聞き間違いが大きな傷を残す
「おはよう、暁」
昨日の墓参りから一夜が明けた。
朝はいつも通り少し早めに家を出て、人の少ない時間に教室へ入る。まだ席の半分以上が空いている教室には、昨日と同じように俺より先に登校していた暁がいて、机に肘をつきながら何かを考え込んでいるように見えた。
「…………」
「どうした? 朝から怖い顔して」
できるだけ普段通りの声で話しかける。
昨日のことを引きずっているとは思われたくなかった。
墓の前で泣いたことも、四年前の出来事を未だに忘れられずにいることも、誰かに見せるつもりはない。
辛いものを抱えていたとしても、それを表に出さなければ誰にも気づかれないし、何もなかったように振る舞っていれば、そのうち本当に平気になれるような気がしていた。
少なくとも俺は、いつの間にかそうやって自分を守るようになっていた。
けれど、暁には通用しなかったらしい。
「あんた……何でそんな普通にしてられるの?」
「え?」
「昨日はあんなに辛そうだったじゃない」
暁は怒っているようにも見えたし、それ以上に、何かを我慢しているようにも見えた。
「それが一晩寝たら、何事もなかったみたいに『おはよう』って……何なのよ、それ」
「別にいいだろ。今日はもう大丈夫なんだから」
「大丈夫って……」
「昨日は昨日、今日は今日だよ」
それ以上この話を続けるつもりはなかった。
俺は自分の席へ向かい、鞄を机の横へ掛ける。
昨日はほとんど授業に集中できなかったし、ちょうどいいから暁に分からなかったところでも聞きながら復習しようと思い、教科書を取り出してもう一度彼女の席へ戻った。
「なあ、暁」
「…………」
「昨日の授業なんだけど、ちょっと分からないところがあってさ。一緒に見てもらってもいい?」
「…………」
「暁?」
返事がない。
不思議に思って横から顔を覗き込むと、暁は俯いたまま唇を噛みしめていた。
「どうした?」
「……ウザい」
「え?」
「そうやって何でもないみたいな顔してるのが、ウザいって言ってるの!」
突然声を荒らげた暁が勢いよく立ち上がる。
「ちょ、何だよ急に――」
そう言い終わるより先に、腹の奥へ強い衝撃が走った。
「っ……!」
一瞬、何が起きたのか分からなかった。
次の瞬間には息が詰まり、腹の奥から力が抜け、その場に膝をつく。
「ぐっ……」
暁の拳が鳩尾へ入ったのだと理解したのは、そのあとだった。
「櫻坂!」
殴った本人も、すぐに我に返ったらしい。
「ご、ごめん……」
暁が慌てて俺の前へしゃがみ込む。
「まさか避けないなんて思わなくて……」
「いや……普通、友達がいきなり殴ってくるとは思わないだろ……」
「…………ごめん」
「まあ、いいけど……痛いものは痛いぞ」
何とか呼吸を整えながら顔を上げる。
そこで初めて、暁の様子がおかしいことに気づいた。
「……暁?」
「…………」
俯いた暁の頬を、一筋の涙が伝っていた。
「何で泣いてるんだ?」
「え……?」
暁自身も気づいていなかったらしく、頬へ手を触れ、そのまま濡れた指先を見つめる。
「何で……」
もう一筋。
その次も。
拭っても拭っても、涙は止まらない。
「何で私が泣いてるのよ……」
いつもの強気な暁からは想像できないほど弱い声だった。
「暁、大丈夫か?」
心配になって近づこうとすると、暁は反射的に一歩下がった。
「来ないで!」
「…………」
「今、近くに来ないでよ……」
「分かったよ」
俺はその場に立ち止まる。
理由は分からない。
でも、泣いている友達を放っておく気にもなれなかった。
「何かあったなら聞くけど」
「…………」
「俺たち、友達だろ?」
その言葉に、暁の肩が小さく震えた。
