たった半日しか経っていないとは思えないくらい長い一日だった。
だから眠くなったのも仕方がない――と言いたいところだが、だからといってホームルーム中に寝ていい理由にはならない。
「……すみません、先生」
もちろん聞こえないくらいの小さな声で、一応だけ謝っておく。
しばらくすると枢木先生が手にしていたプリントを閉じ、教室全体を見渡した。
「それじゃあ今日はここまで。明日からは通常通りだから、遅刻しないように」
その最後の言葉と同時に、先生の視線が真っ直ぐ俺へ向いた。
「…………」
「特に櫻坂」
「俺ですよね、それ」
「他に誰がいるの?」
「明日はちゃんと来ますよ」
「今日もそのつもりだったんでしょう?」
「…………」
何も言い返せない。
その通りだから余計に困る。
「じゃあ、解散」
枢木先生の言葉を合図に、それまでホームルームらしい静けさを保っていた教室の空気が一気に緩み、椅子を引く音や鞄のファスナーを閉める音、近くの席同士で交わされる会話があちこちから聞こえ始めた。
「俺も帰るか……」
立ち上がり、教室の後方に並んでいる自分のロッカーへ向かう。
中には今日配られたばかりの教科書が何冊も入っていて、本音を言えばこのまま全部置いて帰りたかった。
ただ、光陽学園は県内でもそれなりに名の知れた進学校で、明日からは早速授業も始まるらしい。
少しくらい目を通しておいた方がいいだろう。
「…………」
家へ帰ったところで、特にやりたいことがあるわけでもない。
将来何になりたいのかもまだ決まっていないし、これといって夢中になれるものがあるわけでもなかった。
だからこそ、今の自分にできることくらいはやっておこうと思っている。
勉強をしておけば、少なくとも将来何かやりたいことを見つけた時、そのための選択肢を自分から狭めずに済むかもしれない。
「この辺でいいか」
明日使いそうな教科書を何冊か取り出し、腕に抱える。
そのままロッカーを閉じて振り返った瞬間だった。
「っ!」
「きゃっ」
すぐ後ろにいた誰かとぶつかった。
腕に抱えていた教科書が大きくずれ、落としそうになったものを慌てて抱え直す。
「ごめん」
反射的に謝りながら顔を上げる。
そこに立っていたのは、見覚えのある女子だった。
俺より少し背が低く、肩につかないくらいの黒髪に、少し鋭い目。
「あ……」
すぐに、さっきの自己紹介を思い出す。
帝暁。
『好きなことは空手。嫌いなものは妹です』
そんなことを堂々と言い切り、教室の空気を一瞬だけ止めた女子だ。
「急に振り返った俺が悪かった。ごめん」
「…………」
帝は何も言わなかった。
怪我をした様子もないし、教科書が当たったわけでもない。
俺としてはちゃんと謝ったつもりだったので、これで終わりだと思った。
「じゃあ」
その横を通り過ぎようとする。
「待ちなさいよ」
「ん?」
すぐに呼び止められた。
振り返ると、帝は少し不満そうな顔でこちらを見ていた。
「私にぶつかって、それだけ?」
「それだけって?」
「『ごめん』で終わりなの?」
「…………」
どういうことだ。
「ちゃんと謝ったつもりだけど」
「誠意が足りない」
「誠意?」
「そう」
帝は腕を組み、そのまま当然のことを言っているような顔で俺を見る。
「もっとちゃんと謝りなさいよ」
「じゃあ……本当にすみませんでした」
言われた通り、今度は少し丁寧に頭を下げる。
「…………」
「これでいい?」
「軽い」
「難しいな……」
思わず本音が漏れると、帝の眉が僅かに動いた。
「あんた、私のこと舐めてる?」
「舐めてないよ」
「私、空手やってるって言ったわよね?」
「言ってたな」
「その気になったら、あんたくらい簡単に――」
「それ、謝罪と関係ある?」
「…………」
