記憶は忘れても思い出せる
『入学おめでとう、幸ちゃん♡』
「…………」
手の中にある一枚の紙を、俺はもう一度じっと見つめた。
何度見返しても見間違いではなく、可愛らしい紫色の文字で確かにそう書かれていて、最後には小さなハートマークまで添えられている。
「誰なんだよ……」
俺を『幸ちゃん』と呼ぶ人物。
少なくとも、この学校にそんな呼び方をする知り合いがいる覚えはないし、同じ中学校から光陽学園へ進学した生徒は一人もいない。上級生にも心当たりはなく、中学時代の俺が先輩どころか同級生とさえほとんど関わらずに過ごしてきたことを考えれば、ここに自分のことを知っている人間がいるというだけでも妙だった。
「…………」
ゆっくりと校舎を見上げる。
無数に並ぶ窓のどこかから、誰かがこちらを見ている。
もちろん実際に見られているかどうかなんて分からないし、ただの考えすぎなのかもしれない。それでも一度そう思ってしまうと、開いている窓の一つ一つに人影が隠れているような気がして、どうにも落ち着かなかった。
「やっぱり帰ろう……」
これ以上ここで考えていても答えが出るとは思えない。
そもそも俺は遅刻しているのだから、今から教室へ入れば確実に注目されるし、職員室へ向かえば知らない教師に自分から声を掛け、遅刻した事情を説明しなければならない。
どちらも嫌だった。
だったら今日はこのまま帰り、明日から何食わぬ顔で登校すればいい。少なくとも今の俺には、その方がずっと現実的に思えた。
「うん。それが一番だな」
誰に聞かせるでもなく自分へ言い聞かせ、紙を丁寧に鞄へしまうと、今度こそ学校へ背を向けようとした。
その時だった。
「…………?」
どこからか、微かに音が聞こえた。
最初は風の音かと思ったが、耳を澄ませているうちに、それが一定の間隔で重なり合う音だと気づく。
「ピアノ……?」
校舎のどこかから、ピアノの音色が流れてきていた。
柔らかく、穏やかで、春の風に溶けるような旋律。
初めて聞くはずではない。むしろ、耳に入った瞬間から胸の奥に妙な懐かしさが広がっていた。
「この曲……」
知っている。
曲名だって覚えていた。
「……カノン」
パッヘルベルの『カノン』。
昔はよく耳にしていた曲で、クラシックそのものを聴かなくなってから随分経っているのに、この旋律だけは今でも身体のどこかに残っている。
「…………」
胸の奥が、妙にざわついた。
ただ懐かしいだけではない。
もっと何か、この曲には引っかかるものがある気がする。
誰かと一緒に聞いた。
誰かが弾いていた。
そんな記憶が頭の奥にあるような気がするのに、手を伸ばせば届きそうなところで輪郭が崩れ、どうしても形にならない。
「誰と……?」
思い出そうとするほど分からなくなる。
それなのに、音色を聞いていると無性に気になった。
どこで弾いているのか。
誰が弾いているのか。
どうして自分は、こんなにもこの音に惹かれているのか。
「…………」
俺は再び校舎を見る。
ほんの少し前まで、絶対に中へ入るものかと思っていた場所。
それなのに気づいた時には、
「……何やってるんだろ、俺」
俺の足は、ピアノの音が流れてくる校舎へ向かっていた。
◇
三階の音楽室。
開け放たれた窓から入り込む春風がカーテンを揺らし、その近くに置かれた黒いグランドピアノの前では、一人の少女が静かに鍵盤へ指を走らせていた。
奏でているのは、パッヘルベルの『カノン』。
一つ一つの音は柔らかく音楽室の中へ広がり、そのまま窓の外へ抜けていく春風に乗って、校庭や校門の方角へ流れていく。
「…………」
少女は何も言わず、ただ鍵盤を見つめながら演奏を続けていた。
けれど、その胸の内に浮かんでいるのは曲そのものではない。
つい先ほど、校門の近くに立っていた一人の少年。
紙飛行機を受け取り、困ったように辺りを見回していたその姿を、少女はこの音楽室の窓からずっと見ていた。
「久しぶりに見たけど……」
思い出すだけで、自然と頬が緩む。
「やっぱり、あんまり変わってないんだね。幸ちゃん」
櫻坂幸。
四年間、会うことのできなかった大切な人。
昔より背は伸び、顔つきも少し大人びていた。それでも眠たそうな目や、どこか困ったように周囲を見る癖、少し頼りなさそうに見える雰囲気には、昔と変わらない面影が残っていた。
