他愛もない日常ほど尊いものは存在しない
遅刻した罰として、クラス全員の前で自己紹介。
俺にとっては拷問に近い時間だったが、どうにか無事に乗り切ることができた。
「……疲れた」
自分の席へ座った瞬間、それまで無理やり入っていた力が一気に抜け、背もたれへ身体を預けるようにして小さく息を吐く。
これでようやく、大勢の視線から解放される。
そう思っていたのだが、
「…………」
何となく、まだ誰かに見られているような気がする。
気のせいだと思いたかったが、妙に視線が刺さる感じが消えず、俺は机へ伏せかけていた顔をそっと上げた。
すると、少し離れたところにいる数人の女子がこちらを見ていて、目が合った途端、揃って慌てたように視線を逸らす。
「何なんだよ……」
入学式当日に遅刻してきた奴が珍しいだけだ。
それ以外に理由なんてない。
そう自分へ言い聞かせるようにして、今度こそ机へ突っ伏した。
入学式が始まるまで、あと十分ほど。
これ以上余計なことを考えて疲れるくらいなら、少しでも休んでおいた方がいい。
頬を腕へ乗せ、そのまま目を閉じる。
自分では少し休むだけのつもりだったが、思っていた以上に疲れていたらしく、意識は驚くほど簡単に遠のいていった。
◇
「櫻坂、起きなさい。体育館へ移動するわよ」
「…………ん」
枢木先生の声で目を覚ました。
重たい瞼を持ち上げて顔を上げると、教室ではクラスメイトたちが次々と席を立ち、鞄を整えたり、前後の人と話したりしながら移動の準備を始めている。
どうやら、もう入学式へ向かう時間らしい。
「櫻坂」
「はい?」
「入学式の日くらいは起きてなさい」
「……すみません」
「次に寝たら置いていくからね」
「それは困ります」
「なら起きてなさい」
「はい……」
正論すぎて、何も言い返せなかった。
俺は慌てて立ち上がり、周囲の動きに合わせるようにして一年D組の列へ加わった。
◇
「……何だ?」
教室を出てすぐ、廊下の様子がおかしいことに気づいた。
一年生の教室が並ぶ廊下には、大勢の新入生がクラスごとに列を作っていて、そこまでは予定通りなのだろうが、問題はその列がまったく前へ進んでいないことだった。
先頭に近い一年A組の辺りで、人の流れが完全に止まっている。
「何かあったのか?」
入学式までもう時間がないはずなのに、このままで大丈夫なのだろうか。
そんなことを考えながら前方を覗こうとするが、人が多くて何が起きているのかまでは見えない。
その時、前の方から男子たちの声が聞こえてきた。
「おぉ……」
「マジかよ……」
「…………?」
何をそんなに騒いでいるんだ。
入学式前の廊下で、わざわざ声を上げるような何かがあるのかと思い、少し気になって前方へ視線を向ける。
すると今度は、教師らしき男の呆れた声が廊下に響いた。
「お前……何で学校にいるんだ?」
少し間を置いて、その教師が続ける。
「今日は二、三年生は休みのはずだろ?」
在校生?
その言葉を聞いて、真っ先に由美姉ちゃんの顔が浮かんだ。
そういえば由美姉ちゃんも二年生だ。
今日学校にいたのだから、休みなのに登校している上級生がもう一人くらいいても不思議ではない。
「……由美姉ちゃんじゃないよな」
さすがに気になった。
俺は列から少し身体を外し、周囲の生徒の隙間を覗き込む。
それでもまだよく見えない。
「すみません、ちょっと通ります」
普段なら、知らない人間の間を割って前へ進むなんて絶対に避けたい。
それでも今は、前で何が起きているのかという好奇心の方が僅かに勝っていて、何人かに小さく頭を下げながら人の隙間を抜けていった。
気づけば、一年A組の近くまで来ている。
そしてようやく、教師の前に立っている人物の姿が見えた。
「新入生のお祝いに来てあげただけなのに、ダメなの?」
女子生徒だった。
「そのくらい許してくれてもいいと思うんだけどなぁ……」
少し残念そうに肩を落としている。
その向かいでは、教師が深いため息を吐いていた。
「ダメに決まってるだろ。今日は上級生は休みなんだから」
「でも、もう来ちゃったよ?」
「だから職員室に来いって言ってるんだ」
「えー……」
「えー、じゃない」
「せっかく朝早く起きたのに……」
「誰も頼んでない」
そんなやり取りをしながら、彼女は教師に促されるまま歩き始める。
「…………」
そこでようやく、周囲の男子たちが騒いでいた理由も分かった。
「……すげぇ」
近くにいた男子が思わず呟く。
俺も、少なからず同じ感想だった。
長いブラウンの髪に、整った顔立ち。
どこか大人びた雰囲気があるのに、教師とのやり取りを見る限り堅苦しいタイプには見えず、むしろかなり自由で、思ったことをそのまま口にする人なのだろうという印象を受ける。
首元には緑色のネクタイ。
由美姉ちゃんと同じ二年生。
ただ、俺が一番気になったのは別のところだった。
「…………あれ?」
思わず、その後ろ姿を目で追う。
彼女が履いているのはスカートではない。
男子生徒と同じデザインのズボンだった。
「女子でもズボンあるんだな……」
別に不自然には見えない。
むしろ長い髪や柔らかな表情と合わさることで、どこか中性的で格好いい印象さえあった。
少し変わった人。
それが、俺が彼女に抱いた最初の印象だった。
「由美姉ちゃんといい、あの先輩といい……」
今日だけで二人。
入学初日から、妙に印象に残る上級生ばかり見かけている。
「この学校、変わった先輩多いのかな……」
そんなことを呟いていた、その時だった。
「櫻坂!」
「っ!」
背後から聞き覚えのある声が飛んできた。
振り返ると、少し離れたところで枢木先生がこちらを睨んでいる。
「勝手に列から離れない!」
「すみません!」
完全に忘れていた。
今は入学式へ向かっている途中だった。
俺は慌てて一年D組の列へ戻る。
「まったく……」
「ごめんなさい」
「次に勝手なことをしたら、一番前を歩いてもらうからね」
「それだけは勘弁してください」
「どうして?」
「目立つじゃないですか」
「自業自得でしょ?」
「本当にやめてください」
大勢の生徒から見られながら列の先頭を歩くなんて、俺にとっては罰ゲーム以外の何物でもない。
ただでさえ入学初日から何度も注目を浴びているのに、これ以上わざわざ目立ちたくはなかった。
「なら、ちゃんと列にいなさい」
「はい……」
今度こそ大人しく自分の位置へ戻る。
前方で止まっていた列も、先ほどの先輩が教師と一緒に離れたことでようやく動き始め、俺たちはそのまま体育館へ向かって歩き出した。
「…………」
その途中、ふと先ほどの先輩の姿を思い出す。
長いブラウンの髪。
緑色のネクタイ。
男子用と同じズボン。
そして、教師を相手にしてもまるで物怖じする様子のなかった態度。
名前すら知らない。
ほんの少し廊下で見かけただけの上級生だ。
それなのに、どういうわけか妙に印象に残っていた。
由美姉ちゃんと再会したばかりだから、同じ二年生というだけで気になったのかもしれない。
それとも、単純に見た目や雰囲気が珍しかっただけなのか。
「……まあ、いいか」
考えたところで分かるはずもない。
どうせ、もう関わることもないだろう。
そんなふうに簡単に片づけながら、俺は前を歩くクラスメイトの背中を追った。
この時の俺は、本気でそう思っていた。




