初めての記憶は遠く儚い、けれど思い出深いものになる
「すみません、遅刻しました……」
入学式を目前に控えた教室は、まだ互いの顔も名前もよく知らない新入生ばかりだからか、会話があるようでいてどこか落ち着かない静けさに包まれていた。
そんな空気を破るように教室の扉が開き、一人の男子生徒が少し息を切らしながら入ってくる。
私がこの教室へ来てから、もう三十分ほど経っている。
壁に掛けられた時計を見ると、入学式が始まるまであと十分もなく、ほとんどの生徒が揃っている中で現れた彼は、教室中から視線を向けられたことに気づいたのか、一瞬だけ動きを止めた。
それでも何も言わず、なるべく周囲を見ないようにしながら教卓の前まで歩いていき、担任の先生へ小さく頭を下げる。
「…………」
私は気づけば、その男子生徒を目で追っていた。
少し乱れた制服に、特に整えているようには見えない自然な黒髪、そして何より印象に残ったのは、どこか眠たそうに見える目だった。
特別に目立つ外見をしているわけではない。
格好いいかと聞かれれば整っている方なのかもしれないけれど、教室へ入ってきただけで全員の目を引くような華やかさがあるわけでもない。それなのに、なぜか一度見たあとも視線が離れなかった。
落ち着いているというのか。
それとも、力が抜けているというのか。
本人は明らかに居心地が悪そうにしているのに、その場にいるだけで周囲の空気がほんの少し柔らかくなるような、不思議な雰囲気を持っている気がした。
入学式を前に、自分でも気づかないうちに緊張していたらしい私の肩からも、少しだけ力が抜ける。
「櫻坂、だったわね?」
「はい……」
担任の先生が出席簿へ視線を落とし、名前を確認してから顔を上げる。
そして何か思いついたように、ほんの少し口元を上げた。
「せっかくだから、自己紹介していきなさい」
「…………え?」
「遅刻した罰」
先生はにっこりと笑った。
見た目だけなら優しそうな笑顔なのに、その場にいた誰もが、これは断れないやつだと分かったと思う。
「いや、あの……いきなりですか?」
「いきなりよ」
「確かに遅刻した俺が悪いですけど、初対面の人しかいないところで自己紹介するの、結構きついんですけど……」
「大丈夫よ。三十秒もあれば終わるから」
「時間の問題じゃないんですよ」
「じゃあ一分あげる」
「だから時間を増やせば解決するわけじゃなくて……」
教室のあちこちから、小さな笑い声が漏れた。
それまで誰もが周囲の様子を窺っていた教室で、初めて全員が同じものを見て笑ったような気がして、私も思わず口元を緩めてしまう。
「それとも何?」
先生は教卓へ片手をつき、笑顔のまま彼を見上げた。
「自己紹介と、放課後に私とじっくり遅刻について話し合うのと、どっちがいい?」
「自己紹介します」
「即答ね」
「選択肢が実質一つしかないじゃないですか」
「ちゃんと二つ用意したでしょ?」
「片方が重すぎるんですよ……」
また教室から笑いが起こる。
さっきまでの張りつめた雰囲気が少しずつ崩れていき、隣の席同士で顔を見合わせて笑う生徒までいた。
「…………」
私は少し意外に思いながら、そのやり取りを眺めていた。
教室へ入ってきた時の彼は、誰が見ても緊張しているように見えたし、周囲から注目された瞬間には身体まで僅かに固まっていた。それなのに先生から話しかけられると、嫌そうにしながらも普通に言葉を返し、相手の言葉に合わせて返答までしている。
人と話すこと自体が苦手なわけではないのかもしれない。
むしろ、一度会話が始まってしまえば普通に話せるけれど、自分からその中へ入ることや、大勢に見られることの方が苦手なのではないか。
そんなことを考えているうちに、先生が教卓を軽く叩いた。
「ほら、櫻坂。みんな待ってるわよ」
「分かりましたよ……」
彼は観念したように小さく息を吐き、ゆっくりと私たちの方へ向き直る。
「初めまして。櫻坂幸です」
その瞬間、教室中の視線が一斉に彼へ集まった。
「…………」
ほんの一瞬だけ、櫻坂君の肩が強張ったように見えた。
表情はほとんど変わっていないし、顔を伏せたわけでもない。それでも、先生と二人で話していた時より明らかに身体へ力が入り、視線もどこに置けばいいのか分からないように僅かに揺れている。
「趣味は……今のところ特にないです」
一度言葉を切り、それだけでは短すぎると思ったのか、少し困ったように続ける。
「高校にいる間に、一つくらいは趣味って言えるものを見つけられたらと思ってます。……以上です」
「短いわね」
「突然やらされた自己紹介なんで、これが限界です」
「まあいいでしょう。合格」
「何の合格ですか……」
「私の気分」
「適当すぎません?」
また教室に笑いが広がった。
