自分では自分の気持ちを理解することはできない
「櫻坂……どうしたんだろう」
自分の席に座った私は、少し離れたところにいる櫻坂へ視線を向けていた。
さっきまでのあいつは、明らかにいつもと違っていた。
普段なら私が何か言えば適当な軽口を返してくるし、こっちが腹を立てれば「暴力反対」なんて言いながら逃げる。それなのに今日は、何をするにも気力がなくて、最後にはあんな苦しそうな顔で「一人にしてほしい」とまで言った。
あんな櫻坂を見るのは初めてだった。
「せっかく友達になったんだから……少しくらい話してくれてもいいじゃない」
誰にも聞こえないくらいの声で呟く。
櫻坂幸は、私にとって初めてできた男子の友達だ。
今まで男子とまともに友達になれなかった私にとって、それだけでも十分特別な存在だった。
別に、恋愛とかそういう意味じゃない。
ただ、高校で初めてできた男友達だからこそ、辛そうにしているなら力になりたいと思う。
そう思っているのに、本人からは「放っておいてほしい」と言われてしまった。
「……私って、そんなに頼りないのかな」
自分でも少し情けなくなる。
これまで男子と上手く付き合えなかった原因が自分にあることくらい、分かっている。
腹が立てばすぐに睨むし、言葉より先に身体が動くこともある。空手だって、本来は人を傷つけるために習っているわけじゃないのに、つい感情に任せて使いそうになることがある。
櫻坂からすれば、そんな私に重い話なんてしたくないのかもしれない。
やがて始業のチャイムが鳴り、先生が教室へ入ってきた。
私も前を向いて授業を受け始めたものの、どうしても櫻坂のことが気になってしまう。
黒板を見て、ノートを取ってはいる。
けれど、その表情はいつもよりずっと暗い。
時折、何かを呟くように口を動かしているのも見えた。
「…………」
何て言っているんだろう。
私の席からでは聞き取れない。
そんな櫻坂の様子を気にしていると、隣の席から一人の女子が身体を少しだけ寄せた。
「櫻坂君……どうかしたの?」
眼鏡をかけた、大人しそうな女子だった。
確か名前は、小鳥遊優。
入学初日の自己紹介で、お姉さんがこの学校にいると言っていた子だ。
「なんでもないよ。ただ、ちょっと疲れてるだけだから」
櫻坂はそう答えながら、無理に笑おうとしていた。
「…………」
何よ、その笑顔。
いつもの櫻坂なら、もう少し自然に笑う。
今のはどう見ても、心配をかけないために作った笑顔だった。
小鳥遊も同じことを感じたらしく、少し困ったように微笑んだ。
「櫻坂君、無理して笑わなくてもいいと思うよ」
「え?」
「辛い時に無理して大丈夫なふりをすると、もっと疲れちゃうから」
小鳥遊は少しだけ視線を落とした。
「私もね、平気なふりをすることがあるの。お姉ちゃんのことは大好きなんだけど、比べられるのが辛いなって思うこともあるし……だから、全部話さなくてもいいけど、辛い時くらいは辛いって言ってもいいんじゃないかな」
「…………」
櫻坂が少し驚いた顔で小鳥遊を見る。
私も思わず彼女を見つめていた。
優しい言い方だった。
無理に理由を聞き出そうともせず、「話せ」と迫るわけでもない。
ただ、辛いことを辛いと言っていいと伝えている。
「……そっか」
櫻坂の表情が、ほんの少しだけ緩んだ。
「まあ、昔ちょっと色々あってさ。それをまだ引きずってるだけなんだ」
「うん」
「詳しいことは今は話せないけど」
「話したくないなら、話さなくていいよ」
「……ありがとう、小鳥遊」
「ううん」
「…………」
何だろう。
胸の奥が、妙にざわつく。
私が聞こうとした時は、あんなに拒絶したのに。
小鳥遊には、ほんの少しとはいえ自分から昔のことを話している。
「…………何でよ」
別に、小鳥遊が悪いわけじゃない。
むしろ櫻坂を心配してくれたのだから、感謝するべきなんだと思う。
それなのに、面白くない。
無意識のうちに小鳥遊をじっと見ていると、彼女がこちらの視線に気づいた。
「――ひっ」
肩が跳ねる。
「…………」
「…………」
目が合った。
小鳥遊は怯えたように背筋を伸ばしたあと、なぜか小さく頭を下げた。
「……ご、ごめんなさい」
「何で謝るのよ」
「えっ?」
「私、何も言ってないでしょ」
「そ、そうだけど……すごく睨まれてる気がして」
「…………」
睨んでいたらしい。
「小鳥遊、どうかした?」
櫻坂が不思議そうに声をかける。
「な、なんでもないよ!」
「そう?」
「うん!」
慌てて前を向く小鳥遊を見て、櫻坂が少しだけ笑った。
さっきまでの無理に作った笑顔とは違う、ほんの僅かだけど自然な笑顔だった。
「…………」
また胸の奥がざわついた。
今度はさっきよりも強い。
「何なのよ、これ……」
シャープペンを握る右手に、無意識のうちに力が入る。
パキッ、と小さな音がして、ペン先から出ていた芯が折れた。
「…………」
私は折れた芯を見つめながら、ゆっくりと手の力を抜いた。
別に小鳥遊が嫌いなわけじゃない。
櫻坂を取られたわけでもない。
そもそも友達なんだから、私以外の女子と話すことくらい当たり前だ。
頭ではそう分かっている。
それなのに、小鳥遊と話して少しだけ楽そうな顔をした櫻坂を見ていると、なぜか無性に面白くなかった。
「……私、どうしちゃったんだろ」
自分でも、この気持ちの正体が分からない。
ただ一つ分かるのは、櫻坂が自分には見せなかった表情を誰かに見せたことが、思っていた以上に気になっているということだった。
私は新しい芯を出しながら、もう一度だけ櫻坂の方を見る。
「……友達なんだから、私にだって少しくらい頼ってくれてもいいのに」
今度こそ誰にも聞こえないように呟いて、私は黒板へ視線を戻した。




