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あの町に生きていた僕たち  作者: 昶見宇登
第一部 高校開幕編
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21/21

心的外傷は体を蝕む

 多分、母さんは本当は別のことを言っていた。


 俺が無事だったことを喜んでくれていたのかもしれないし、最後まで俺のことを心配してくれていたのかもしれない。


 頭では分かっている。


 母さんが、俺に死んでほしいなんて願うはずがない。そんな人ではなかった。


 それなのに、あの日の俺の耳には違う言葉として届いてしまった。


『幸も死になさい』


「…………っ」


 違う。


 そんなことは言っていない。


 何度もそう自分に言い聞かせてきたのに、四年前からその声だけが何度も頭の中に蘇ってくる。


 眠りの中でも、横断歩道を渡る時でも、一人きりの夜でも。


『幸も死になさい』


 違う。


『幸が死ねばよかったのに』


 違う。


 母さんは、そんなことを言うはずがない。


「…………」


 やがて、目の前を埋め尽くしていた四年前の光景が少しずつ薄れていった。


 迫ってくる大型トラック。耳を塞ぎたくなるほど大きな音。道路へ倒れた父さんと母さん。そして、赤く染まった景色。


 それらがゆっくりと遠ざかり、代わりに朝の教室がぼんやりと視界へ戻ってくる。


「櫻坂……?」


 声が聞こえた。


 暁の声だと理解するまでに、少し時間がかかった。


「ねぇ、櫻坂……どうしたの?」


「…………」


 返事をしなければならない。


 大丈夫だと言って、いつもみたいに笑って、何でもないふりをすればいい。


 今まで何度もそうしてきた。誰にも気づかれないように、誰にも心配をかけないように。


 けれど、口が動かなかった。


 喉が塞がったように声が出ず、息をしているはずなのに肺へ空気が入ってこないような感覚だけが強くなっていく。


 指先は冷たくなり、身体の感覚まで遠のいていた。


 目の前にいるはずの暁さえ、どこか遠くにいるように見える。


「櫻坂?」


 暁の声は近づいているのに、俺の意識だけが反対に遠ざかっていった。


 視界の端からゆっくりと黒く染まり、足元の感覚まで消えていく。


「櫻坂……?」


 次の瞬間、膝から力が抜けた。


「櫻坂!」


 身体が大きく傾いた。


 手をつく余裕すらなく、そのまま教室の床へ倒れ込む。


 ドンッ、と鈍い音が響いた。


「櫻坂っ!? ねぇ、櫻坂! 聞こえる!?」


 暁の悲鳴に近い声が聞こえる。


 肩へ手を置かれ、身体を支えられていることだけは辛うじて分かった。


「ごめん……私が……」


「…………」


「私が、あんなこと言ったから……」


 違う。


 暁のせいじゃない。


 そう言いたかった。


 確かに、あの言葉は痛かった。二度と聞きたくないと思うほど、胸の奥を抉られた。


 それでも暁は何も知らなかったし、本気で俺に死んでほしいと思って言ったわけでもない。


 だから、そんなに泣くな。


 そう伝えたかったのに、声にはならなかった。


「櫻坂……お願い……」


 泣きながら俺の名前を呼ぶ暁の声が少しずつ遠ざかり、やがて意識は完全に途切れた。



     ◇



「幸ちゃん、おはよ――」


 由美が一年生の教室へ顔を出したのは、その直後だった。


 朝から少しだけ幸の顔を見ておこうと思い、普段より早く一年生の教室へ向かった。


 いつものように笑いながら、


『おはよう、幸ちゃん』


 そう声をかけるつもりだった。


 けれど、教室へ足を踏み入れようとしたところで、由美の足が止まる。


「……え?」


 床に幸が倒れていた。


 そのすぐそばでは、暁が膝をつき、幸の身体を支えながら必死に名前を呼んでいる。


「櫻坂! ねぇ、起きてよ!」


「…………」


「お願いだから……!」


「幸……ちゃん?」


 由美の顔から血の気が引いた。


「何が……あったの……?」


 何かしなければならない。


 頭ではそう分かっているのに、床へ倒れている幸を見た瞬間、身体が動かなくなってしまった。


 四年ぶりに見つけた。


 ようやく、もう一度会うことができた。


 そんな幸が今、目の前で動かなくなっている。


「幸ちゃん……?」


「お姉ちゃん?」


 後ろから声をかけられた。


 少し遅れて教室へやって来た優だった。


「どうしたの――」


 由美の肩越しに教室を覗き込んだ瞬間、優の表情が変わる。


「櫻坂君!」


挿絵(By みてみん)


