音楽は記憶を呼び起こすきっかけになることがある
耳に残る、懐かしい旋律。
柔らかなピアノの音が、春の風に乗りながら校舎のどこかから流れてきていて、まるで建物全体を包み込むように静かに響いていた。
「……この曲」
帰ろうとしていた俺の足が、気づけば止まっていた。
知っている。
間違いなく、俺はこの曲を知っているはずなのに、どこで聞いたのか、誰と一緒に聞いたのか、そこまで思い出そうとすると肝心な部分だけに薄い霧がかかったようになってしまい、記憶の中からうまく掴み取ることができない。
それでも、この旋律を聞いていると胸の奥が妙にざわついて、ただ懐かしいだけではない何かがそこに残っているような気がした。
「すげぇ懐かしい……いつからだっけ、この曲を聞かなくなったの」
昔はクラシックをよく聞いていた。
家でも何度か流していたし、曲の名前を調べたり、気に入ったものを繰り返し聞いたりしていた記憶もあるのに、いつからか自分からクラシックを選ぶことはなくなっていて、その理由まで考えようとすると、また胸の奥に触れたくない何かがあるような感覚がして、俺はそれ以上考えるのをやめた。
今はそれよりも、この音がどこから聞こえてくるのかの方が気になった。
「…………」
気づけば俺は、校舎の方へ戻っていた。
最初はゆっくりと歩いていただけだったのに、音を追ううちに自然と足が速くなっていき、いつの間にかほとんど小走りになっていた。
「どこだ……?」
入学したばかりで、校舎の構造なんてほとんど分からない。
それでも耳へ届く音だけを頼りに廊下を進み、階段を見つけると二階へ上がり、さらに音が大きくなった方角を頼りに三階へ向かった。
一段ずつ階段を上がるたびに、ピアノの旋律が少しずつ近くなっていく。
「ハァ……ハァ……」
途中から完全に走っていたせいで息が苦しくなり、胸の奥が激しく上下する。
入学式に遅刻した挙げ句、学校から逃げ帰ろうとしていた人間が、今度は何を必死になって校舎の中を走っているのか、自分でも意味が分からなかった。
それでも、不思議と止まりたいとは思わなかった。
この曲の先に何があるのか。
どうして自分が、こんなにも懐かしいと感じているのか。
その答えを確かめないまま帰る方が、今はずっと気持ち悪く思えた。
やがて三階へ辿り着くと、廊下の先に一つの札が見えた。
『音楽室』
「あそこか……!」
それまでより少しだけ足を速め、音楽室の前まで辿り着く。
「ハァ……ハァ……」
扉の前で一度立ち止まり、膝に手をつきながら乱れた呼吸を整える。
もう、どこから音が聞こえているのか迷う必要もなかった。
扉の向こうから流れてくるのは、はっきりと分かる。
パッヘルベルの『カノン』。
「…………」
どうしてこの曲を聞くと、こんなにも胸の奥を掴まれるような感覚になるのだろう。
懐かしい。
けれど、それだけじゃない。
忘れていた何かが、もう少しで浮かび上がってきそうな気がする。
そして、その答えがこの扉の向こうにあるような気がした。
そう思って扉へ手を伸ばしたところで、今さら別の問題に気づく。
「……待てよ」
中には当然、誰かがいる。
もし本当に知らない人だったら、俺は何と言えばいいのだろう。
『外までカノンが聞こえたので来ました』
「……不審者だろ、それ」
自分で想像して、自分で引いた。
ここまで来ておいて、帰ろうかなという考えが一瞬だけ頭をよぎる。
けれど、さすがに何も見ずに引き返すのも気持ちが悪い。
「…………よし」
小さく息を吐き、覚悟を決めて扉へ手を掛けた。
ガラッ――。
金具が擦れる音とともに、音楽室の扉が開く。
廊下を吹き抜けていた春風が、俺の背中を押すようにそのまま室内へ入り込み、窓際の白いカーテンを大きく揺らした。
その向こうに見えた黒いグランドピアノへ、俺の視線が自然と吸い寄せられる。
そして、その前には一人の女子生徒が座っていた。
「…………」
長い髪が春風に揺れている。
俺より少し大人びた雰囲気の人で、着ている制服こそ同じ光陽学園のものだが、ネクタイの色が違っていた。
俺たち一年生は青。
二年生は緑。
三年生は赤。
そして彼女が身につけているのは、緑色のネクタイだった。
「二年生……?」
今日は入学式だ。
在校生は原則として登校しないと聞いていたはずなのに、どうしてこの人はここにいるのだろう。