「だから、悩んでることがあるなら話してくれていいよ。俺でよければ聞くから」
「…………何よ、それ」
「何って?」
「何であんたがそんなこと言うのよ……」
暁は涙を拭いながら、俺を睨む。
「自分は何も話さないくせに……」
「…………」
「昨日あんなに苦しそうだったのに、何も言わないで一人でどこかに行って、今日は何事もなかったみたいな顔して……」
そこで、ようやく分かった。
暁は、自分のことで泣いているわけじゃない。
俺のことを心配して泣いている。
「辛いなら辛いって言えばいいじゃない……」
声が震えている。
「友達なんだから、少しくらい頼ってくれたっていいじゃない」
「暁……」
「なのに何で、あんたが私の心配なんかしてるのよ!」
暁の声が教室へ響く。
「そんなに全部一人で抱え込みたいなら、勝手にすればいいじゃない!」
「…………」
「もう知らない! あんたなんて……」
感情に任せて言葉を続けようとした暁が、一瞬だけ躊躇する。
それでも、止めることはできなかった。
「あんたなんて、車に轢かれて死んじゃえばいいのよ!」
「…………」
その瞬間。
時間が止まったような気がした。
暁の声も。
教室のざわめきも。
何も聞こえなくなる。
『車に轢かれて死んじゃえばいい』
その言葉だけが、何度も頭の中で繰り返された。
「…………櫻坂?」
胸の奥が急激に冷たくなる。
息が浅くなり、指先が震え始める。
「……何で」
「え?」
「何で……そんなこと言うんだよ……」
ただの悪口なら、聞き流せたかもしれない。
中学時代には、似たような言葉を何度も浴びせられてきた。
でも今回は違う。
言ったのは、俺が友達だと思っている相手だった。
よりにもよって、その言葉だった。
「櫻坂……?」
暁が何か言っている。
けれど、もう耳には入ってこなかった。
視界がゆっくりと歪み、目の前にあったはずの教室が少しずつ遠ざかっていく。
代わりに浮かんできたのは、今とはまるで違う景色だった。
「…………」
四年前。
四月十二日。
俺は横断歩道の向こう側に立っていた。
目の前には、大型トラック。
急ブレーキをかけたのだろう。
道路には長いタイヤ痕が残っていて、その先のアスファルトは赤黒く染まっていた。
「…………っ」
見たくない。
思い出したくない。
それなのに、記憶は容赦なく続きを見せてくる。
トラックの近くに倒れている女性。
その少し先には、微動だにしない男性の姿があった。
知らない人じゃない。
俺が誰よりも知っている二人だった。
「母さん……」
母さんは、まだ生きていた。
血に濡れながらも僅かに顔を動かし、俺の方を見る。
そして、
『幸が……無事でよかった……』
そう言って、笑った。
「…………」
本当なら、安心するはずだった。
最後まで俺のことを心配してくれた言葉だった。
でも、当時の俺にはそう聞こえなかった。
俺のせいでこうなった。
俺があんなことをしなければ、父さんも母さんも轢かれることなんてなかった。
そんな罪悪感で頭の中がいっぱいだった俺には、母さんの笑顔さえ違うものに見えてしまった。
きっと俺を憎んでいる。
本当は怒っている。
どうして自分たちをこんな目に遭わせたんだと、俺を責めている。
そう思い込んでしまった。
『幸が無事でよかった』
母さんは、そう言ったはずなのに。
俺の頭の中では、その言葉が少しずつ歪んでいく。
『幸が――』
やめろ。
『――死ねばよかったのに』
「違う……」
そんなこと、母さんは言っていない。
分かっている。
分かっているのに。
『幸も死になさい』
「やめろ……!」
四年前から何度も聞いてきた、記憶には存在しない母さんの声。
それは母さんの言葉なんかじゃない。
俺自身が、自分へ向け続けている言葉だった。