帝の言葉が止まる。
「俺がぶつかったのは悪かったから謝った。でも、空手が強いかどうかは関係ないだろ」
「…………」
「それとも、何か他にしてほしいことがあるの?」
そう聞くと、帝は少しだけ考えるように黙り込み、それから真顔で答えた。
「土下座」
「…………はい?」
「土下座しなさい」
一瞬、本当に聞き間違えたのかと思った。
ぶつかっただけで、どうしてそこまで話が大きくなるのか分からない。
「いや、しないけど」
「何でよ」
「何でって……ぶつかっただけだろ?」
「私にぶつかったのよ?」
「それがどうしたんだよ」
「…………」
「怪我させたなら話は別だけど、そうじゃないだろ?」
「そうだけど」
「なら謝った。それで終わりでいいじゃん」
「…………」
帝と見つめ合う。
数秒ほど妙な沈黙が続いたものの、俺としてはこれ以上何を言えばいいのか分からなかった。
「じゃあ、俺帰るから」
「ちょっと!」
「土下座はしないよ」
「まだ話終わってない!」
「俺の中では終わった」
「何なのよ、あんた!」
「普通の一年生」
「そういうこと聞いてない!」
後ろから帝の声が飛んできたが、俺はそのまま自分の席へ戻った。
「…………」
鞄へ教科書を入れながら、少しだけ気になって振り返る。
帝はまだ同じ場所に立っていて、明らかに怒っているようには見えるのに、それだけではなく、どこか珍しいものでも見るような顔でこちらを見ていた。
「何なんだよ……」
入学初日から、また面倒そうな人と関わってしまった気がする。
◇
昇降口で上履きを脱ぎ、ローファーへ履き替えて外へ出ると、校門へ向かう新入生たちの姿があちこちにあった。
すでに友達らしき相手と並んで歩いている人もいれば、スマートフォンを見ながら一人でバス停へ向かう人もいるし、何人かで集まって楽しそうに話しながら帰っていく集団までできている。
「もう友達できてるのか……」
まだ入学初日だぞ。
少し早すぎないかと思う。
俺なんて今日まともに話した同級生すらほとんどいないのに、どうやったら数時間であんなふうに打ち解けられるのだろう。
とても真似できそうにない。
まあ、別に焦る必要もないか。
一人でいる方が楽なのは昔からだし、高校へ入ったからといって無理に誰かと仲良くしなければならないわけでもない。
「帰ったら教科書読んで……そのあと寝るか」
今日の予定を考えながら校門を出る。
俺の家は学校からそれほど遠くなく、徒歩でも十分に帰れる距離なので、そのまま住宅街へ向かって歩き始めた。
しばらく歩いた、その時だった。
「あんた」
「…………」
後ろから声がした。
聞き覚えがある。
それも、今はあまり聞きたくなかった声だった。
「櫻坂っていうのよね?」
「…………」
振り返る。
そこには案の定、帝暁が立っていた。
「はぁ……」
「何よ、そのため息」
「何でもない」
「今、絶対『またこいつか』って思ったでしょ」
「よく分かったな」
「否定しなさいよ!」
「嘘つくのも悪いだろ」
「ほんっと腹立つわね、あんた……」
「それで、何か用?」
「…………ある」
そう答えたわりに、帝はすぐには何も話そうとしなかった。
代わりに俺の隣まで来ると、そのまま当然のように同じ方向へ歩き始める。
「…………」
仕方なく俺も歩き出した。
「帝」
「何?」
「何で一緒に歩いてるの?」
「帰る方向が同じだから」
「本当に?」
「たぶん」
「たぶんって何だよ……」
「細かい男ね」
「自分の家の方向くらい分かるだろ」
「うるさいわね」
本当に何なんだ、この人。
ついさっきまで土下座を要求していた相手と、その数十分後に並んで下校することになるとは思ってもいなかった。
しばらく歩いたところで、帝が前を向いたまま口を開く。
