プロローグ
入学式の日に寝坊した。
高校生活の始まりとしては、かなり最低に近いスタートだと思う。
「……まずいだろ、これ」
春の風が吹き抜ける校門の前で、櫻坂幸は一人立ち尽くしながら、今日から三年間通うことになる私立光陽学園の校舎を見上げていた。
県内でもそれなりに名の知れた進学校であり、つい十五分ほど前までなら、新品の制服に身を包んだ新入生や、その家族でこの辺りも賑わっていたはずだが、今となっては校門の周囲に人影はほとんどなく、時折吹く春風に舞った桜の花びらだけが、静かになった道を行き来している。
そのうちの一枚が肩へ落ちたところで、幸は腕時計へ目を落とした。
「…………」
見なければいいのに、念のためもう一度確認してしまう。
当然ながら、時計の針が数分前まで戻っているはずもなかった。
「今から……入るのか?」
再び校舎を見上げながら、これから自分が教室へ入っていくところを想像してみる。
すでに大勢の新入生が集まり、まだ互いのことをよく知らないせいで、きっと独特の静けさが残っている教室、その中で突然扉が開けば、遅れて入ってきた自分へ全員の視線が集まるだろう。
『ガラッ』
頭の中で教室の扉が開く音まで鮮明に再生され、その直後、一斉にこちらへ向けられる何十人もの視線まで想像してしまったところで、幸は小さく首を振った。
「……無理だな」
答えが出るまで一秒も掛からなかった。
教師から怒られること自体が怖いわけではなく、入学式の日に遅刻したのだから注意される程度は仕方がないと思っている。ただ幸が耐えられそうにないのは、その瞬間に教室中から向けられる視線だった。
何十人もの人間から、一度に見られる。
たったそれだけのことなのに、想像するだけで胃の奥が重くなり、身体まで強張ってくる。
――誰だ、あいつ。
――入学式から遅刻?
本当にそんなことを考える生徒がいるのかは分からないし、大半は少し見てすぐ興味を失うのかもしれない。
それでも幸には、こちらへ向けられた視線の一つ一つが、自分がどんな人間なのかを確かめるように、あるいは何か欠点を探すように値踏みしているものに感じられてしまう。
「職員室……」
試しに呟いてみる。
職員室へ行き、遅刻したことを説明して教師の誰かに教室まで案内してもらえばいい、それが一番正しくて、おそらく一番簡単な方法なのだということくらいは幸にも分かっていた。
分かってはいるのだが、
「……知らない先生に、自分から話しかけるのか」
結局そこでも躓く。
幸は小さく息を吐き、我ながら情けないと思いながら俯いた。
昔からそうだった。
分からないことがあっても人に聞くことができず、困っていても助けてほしいと言い出せないまま、自分の中だけでどうにかしようとしてしまう。ましてや、自分から誰かの輪の中へ入っていくようなことは、今までほとんどできなかった。
だから幸は、いつも一人でどうにかしてきた――と言えば、少し格好よく聞こえるかもしれない。
けれど実際のところは、どうすればいいか分からないまま苦手なことから逃げ、面倒なことは後回しにしているうちに、気づけば一人でいることの方が楽になっていただけだった。
「…………帰るか」
幸は校舎に背を向けた。
「今日一日休んだくらいで死ぬわけじゃないし、明日から普通に来ればいいだろ」
自分で口にしてみると、意外なほど筋の通った理屈に聞こえる。
もちろん、実際にはただの現実逃避だった。
それでも今から人の集まった教室へ入っていくよりは、何倍もましに思えた。
幸は首元が少し苦しかったネクタイを緩め、そのまま家へ向かって歩き始める。
今日のために、珍しく早めに起きようとはした。
新品の制服に皺がつかないよう気を遣い、慣れないネクタイだって鏡の前で何度も結び直したのに、それらが全部無駄になったと思うと、ほんの少しだけ虚しくなる。
「高校では……もう少しちゃんとしようと思ってたんだけどな」
誰に聞かせるでもなく漏れた独り言は、そのまま春風に攫われていった。
桜の花びらが足元から一斉に舞い上がり、強い風に押された制服の裾が大きく揺れる。
その時だった。
「ん?」
白い何かが視界の端へ飛び込んできた。
初めは桜の花びらかと思ったが、それにしては大きすぎる。
そう気づいた次の瞬間には、その白い何かが凄まじい勢いで幸の顔へ向かって飛んできていた。
「うわっ!」
反射的に両手を伸ばすと、ぱしっ、と乾いた音が鳴り、危うく目に直撃する寸前でどうにか受け止めることができた。
「……紙飛行機?」