 優はすぐに教室へ駆け込み、幸のそばへしゃがみ込んだ。


「帝さん、何があったの?」


「分からない……!」


 暁は涙を拭うこともできず、何度も首を振った。


「普通に話してたの。それで、私が……」


「今はいいから」


 優は落ち着いた声で遮った。


「呼びかけても反応しない?」


「うん……」


「櫻坂君、聞こえる?」


 返事はない。


 それでも胸は一定の間隔で上下している。


「呼吸はしてる」


「本当?」


「うん。でも、このまま私たちだけで何とかしようとしちゃ駄目だよ」


 優はすぐに暁を見る。


「帝さん、先生を呼んできて」


「でも……櫻坂が……」


「ここには私がいるし、お姉ちゃんもいる。だからお願い、先生を呼んできて」


「…………分かった!」


 暁はようやく立ち上がり、そのまま教室を飛び出していった。


「お姉ちゃん」


「…………」


「お姉ちゃん」


「え……?」


 優の声で、由美はようやく我に返った。


「ご、ごめん……」


「ううん。今は無理に動かさない方がいいと思うから、先生が来るまでここで様子を見よう」


「……うん」


 由美は幸のそばへ膝をついた。


「幸ちゃん……」


 顔色が悪い。


 普段、机へ伏せて眠っている時とは明らかに違っていた。


 幸の顔へ伸ばしかけた手が震える。


「どうして……」


「お姉ちゃん……」


「昨日は、ちゃんと話してくれたのに……」


 普通だった。


 少なくとも、由美にはそう見えていた。


「私……何にも分かってなかった」


 声が震える。


「幸ちゃんが、この四年間どうしてたのかも……何があったのかも……」


 その時、廊下から慌ただしい足音が聞こえてきた。


「幸っ!!」


 教室へ駆け込んできたのは枢木先生だった。


 そのすぐ後ろには、先生を連れてきた暁がいる。


「先生!」


 由美が顔を上げる。


 枢木先生は、そこでようやく自分が何と呼んだのか気づいた。


 普段なら必ず「櫻坂」と呼んでいる。


 それなのに、床へ倒れている姿を見た瞬間、考えるより先に名前が口から飛び出していた。


 けれど、今は取り繕っている場合ではない。


「状況は?」


 普段の軽い調子は完全に消えていた。


「話してたら、急に倒れて……」


「分かった。みんな、少しだけ離れて」


 枢木先生はそれ以上暁へ質問せず、すぐに幸のそばへしゃがみ込んだ。


「櫻坂、聞こえる?」


「…………」


 今度は、教師としていつもの呼び方へ戻っている。


 呼吸と顔色を確認しながら、枢木先生の眉が僅かに動いた。


 苦しそうな表情。乱れた呼吸。冷えた指先。


「櫻坂」


 もう一度呼びかける。


 今度の声は、先ほどより少しだけ柔らかかった。


「大丈夫よ。ここは学校だから」


「…………」


「もう大丈夫」


 返事がないと分かっていても、枢木先生は静かに言葉を続けた。


 その声は、幸に言い聞かせているというより、自分自身へ言い聞かせているようにも聞こえた。


「先生……?」


 由美が不安そうに見つめる。


 枢木先生はすぐに教師の表情へ戻った。


「呼吸はしてるわ」


「櫻坂……大丈夫なんですか?」


 暁が震える声で尋ねる。


「今の段階で大丈夫とは言い切れない。でも呼吸はあるから、まずは落ち着きなさい」


「でも……」


「暁さん」


 枢木先生はまっすぐ暁を見る。


「あなたまで倒れたら、私の仕事が増えるわ」


「…………」


 普段なら冗談として笑えたかもしれない。


 けれど今の声には、暁を責める響きはなかった。


「櫻坂は私が見るから、任せなさい」


「…………はい」


 暁は涙を拭いながら、小さく頷いた。


 その後、枢木先生は校内へ必要な連絡を取りながら幸の状態を確認し続けた。


 しばらくすると呼びかけに僅かな反応を見せ始めたものの、意識はまだはっきりしていない。


 状態が落ち着いたところで、幸は保健室のベッドへ寝かされ、しばらく様子を見ることになった。



     ◇



 静かな保健室。


 カーテンの向こうでは幸が眠っている。


 少し離れた場所に置かれた椅子には、由美、優、暁の三人が並んで座っていた。


 誰も口を開こうとしない。


 特に暁は膝の上で両手を強く握り締め、ずっと俯いていた。


「私が……」


 小さな声が漏れる。


「帝さん?」


 優が顔を向けた。


「私が悪い……。私が櫻坂に酷いこと言ったから……」


 その言葉を聞いた枢木先生が、静かに暁へ視線を向けた。


「暁さん、何を言ったの?」


「…………」


 暁は唇を噛んだ。


 言いたくない。


 けれど、言わなければならない。