そんな疑問を抱きながら見つめていると、鍵盤の上を動いていた彼女の指がゆっくりと止まり、それまで音楽室を満たしていたカノンの旋律が静かに消えていった。
しばらくして、彼女がこちらを振り返る。
「久しぶりだね……幸ちゃん」
「え……?」
その呼び方を聞いた瞬間、心臓が大きく跳ねた。
幸ちゃん。
まただ。
さっきの紙飛行機と同じ呼び方だった。
「もしかして……あの紙飛行機」
「ふふっ」
彼女は答えず、少しだけ嬉しそうに笑った。
「私のこと……覚えてる?」
「…………」
目の前にいる先輩の顔を、じっと見つめる。
知らない。
最初はそう思った。
でも、すぐに違うと感じた。
知らないはずなのに、どこかで見たことがある。
初めて会った人とは思えない。
その目も、声も、笑い方も、ずっと昔に何度も見たことがあるような懐かしさがあった。
「誰だ……?」
思わず漏れた言葉に、彼女の表情がほんの少しだけ寂しそうに揺れる。
けれど何かを責めることもなく、彼女は再び鍵盤へ指を置いた。
そして、止まっていたカノンの旋律が、もう一度音楽室へ広がっていく。
「…………」
俺はその場に立ったまま、演奏を聞いていた。
目の前にいる先輩。
この曲。
そして、『幸ちゃん』という呼び方。
今まで別々だったものが、少しずつ頭の中で結びつき始める。
小学校。
放課後。
夕日が差し込む音楽室。
先生が弾いていたピアノ。
そして、その隣で一緒に曲を聞いていた、一人の女の子。
俺より一つ年上で、人と話すのが得意ではなかった俺にも、いつも当たり前のように声を掛けてくれた。
『幸ちゃん』
「…………っ」
記憶の中の声と、さっき聞いた声が重なった。
笑っている女の子。
俺の名前を呼ぶ声。
何度も一緒に聞いた、この曲。
ぼんやりと途切れていた記憶が、一つずつ形を取り戻していく。
「もしかして……」
自分でも分かるくらい、声が震えていた。
間違っていたら、とんでもなく恥ずかしい。
でも、もう他の答えなんて考えられなかった。
「由美姉ちゃん?」
その瞬間、ピアノの音が止まった。
「…………」
彼女はゆっくりと振り返り、大きく見開いた瞳に少しずつ涙を浮かべながら、それでも嬉しそうに笑った。
「私のこと……覚えてくれてたんだね」
「……やっぱり、由美姉ちゃんなんだ」
「うん」
小鳥遊由美。
小学生の頃、俺が『由美姉ちゃん』と呼んでいた、一つ年上の女の子。
由美姉ちゃんは嬉しそうに笑っていたけれど、その声は僅かに震えていて、椅子から立ち上がると一歩ずつ俺の方へ近づいてきた。
昔より背が伸びている。
髪も長くなった。
顔つきだって、記憶の中にいる由美姉ちゃんよりずっと大人びている。
それでも、笑い方も俺を見る優しい目も、何も変わっていなかった。
「あれから……もう四年も経つんだよ?」
「四年……」
「うん。四年」
由美姉ちゃんは俺の目の前まで来ると、少しだけ寂しそうに笑った。
「ずっと、会いたかった」
「…………」
「幸ちゃんが小学校を卒業したら、また同じ学校に通えると思ってたんだよ?」
俺は何も言えなかった。
「でも幸ちゃん、別の中学校に行っちゃったでしょ?」
「……うん」
「私、寂しかったんだからね?」
「…………ごめん」
それしか言えなかった。
由美姉ちゃんが小学校を卒業してから、俺にも色々あった。
この人に会いたくなかったわけじゃないし、むしろ昔は一年後にまた会えるのだと、何の疑いもなく思っていた。
けれど結局、俺は由美姉ちゃんと同じ中学校へ進まず、そのまま人と関わることも減っていき、昔の知り合いとも自然と距離ができていった。
気づけば、あの頃のことを思い返す機会さえほとんどなくなっていた。
「ごめん……由美姉ちゃん」
もう一度謝る。
すると由美姉ちゃんは責めることもなく、ゆっくりと首を横に振った。
「ううん」
「でも――」
「また会えたから、それでいいよ」
「…………」
「それに、これからは同じ学校なんだよ?」
「あ……」
そうだった。
今までとは違う。
由美姉ちゃんは、この光陽学園にいる。
つまり、今日だけではなく、明日も明後日も、学校へ来ればまた会える。
そう考えた瞬間、ついさっきまで『辞めたい』としか思っていなかったこの学校が、ほんの少しだけ違って見えた。
「幸ちゃん」
「ん?」
由美姉ちゃんが俺を見つめ、そのまま一瞬だけ迷うような表情を浮かべる。