手の中にあったのは、一機の紙飛行機だった。
幸は眉をひそめながらそれを持ち上げ、もう一度校舎を見上げる。
「入学式の日に、紙飛行機って……」
光陽学園は比較的校則の厳しい学校だと聞いている。
窓から紙飛行機を飛ばして遊んでいるところを教師に見つかれば、入学式当日から説教を受けてもおかしくない。
「どこから飛んできたんだ?」
校舎の上階へ目を向けると、いくつか窓が開いているのは見えるものの、さすがにそこから誰が飛ばしたのかまで分かるはずもなかった。
「まあ……いいか」
そのまま近くのゴミ箱へ捨てるか、せめて校内のどこかへ置いていこうかと思ったところで、ふと手が止まる。
紙飛行機の翼に、何かが書かれていた。
紫色の文字だった。
「…………?」
少し気になり、折り目に指を掛ける。
紙飛行機をゆっくりと開き始めた、その瞬間だった。
強い春風が正面から吹き抜け、開きかけた紙が勢いよく煽られる。
「っと……!」
危うく手から飛ばされそうになり、幸は慌てて指先へ力を込めた。
数秒ほどして風が収まり、ようやく紙を押さえ直す。
「危な……」
そう呟きながら開いた紙へ視線を落とし、そのまま動きを止めた。
「…………え?」
紙の中央に書かれていたのは、たった一行の短い文章だった。
可愛らしい紫色の文字で、最後には小さなハートマークまで添えられている。
『入学おめでとう、幸ちゃん♡』
「…………」
何度か瞬きをする。
見間違いかと思い、もう一度読む。
『入学おめでとう、幸ちゃん♡』
やはり内容は変わらなかった。
「……幸ちゃん?」
間違いなく自分のことだ。
櫻坂幸。
そして、この紙を書いた誰かは自分を『幸ちゃん』と呼んでいる。
けれど、その呼び方に心当たりがない。
「誰だよ……」
背中を冷たいものが走った。
今年、光陽学園へ進学した同じ中学校の生徒は一人もいない。
少なくとも幸が知る限り、この学校に自分の知り合いはいないはずだった。
上級生にも思い当たる人物はいないし、そもそも中学時代の幸は、先輩どころか同級生とさえほとんど関わらずに過ごしてきたのだから、この場所で自分の名前どころか昔からの呼び方まで知っている人物がいるということ自体がおかしい。
誰が自分を知っているのか。
どうして今、自分がここにいることまで分かったのか。
そして何より、
『幸ちゃん』
どうして、そんな呼び方をするのか。
「…………」
幸はゆっくりと校舎を見上げた。
ほんの少し前まで、ただ今日から通う学校としてしか見えていなかった建物が、急に別のものへ変わったような気がした。
無数に並ぶ窓。
そのどこかに、自分を知っている誰かがいる。
そう考えた途端、開いている窓の一つ一つから誰かに見られているような気がしてしまい、思わず紙を握る指へ力が入った。
「はは……」
乾いた笑いが漏れる。
「誰だよ。こんな悪戯する奴……」
笑っているつもりなのに、声は僅かに震えていた。
悪戯。
そう思ってしまえば簡単だ。
誰かがどこかで自分の名前を知り、面白半分に書いただけだと考えればいい。
けれど、『櫻坂』でも『幸』でもなく、『幸ちゃん』と書かれていることだけが、どうしても引っかかった。
その時、もう一度春風が吹いた。
先ほどまでの荒々しい風とは違い、今度はどこか甘く、優しい香りを含んだ風だった。
「…………?」
幸は思わず振り返る。
けれど、そこには誰もいない。
舞い上がった桜の花びらだけが、まるで校門の向こうへ誘うように、ゆっくりと学校の中へ流れていく。
幸はもう一度、手元の紙へ視線を落とした。
『入学おめでとう、幸ちゃん♡』
ついさっきまで、この学校へ入るつもりなどなく、このまま家へ帰って明日からやり直せばいいと思っていた。
その気持ちは、今も完全になくなったわけではない。
むしろ人の視線を考えれば、このまま帰ってしまいたい気持ちはまだ十分に残っている。
それなのに今は、何も知らないまま帰ってしまうことにも妙な不安があった。
自分を知っている誰かが、この学校のどこかにいる。
しかも、その相手が誰なのか、自分にはまったく心当たりがない。
「…………」
紙と校舎を交互に見つめる。
学校へ入るべきか。
それとも、このまま帰るべきか。
どちらを選んでも面倒なことになりそうな気しかしない。
「どうしよう……」
幸は深く息を吐き、そのまま肩を落とした。
「もうこの学校、辞めたくなってきた……」
高校生活初日。
櫻坂幸は、まだ教室にすら入っていない。
それなのに、彼の知らないところでは、すでに何かが動き始めていた。