 そんな迷いが表情に浮かんでいる。


「……車に」


 やがて、震える声で言った。


「車に轢かれて……死んじゃえばいいって……」


「…………」


 その瞬間、枢木先生の表情が僅かに固まった。


「先生?」


 由美がその変化に気づいた。


「幸ちゃんに……何かあるんですか?」


「…………」


 枢木先生はすぐには答えなかった。


 脳裏に、つい先日の光景が蘇る。


 墓石の前で泣き崩れ、自分自身を責め続けていた少年。


『俺は……人殺しだから』


 あの声を、枢木先生は忘れていなかった。


 違う。


 あの子は人殺しなんかじゃない。


 あの日も、そう思った。


 声をかけることはできず、ただ遠くから見守るしかなかった。


 そして今、その幸へ向けて、よりにもよって「車に轢かれて死ね」という言葉が投げかけられた。


「先生……?」


 由美の声で、枢木先生は意識を現在へ戻した。


「幸ちゃんに、何かあるんですよね?」


「……由美さん」


「はい」


「ごめんなさい。詳しいことは、私からは話せないわ」


「でも……」


「櫻坂が自分から話していないことを、私が勝手に他の人へ話すことはできない」


「…………」


「たとえ、あなたが昔から櫻坂を知っている人だったとしてもね」


 由美は少しだけ俯いた。


「……ごめんなさい」


「謝る必要はないわ。心配なのは分かってるから」


 枢木先生は三人へ視線を向ける。


「ただ、学校生活を送る上で少しだけ覚えておいてほしいことはある」


「何ですか?」


 優が尋ねた。


「櫻坂について、学校生活を送る上で少し配慮が必要なことは伝えておくわ。ただ、それ以上のことは本人が話すまで聞かないであげて」


「配慮……ですか?」


「過去の出来事に関係することで、強いストレス反応が出ることがあるの。学校側も、それについては把握してる」


「過去の出来事……」


 優は小さく呟いた。


 昨日からの幸の様子を思い返す。


 四月十二日だけ、明らかに普段と違っていた。


『今日だけは、一人にしてほしい』


 そう言って誰とも関わろうとしなかったこと。


 昔のことをまだ引きずっていると話していたこと。


 そして今日、「車に轢かれて死んじゃえばいい」と言われた直後に突然様子がおかしくなったこと。


 それらが少しずつ頭の中で繋がっていく。


 過去の強い体験を思い出させる何かをきっかけに、突然記憶が蘇ったり、強い恐怖や身体反応が現れたりする。


 以前、本で読んだ言葉が脳裏をよぎった。


 ――PTSD。


「…………」


 けれど優は、その言葉を口にはしなかった。


 今ある情報だけで、自分が幸をそうだと決めつけていいわけではない。


「優さん」


「え?」


「何か考えてる?」


 枢木先生がこちらを見ていた。


「……過去の怖い経験を思い出したことで、ああなった可能性もあるのかなって」


「そうね。可能性としてはあるわ」


「…………」


「でも、今ある情報だけで櫻坂に何があるのかを決めつけないこと」


「……はい」


「あなたは周りをよく見ているからこそ、気づいたことをそのまま答えだと思わないようにしなさい」


「はい」


 優は静かに頷いた。


「櫻坂について、学校生活を送る上で少し配慮が必要なことは伝えたわ。でも、それだけよ」


 枢木先生は改めて三人を見る。


「櫻坂が自分から話していないことについて、私から三人に伝えたことは何もない。そこは忘れないでね」


「はい」


 三人の返事が重なった。


 その中で、暁だけは今にも泣き出しそうな顔をしていた。


「じゃあ……」


 掠れた声が漏れる。


「私が言ったことが、きっかけだったってことですか?」


「可能性はあるわ」


「…………っ」


 暁の肩が震える。


「やっぱり、私が……」


「暁さん」


 枢木先生の声が少しだけ強くなった。


「全部を自分のせいにするのは違う」


「でも!」


「櫻坂がどうしてああなったのか、その全部をあなたは知らないでしょう?」


「…………」


「分からないことまで自分の責任だと決めつけないこと」


 その言葉を口にしながら、枢木先生はほんの僅かに胸の奥が痛むのを感じていた。


 同じ言葉を、本当はもっと別の誰かにも伝えたかった。


「ただし」


 枢木先生の目が僅かに厳しくなる。


「『車に轢かれて死ね』なんて言葉は、櫻坂に事情があってもなくても、人に向けていい言葉じゃない」


「……はい」


「そこは分かる?」


「分かってます……」


 暁の目から涙が落ちた。


「言った瞬間から、後悔してました。本当は死んでほしいなんて思ってないのに、腹が立って……」


「うん」


「それで……」