見つけた瞬間、すぐに分かった。
幸ちゃんだ、と。
だから紙飛行機を飛ばした。
本当なら、直接会いに行って声を掛ければよかったのかもしれない。
けれど、四年ぶりだと思うと、それすら少し怖かった。
自分のことを覚えているだろうか。
突然声を掛けたら、困らせてしまわないだろうか。
忘れられていたら、どうすればいいのだろう。
そんなことを何度も考えた末に選んだのが、あの紙飛行機だった。
「……びっくりしてたなぁ」
校門で固まっていた幸の姿を思い出し、少女は小さく笑う。
けれど、その笑顔は長くは続かず、やがて少しだけ寂しそうなものへ変わっていった。
最後に会ったのは、四年前。
少女が小学校を卒業した春だった。
一つ年下だった幸とは、そこで一度離れることになった。
寂しかった。
それでも、一年待てばまた同じ中学校へ通えると思っていた。
また会える。
今までと同じように話して、一緒に帰って、何でもないことで笑える。
そう信じていた。
けれど幸は、その中学校へ来なかった。
何があったのか、少女は知らない。
どうして別の中学校へ進んだのかも分からず、気づけば連絡も取れなくなり、そのまま四年という時間だけが過ぎていった。
そして今日。
ようやく再会できた。
「……幸ちゃんがこれを聞いたら」
少女は鍵盤を見つめながら、ほんの少しだけ指先へ力を込めた。
「私のこと、思い出してくれるかな?」
カノン。
幼い頃、二人にとって特別だった曲。
小学校の放課後、先生が弾いてくれたこの曲を、幸は何度も楽しそうに聞いていた。
『俺、この曲好きかも』
そう言っていた幸の顔を、少女は今でも覚えている。
だから練習した。
何度も、何度も。
いつか自分の手で、幸にこの曲を聞かせたいと思ったから。
「…………」
柔らかな旋律が続いていく。
聞いてほしい。
気づいてほしい。
できることなら、この音を辿ってここまで来てほしい。
言葉にすれば恥ずかしくて言えないような願いを一音一音に込めながら、少女はカノンを奏で続けた。
◇
「三階……かな」
校舎へ入った俺は、ピアノの音を頼りに静かな廊下を歩いていた。
当然ながら、内心ではかなり後悔している。
「何で入ってきちゃったんだよ……」
帰る予定だった。
完全に帰るつもりだった。
紙飛行機のことだって、家へ帰ってから考えればいいと思っていたのに、気づけば校舎へ入り、今ではわざわざ音の聞こえる場所を探して歩いている。
我ながら意味が分からない。
幸い、入学式を前に新入生が各教室へ集まっているからなのか、誰かとすれ違うこともない。それだけが今の俺にとっては救いだった。
「こっちか……?」
音を頼りに階段を上がる。
一段、また一段と上るたびに、ピアノの旋律が少しずつ近づいてくる。
やがて三階へ着くと、それまでよりもはっきりとした音が廊下へ流れてきていて、どこから聞こえているのかもすぐに分かった。
「音楽室……」
廊下の奥。
扉の上に掲げられた『音楽室』のプレート。
音は間違いなく、そこから聞こえている。
「…………」
俺は扉の少し手前で足を止めた。
ここまで来てしまったものの、いざ扉を開けるとなると急に勇気がなくなる。
中には当然誰かがいる。
もし見ず知らずの人間だった場合、自分は何と言えばいいのだろう。
『カノンが聞こえたので来ました』
「……怖いな」
完全に不審者だ。
自分で想像しておきながら引いてしまう。
「帰ろうかな……」
そう思った。
けれど、足は動かなかった。
扉の向こうから流れてくる旋律が、どうしても気になる。
知っている。
この弾き方を知っている――ような気がする。
「…………?」
いや、違う。
この演奏そのものを知っているわけではない。
ただ、この曲を聞いていると、ずっと忘れていた何かが浮かび上がりそうになる。
放課後の教室。
夕日の差し込む廊下。
誰かの笑い声。
少し先を歩く女の子の背中。
そして。
『幸ちゃん』
「…………っ」
頭の中に、声が響いた。
女の子の声。
懐かしい。
何度も聞いたことがある。
俺をそう呼んでいた人が、昔確かにいた。
「…………」
誰だった。
喉元まで出かかっているのに、名前だけが出てこない。