そして次の瞬間、そっと俺の胸元へ身体を寄せてきた。
「えっ……?」
背中へ腕が回される。
強く抱き締めるような抱擁ではなく、そこに俺がちゃんといることを確かめるような、静かで優しい抱き方だった。
「由美姉ちゃん……?」
「もう少しだけ、このままでいさせて」
「…………」
「四年分だから」
「四年分って……長くない?」
「長いよ?」
「そうじゃなくて……」
困っている俺を見て、由美姉ちゃんが小さく笑う。
制服越しに伝わってくる体温は温かく、それでいてどこか懐かしかった。
胸の奥にずっと空いたままだった場所へ、忘れていた何かが戻ってきたような感覚がして、俺はどうしたらいいのか分からないまま、その場に立っていた。
その時だった。
キーンコーンカーンコーン――。
校舎中にチャイムが響き渡る。
「…………あ」
嫌な予感がした。
由美姉ちゃんから離れ、慌てて腕時計を確認する。
「やばっ」
「どうしたの?」
「俺、入学式に遅刻してるんだった……!」
「…………」
「完全に忘れてた」
由美姉ちゃんは一瞬きょとんとしたあと、すぐに小さく吹き出した。
「ふふっ」
「笑わないでよ……」
「ごめん。でも、幸ちゃんって昔から変わらないなって思って」
「どこが?」
「嫌なことがあると、すぐ逃げようとするところ」
「…………」
言い返せない。
昔の俺を知っている人間というのは、こういう時に厄介だ。
「もう入学式、始まっちゃうんじゃない?」
「たぶん……あと十分くらい」
「だったら行かないと」
「そうなんだけど……」
そう言われた途端、少し前まで忘れていた不安が一気に戻ってくる。
知らない同級生が大勢集まっている教室。
遅れて入ってきた俺へ向けられる視線。
誰かに笑われるわけでもないのに、想像しただけで身体が重くなる。
「…………」
由美姉ちゃんは、そんな俺の様子をしばらく黙って見ていた。
けれど、どうして行きたくないのか、何が怖いのかを無理に聞こうとはしなかった。
「幸ちゃん」
「ん?」
「大丈夫だよ」
「…………」
「ここには、私もいるから」
それだけだった。
どうして教室へ入るのが嫌なのかも、どうして俺が人の目を気にするのかも、由美姉ちゃんは知らない。
それでも、その一言は不思議なくらい胸の奥へ入ってきた。
「……そっか」
俺は小さく息を吐く。
「ここまで来たんだし、ちゃんと行かないとな」
「うん」
「由美姉ちゃんは?」
「私もそろそろ行かないと。ちょっと用事があるの」
「そっか」
俺は音楽室の扉へ向かった。
けれど、そのまま廊下へ出る前に一度だけ足を止め、振り返る。
「由美姉ちゃん」
「なに?」
「……また明日、会える?」
「…………」
一瞬、由美姉ちゃんが驚いたように目を見開いた。
けれど、すぐに昔と何も変わらない優しい笑顔を浮かべる。
「もちろん」
「……そっか」
それだけ聞ければ十分だった。
「じゃあ、行ってくる」
「うん。いってらっしゃい、幸ちゃん」
俺は音楽室を飛び出し、階段を駆け下りていった。
少し前までとは違う。
今度は逃げるためではなく、教室へ向かうために走っている。
もちろん、人に見られることが怖くなくなったわけではないし、知らない人間ばかりの教室へ入ることだって、まだ嫌だった。
それでも、ほんの少しだけ。
この学校でなら、何とかやっていけるような気がした。
中学校の同級生は一人もいない。
中学時代の俺を知っている人間もいない。
だからこそ、ここからもう一度始められるかもしれない。
それに、この学校には――俺のことを『幸ちゃん』と呼んでくれる人がいる。
「…………よし」
やがて自分の教室の前まで辿り着き、そこで足を止めた。
扉の向こうから、何人もの話し声が聞こえてくる。
さっきまで少し軽くなっていた心臓が、またうるさく鳴り始めた。
怖いし、逃げたい。
今からでも帰ってしまいたいという気持ちは、まだ確かに残っている。
「…………」
それでも、今度は踵を返さなかった。
『ここには、私もいるから』
さっきの由美姉ちゃんの言葉を思い出す。
「……大丈夫」
誰かに言うのではなく、自分へ言い聞かせるように小さく呟き、ゆっくりと扉へ手を掛けた。
ここから始まる。
光陽学園で過ごす、俺の高校生活。
その本当の一歩を、俺はようやく踏み出した。