「さっきのことなんだけど」
「土下座ならしないぞ」
「もう分かってるわよ」
「ならよかった」
「そうじゃなくて……」
それまで強かった帝の声が、少しだけ小さくなった。
「私ね、あんたみたいな男子って初めてなの」
「俺みたいな?」
「普通、男子って私にあんな言い方しないから」
「そうなの?」
「そうよ」
帝は少し考えてから、指を二本立てた。
「だいたい二種類なの。怖がって距離を取るか、変に気を遣って私の機嫌を取ろうとするか」
「…………」
「でも、あんたは違った」
「俺は普通に話しただけだけど」
「それよ」
「何が?」
「私が怒ってても普通に言い返したし、空手やってるって言っても態度が変わらなかった」
「理不尽なこと言われたら、そりゃ言い返すだろ」
「土下座もあっさり断った」
「それは普通だと思う」
「…………ふふっ」
「?」
帝が小さく笑った。
自己紹介の時や教室で睨まれた時に見た、少し鋭くて近寄りがたい表情とは違う。
ほんの一瞬だけだったが、その笑顔は思っていたよりずっと柔らかかった。
「やっぱり変な奴」
「どこがだよ」
「私のこと、特別扱いしないところ」
「…………」
「女だからって手加減した言い方もしないし、私が怖そうだからって機嫌を取ろうともしない」
「普通に同級生だからな」
「そういうところよ」
帝は少しだけ視線を逸らし、前を向いたまま続ける。
「私と対等に話してくれる男子って、あんまりいなかったから」
「…………」
それまでとは違う声だった。
少しだけ言いづらそうで、それでも自分の本音をちゃんと伝えようとしているように聞こえたので、何となく茶化す気にはなれなかった。
「そっか」
「何よ、その反応」
「いや。何て返せばいいのか分からなくて」
「本当に変な奴ね」
「それ今日何回目?」
「知らない」
帝はまた少し笑ったあと、突然足を止めた。
「櫻坂」
「ん?」
俺も立ち止まる。
帝は真っ直ぐこちらを見ていた。
相変わらず目つきは少し鋭いけれど、教室で睨まれた時とは何かが違う。
「私と友達にならない?」
「…………」
まったく予想していなかった言葉だった。
「……俺と?」
「他に誰がいるのよ」
「いや、だって……」
ついさっきまで俺に土下座を要求していた人だ。
そこからどう話が転がれば、いきなり友達の申し込みになるのか理解できない。
「嫌?」
「嫌っていうか……急すぎない?」
「そう?」
「普通はもう少し会話とかしてからじゃないの?」
「今してるじゃない」
「十分くらいだぞ」
「時間なんて関係ないでしょ」
「そういうものなのか……?」
友達を作るということ自体、俺には経験がほとんどない。
だから、どのくらい話したら友達になるのが普通なのかなんて、聞かれても分からない。
「それで?」
帝が少しだけ顔を覗き込んでくる。
「友達になるの? ならないの?」
「…………」
俺は目の前の女子を見る。
少し鋭い目つき。
空手経験者。
自己紹介では『嫌いなものは妹』と言い切り、ぶつかっただけで土下座まで要求してくる。
俺の中にある危機管理能力が、できるだけ関わらない方がいいと訴えている。
ただ、
『私と対等に話してくれる男子って、あんまりいなかったから』
さっきの言葉だけが、妙に頭に残っていた。
「…………」
一人でいる方が楽だ。
誰かと深く関わらなければ、相手に何かを期待することもないし、余計な面倒事に巻き込まれることも少ない。
高校でも、ずっとそのつもりだった。
けれど今日、四年ぶりに由美姉ちゃんと再会して、自分から教室の扉を開け、こうして知らない相手と話している。
朝までの俺なら、どれも避けようとしていたことばかりだ。
だったら。
少しくらい、今までと違うことをしてみてもいいのかもしれない。