俺はゆっくりと扉へ手を伸ばした。
指先が取っ手へ触れる。
ここまで来たのだから、せめて中を確認するだけでもいい。
そう自分へ言い聞かせながら、
ガラッ――。
音楽室の扉を開いた。
◇
足音が聞こえた。
少女は演奏を続けたまま、廊下の方へ意識を向ける。
タッ、タッ、と少し急いだような足音。
最初は遠くにあったそれが、少しずつ音楽室へ近づいてくる。
「…………」
胸が高鳴った。
もしかして。
そう思った瞬間、期待することが怖くなった。
違う人かもしれない。
先生かもしれないし、たまたま通りかかった生徒かもしれない。
それでも、心のどこかでは願っていた。
幸ちゃんであってほしい。
自分が奏でるこの曲に気づき、ここまで来てくれたのだと信じたかった。
やがて足音がゆっくりになり、音楽室の前で止まる。
少女の指先が僅かに震えた。
もし幸だったら。
もし、自分のことを覚えていなかったら。
四年も経っている。
忘れられていても、おかしくはない。
「…………」
それでも演奏は止めなかった。
カノンの旋律に自分の気持ちを重ねるように、少女は鍵盤を弾き続ける。
言葉よりも先に、この曲を聞いてほしかった。
そして、曲が一区切りを迎えようとした時。
ガラッ――。
扉が開いた。
「…………」
少女はゆっくりと顔を上げる。
その瞬間、息を呑んだ。
音楽室の入口に、一人の少年が立っている。
少し息を切らし、風に乱れた髪のまま、こちらをじっと見つめていた。
四年前よりも背が伸びている。
あの頃より、大人びた顔になっている。
それでも間違えるはずがない。
「幸ちゃん……」
思わず名前が漏れそうになり、少女はそれを飲み込んだ。
少年――幸も何も言わない。
ただ、少女の顔をじっと見つめている。
知らない人を見る目ではない。
何かを探している。
何かを思い出そうとしている。
そんな表情だった。
それを見た途端、少女の胸へ不安が広がる。
――やっぱり、忘れてるのかな。
四年間。
自分にとっては、とても長かった。
何度も幸のことを思い出した。
どうして同じ中学校に来なかったのだろう。
今はどこで何をしているのだろう。
元気にしているのだろうか。
ずっと知りたかった。
そして今日、やっと会えた。
だからこそ、忘れられているかもしれないと思うだけで胸が苦しくなる。
開け放たれた窓から春風が吹き込み、桜の花びらが一枚、二人の間を通り過ぎた。
「…………」
それでも幸は何も言わない。
少女は小さく息を吸い、意を決して口を開いた。
「久しぶりだね……幸ちゃん」
「…………」
「私のこと、覚えてる?」
幸の目が僅かに揺れる。
けれど、すぐに答えは返ってこなかった。
「そっか……」
胸の奥が少しだけ痛んだ。
それでも、少女は笑った。
ここまで来てくれた。
それだけでも、まだ終わりではないと思えた。
「じゃあ、もう少しだけ聞いてて」
再び鍵盤へ指を置く。
そして、カノンを奏で始めた。
言葉で思い出せないなら、この曲なら届くかもしれない。
小学校の放課後。
二人で何度も聞いた曲。
幸が好きだと言った曲。
いつか幸に聞かせたいと思い、何度も練習してきた曲。
四年間、消えなかった気持ちを音に乗せるように、少女は鍵盤を弾いていく。
一音、また一音と、柔らかな旋律が音楽室いっぱいに広がっていく。
幸は何も言わず、その演奏を聞いていた。
けれど、少しずつその表情が変わっていく。
「…………」
少女は気づいた。
幸の目が、少しずつ大きく見開かれている。
ただ曲を聞いているのではなく、その向こう側にある何かを見つけたように、こちらを見つめている。
やがて、カノンの旋律へ重なるように幸の声が聞こえた。
「もしかして……」
「…………」
少女の指が止まる。
胸が大きく高鳴った。
幸はしばらく少女の顔を見つめたあと、確かめるように、その名を口にした。
「由美姉ちゃん?」
「――っ」
その瞬間。
少女――小鳥遊由美の瞳が、大きく見開かれた。
「……うん」
声が震えた。
気づけば、視界まで少し滲んでいる。
「そうだよ……幸ちゃん」
四年間。
止まったままだった二人の時間が、春風とカノンの旋律の中で、ようやくもう一度動き始めた。