「分かったわ」


 枢木先生は、それ以上責めなかった。


「櫻坂が目を覚ましたら、自分の言葉でちゃんと謝りなさい」


「……はい」


「理由を並べる前に、傷つけたことを謝る。それから、櫻坂が何を言うのかちゃんと聞いてあげて」


「はい……」


 暁は涙を拭いながら何度も頷いた。


「帝さん」


 優が静かに声をかける。


「何……?」


「今は、櫻坂君が起きるのを待とう」


「…………」


「起きたら、ちゃんと話せばいいと思う。今ここで帝さんが自分を責め続けても、櫻坂君には届かないから」


「……うん」


 暁は俯いたまま、小さく頷いた。



     ◇



「幸ちゃん……」


 由美は、ずっと幸が眠っている方を見つめていた。


 四年前、自分が小学校を卒業して幸と離れたあと、何かが起きた。


 それだけは、再会してからずっと感じていた。


 昔の幸はもっとよく笑っていた。


 くだらないことで笑い、嫌なことがあれば怒って、寂しい時には素直に甘えてくることもあった。


 それなのに、四年ぶりに会った幸は、人から見られることを極端に嫌がり、自分自身のことをほとんど話そうとしなくなっていた。


「ずっと……何か抱えてたんだね」


 由美の頬を涙が伝う。


「私、会えなかった四年間のことばっかり考えてた」


 どうして同じ中学校へ来なかったのか。


 どうして連絡してくれなかったのか。


 自分のことを忘れてしまったのではないか。


 そんなことばかり気にしていた。


「私のこと、嫌いになったのかなって思ったこともあった」


「…………」


「でも、違ったのかもしれないね」


 由美はカーテンの向こうを見る。


 昨日、幸が言っていた言葉を思い出す。


『まだ、誰かと一緒に行けるほど俺の中で整理できてないんだ』


 あの時は、もっと聞きたいと思った。


 何があったのか。


 自分にも教えてほしいと。


 けれど今なら、少しだけ分かる。


「どうして言ってくれなかったの、なんて……言えないよね」


 由美は涙を拭った。


「きっと、言えなかったんだよね」


 話したくないのではなく、話せない。


 言葉にすることさえ苦しい記憶がある。


 そのことを由美は、ようやく少しだけ理解し始めていた。


「…………」


 枢木先生は、そんな由美を何も言わず見ていた。


 幸が四年間、何を抱えてきたのか。


 彼女は知っている。


 少なくとも、ここにいる三人よりはずっと多くのことを。


 けれど、自分が今それを語れば、幸から自分で話すかどうかを選ぶ権利を奪うことになる。


 だから何も言わない。


 ただ一度だけ、カーテンの向こうへ視線を向ける。


 墓前で聞いた声が、まだ耳の奥に残っていた。


『母さん……父さん……俺を許してよ……』


『俺は……人殺しだから』


 違う。


 あの子は人殺しなんかではない。


 また心の中で、静かに否定する。


 何度でも。


 いつか幸自身が、そう思えるようになるまで。


「先生?」


「ん?」


 優に呼ばれ、枢木先生は表情を戻した。


「……何でもないわ」


 そしてカーテンへ目を向ける。


「今は、櫻坂が目を覚ますのを待ちましょう」


 由美、優、暁の三人が静かに頷いた。


 誰も、幸に何があったのかはまだ知らない。


 四年前の四月十二日に何が起こったのかも、なぜ幸があの日をあれほど嫌っているのかも分からない。


 優の中には一つの可能性が浮かんでいるものの、それもまだ推測にすぎない。


 ただ、三人にも一つだけ分かったことがあった。


 幸は何も苦しんでいないから笑っていたのではない。


 苦しんでいることを誰にも知られないように、何でもないふりをして笑っていただけだった。


 そして、そのことを三人よりずっと前から知っている人物が、同じ部屋にいる。


 ただし、その人物がどこまで幸のことを知っているのかを、三人はまだ知らない。


「…………」


 枢木先生は静かに椅子へ腰掛け、カーテンの向こうから聞こえてくる幸の呼吸へ耳を傾けた。


 膝の上に置いた手が、ほんの僅かに強く握られる。


 墓地では、声をかけることができなかった。


 あの時はただ、離れた場所から見守ることしかできなかった。


 けれど今は違う。


 少なくとも、自分はこの子の教師だ。


 必要な時に叱り、必要な時には手を差し伸べることができる。


 それが、かつて自分があの人たちから受け取ったものへの、ほんの少しの恩返しになるのなら。


 枢木先生はその思いを誰にも悟られないよう胸の奥へしまい込み、静かに幸が目を覚ますのを待ち続けた。

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