残酷な日常は事実を突きつける
「おはよう、櫻坂」
朝の教室へ入ると、聞き慣れた声が俺を迎えた。
光陽学園へ入学してから、早くも一週間が経っている。
最近の俺は、少しだけ早めに学校へ来るようになっていた。特に理由があるわけではなく、家にいても朝からやることがないから、その時間を学校で過ごしているだけだ。
元々起きる時間が早いこともあって、普段なら俺が教室へ着いた時には誰もいない。
けれど今日は珍しく、先客がいた。
「……おはよう、帝。今日も元気そうで何より」
自分でも分かるくらい、声に力が入っていなかった。
帝暁はそんな俺の様子を不審に思ったのか、机に鞄を置きながら眉をひそめる。
「何よ、その挨拶。朝から元気なさすぎじゃない?」
「そう?」
「そうよ。いつもならもう少し腹立つ返事してくるでしょ」
「酷い評価だな」
「事実でしょ?」
暁は肩まで伸びた黒髪を軽く払うと、俺の前まで歩いてきた。
空手を続けているだけあって姿勢がよく、無駄のない動きは普段の何気ない仕草にまで染みついている。
「毎回思うけど、帝って朝から元気だよな」
「普通よ。あんたが死にかけみたいな顔してるだけ」
「はは……暴力反対」
「まだ何もしてないんだけど?」
俺が力なく片手を上げると、暁はますます怪訝そうな顔になった。
普段なら、ここでもう少し言い返す。
暁が何か言えば、俺も適当なことを返して、最後には暁が怒る。
いつの間にか、それが俺たちのいつものやり取りになっていた。
でも今日は、それすら面倒だった。
「本当にどうしたの?」
「何でもないよ」
「何でもない顔じゃないでしょ」
「眠いだけ」
「嘘」
「何で分かるんだよ」
「一週間一緒にいれば、それくらい分かるわよ」
「…………」
思わず黙ってしまった。
暁はそんな俺の反応を見て、さらに表情を曇らせる。
「櫻坂」
「何?」
「具合悪いなら保健室行った方がいいんじゃない?」
「大丈夫」
「でも――」
「本当に大丈夫だから」
少し強めに言ってしまった。
「…………」
暁の表情が僅かに固くなる。
「ごめん」
「別にいいけど」
気まずい空気が流れた。
それを誤魔化すように、俺は小さく笑う。
「ほら、帝。いつもの空手でもやったら?」
「何それ。殴ってほしいの?」
「冗談」
「今日は本当に変ね」
「そうかな」
「そうよ」
暁は俺の前に立ったまま、じっと顔を覗き込んでくる。
「…………」
嫌だ。
見ないでほしい。
今日だけは。
誰にも自分の顔を見られたくなかった。
「帝」
「何?」
「本当に放っておいてくれない?」
「…………」
「今日だけでいいから」
その言葉を聞いた瞬間、暁の表情が変わった。
「今日だけ?」
「うん」
「それ、どういう意味?」
「別に意味なんてないよ」
「あるでしょ。わざわざ『今日だけ』なんて言うんだから」
「…………」
「今日、何かあるの?」
暁の問いに、胸の奥が僅かに痛んだ。
答えたくない。
言葉にしたくない。
口にしてしまえば、記憶の中に押し込めているものまで全部溢れ出してきそうだった。
「何でもないって」
「櫻坂」
「何でもない!」
思った以上に大きな声が出た。
「…………っ」
暁が驚いたように目を見開く。
「ごめん」
すぐに視線を逸らした。
「でも、本当に何でもないから」
「…………」
「今日だけは、一人にしてほしい」
それだけ言い残し、俺は自分の席へ向かった。
鞄を机の横へ置き、そのまま腕を枕にして突っ伏す。
何もしたくない。
誰とも話したくない。
何も思い出したくない。
それなのに、目を閉じた瞬間から嫌でも記憶が蘇ってくる。
声。
顔。
あの日の光景。
忘れようとしても、忘れられない。
時間が経てば少しずつ薄れていくものだと思っていた。
けれど違った。
何年経っても、この日が来るたびに鮮明になる。
胸の奥から湧き上がってくるのは、悲しさだけじゃない。
悔しさ。
怒り。
憎しみ。
そして何より、自分自身へのどうしようもない嫌悪感。
「…………」
拳を握る。
爪が掌へ食い込んでも、ほとんど気にならなかった。
どうして。
あの時。
俺は――。
「…………やめろ」
これ以上考えるな。
分かっている。
分かっているのに、記憶は止まってくれない。
「今日だけは……駄目なんだよ……」
誰に言うでもなく、小さな声が漏れた。
少し離れた場所にいる暁がこちらを見ている気配がしたけれど、顔を上げることはできなかった。
今だけは、誰にも触れてほしくない。
ただ目を閉じて、この一日が少しでも早く終わることだけを願う。
四月十二日。
少しずつ桜が散り始める、この季節。
それは俺にとって、ただの日付ではない。
何年経っても忘れることのできない出来事が起きた日であり、今でも思い出すたびに胸の奥を抉られる。
俺――櫻坂幸にとって。
四月十二日は、一年の中で最も嫌いな日だった。