特別派手な自己紹介ではなかったし、人を驚かせるような趣味や特技があったわけでもない。本人も場を盛り上げようとしている様子はなく、むしろ一刻も早く終わってほしいという気持ちが顔に出ているくらいだった。
それなのに、不思議と耳に残る。
「櫻坂君って、なんか不思議じゃない?」
右隣から、小さな声が聞こえてきた。
「分かる」
その後ろに座っている女の子も、先生に聞こえない程度の声で返す。
「なんか、見てると落ち着くっていうか」
「そうそう。それ」
「…………」
どうやら同じことを感じていたのは、私だけではないらしい。
櫻坂君本人はそんなふうに見られていることにまったく気づいていないようで、むしろまだ自分へ向いている視線の数を気にしているのか、早く席へ戻りたそうにしていた。
「はい、櫻坂」
先生が教室の後方を指さす。
「自己紹介も終わったことだし、自分の席に座りなさい。もうすぐ体育館へ移動するわよ」
「分かりました」
ようやく解放されたと言わんばかりに返事をした櫻坂君が、教卓の横を通って自分の席へ向かう。
その時だった。
「…………」
私は思わず、櫻坂君と担任の先生を交互に見てしまった。
担任――枢木愛理先生は、かなり小柄だ。
私たち一年生と並んでも先生の方が小さく見えるくらいで、教卓の前に立っている時は気にならなかったものの、櫻坂君と近くに並ぶと、その身長差が余計にはっきり分かる。
だからなのか。
二人が近くに立った姿を見た瞬間、頭の中に一つの言葉が浮かんだ。
「……親子みたい」
右隣の女の子が、まるで私の考えをそのまま読んだようにぽつりと呟いた。
「ちょっ……」
危うく吹き出しそうになり、慌てて口元を押さえる。
後ろの子も同じことを思ったらしく、小さく身を乗り出した。
「私も今ちょっと思った」
「でしょ?」
「先生、小さいから余計に……」
そこまで言った瞬間。
教卓の前にいた枢木先生の動きが、ぴたりと止まった。
「…………」
三人とも同時に黙る。
嫌な予感しかしない。
先生はすぐには何も言わず、ゆっくりとこちらを振り返った。
「そこの二人」
「は、はいっ!」
やっぱり聞こえていた。
「今、私の身長について何か言った?」
「い、言ってません!」
「へえ?」
笑顔だ。
さっき櫻坂君へ向けていたものと同じような笑顔のはずなのに、今はなぜか妙に怖い。
「先生は小さい方が親しみやすいよね、という話を……」
「そう」
「はい!」
「じゃあ放課後、ゆっくりその話の続きを聞かせてもらおうかしら」
「すみませんでした!」
右隣の女子が、机へ額をぶつけそうな勢いで頭を下げた。
「早いわね」
「放課後は大切なので!」
「正直でよろしい」
枢木先生は満足そうに頷き、それから教室全体へ聞かせるように少しだけ声を張った。
「ちなみに今後、私の身長を話題にする時は十分気をつけるように」
「はい……」
「聞こえてるからね?」
「はいっ!」
教室中に小さな笑いが広がる。
まだ名前すら覚えていない相手ばかりなのに、さっきより少しだけ教室の空気が近くなったように感じた。
そして多分、この瞬間にクラスのほとんどが同じことを学んだのだと思う。
――枢木先生の身長には触れない方がいい。
もちろん、私もその一人だった。
「…………」
その一方で、そんなやり取りにはほとんど関心がないのか、それとも自分から注目が外れたことに安心したのか、櫻坂君は自分の席へ座るなり、小さく息を吐いていた。
入学式当日に遅刻して、教室へ入った途端に全員から見られ、そのまま担任に自己紹介までさせられたのだから、本人にとっては散々な高校生活の始まりなのかもしれない。
それでも。
私はなぜか、櫻坂君がこの教室へ入ってきてから、さっきまでよりほんの少しだけ空気が柔らかくなったように感じていた。
誰かが特別に場を盛り上げたわけでもないし、櫻坂君自身が何かをしたわけでもない。それなのに、先生とのやり取りをきっかけに教室で笑いが起こり、さっきまで周囲の様子を窺っていた生徒たちが、少しずつ近くの人と話し始めている。
「櫻坂幸君……」
誰にも聞こえないよう、小さく名前を口にする。
眠たそうな目をした、少し不思議な男の子。
話しかけられれば普通に会話ができるのに、大勢から見られた瞬間だけ身体を強張らせる。
初対面のはずなのに、どこか気になる。
その理由が何なのか、この時の私にはまだ分からなかった。
なぜ人の視線を向けられた瞬間、あんなふうに緊張したのか。
どうして入学式の日に遅刻し、あれほど息を切らしながら教室へ入ってきたのか。
普段はどんなふうに笑うのか、誰かと仲良くなった時にはどんな顔をするのか。
そして、この先彼とどんな時間を過ごすことになるのか。
今の私は、そのどれも知らない。
ただ、名前を覚えただけだった。
櫻坂幸。
それが、私――小鳥遊優と彼との、最初の出会いだった。




