人が持つ日常は他人が持つ非日常である
学校から帰ると、そこにはいつもと変わらない静かな一軒家が待っていた。
小さな庭があり、その隣には車一台分の駐車スペースがある。特別広いわけでも、豪華なわけでもない、ごく普通の家だ。
ただ一つ、普通と違うところがあるとすれば、この家には今、俺しか住んでいないということだった。
「ただいま……」
誰も返事をしないと分かっていても、玄関を開けると自然とそう口にしてしまう。
学校からの帰り道に買ってきた野菜や日用品を両手に抱えたままキッチンへ向かい、食材を冷蔵庫へしまっていく。
それが終わると、俺は鞄を持って二階にある自分の部屋へ戻った。
「さて……やるか」
机の前に座り、今日使った教科書とノートを広げる。
午前中の授業はほとんど眠ってしまっていたため、まずは授業で進んだ範囲を自分で確認することにした。
教科書を読みながら要点をノートへまとめ、分からない部分があれば参考書を開く。それが終われば、次の授業範囲にも軽く目を通しておく。
予習と復習。
もう、いつから始めたのかも覚えていないくらい、俺にとっては当たり前の習慣になっていた。
別に勉強が好きなわけではない。
将来やりたい仕事が決まっているわけでもないし、どうしても行きたい大学があるわけでもない。
今の俺には、これといった夢なんてなかった。
それでも、成績を取っておけば選べる道は増える。
いつか何かをしたいと思った時に、「あの時もっと勉強しておけばよかった」と後悔するくらいなら、今できることをやっておいた方がいい。
それだけだった。
「…………」
静かな部屋に響くのは、シャープペンシルが紙の上を走る音と、壁に掛けられた時計の秒針だけ。
誰かが話しかけてくることもなければ、テレビの音が聞こえてくることもない。
俺はただ黙々と問題を解き続けた。
まるで、他にやることを知らないみたいに。
気づけば時間の感覚さえなくなっていた。
「……ん?」
何となく時計へ目を向ける。
「九時……?」
思わず二度見した。
「いつの間にこんな時間になってたんだよ……」
学校から帰ってきてから、ほとんど休まず勉強していたらしい。
そういえば晩飯もまだ食べていない。
それを思い出した途端、身体も空腹を思い出したのか、腹の奥から大きな音が鳴った。
「さすがに腹減ったな……」
昼休みは礼美先輩に弁当をほとんど食べられてしまい、暁からもらったクリームパンで何とか空腹を凌いだだけだった。
あれからまともなものを何も食べていないのだから、腹が減るのも当然だ。
俺は教科書を閉じ、一階のキッチンへ向かった。
冷蔵庫を開け、帰りに買ってきた野菜と、中に残っていた食材を取り出す。
「今日は……これでいいか」
包丁を手に取ると、規則正しい音がキッチンに響き始めた。
野菜を切る音。
フライパンへ食材を入れた時の音。
油の弾ける音とともに広がっていく香り。
料理をしている間だけは、静かすぎる家の中にも少しだけ生活の音が生まれる。
「もう少し塩……いや、これくらいでいいか」
味を確認しながら手を動かしているうちに、夕食はすぐに完成した。
出来上がった料理を食卓へ並べる。
炒めた野菜。
肉料理。
簡単な汁物。
自分で言うのもなんだが、見た目だけならそれなりにまともな夕食だと思う。
「いただきます」
椅子へ座り、箸を手に取る。
そこで改めて食卓を見ると、料理の種類に対して並んでいる食器の少なさが妙に目についた。
茶碗は一つ。
汁椀も一つ。
箸も一膳。
当然だ。
食べる人間が、俺一人しかいないのだから。
「…………」
この家は、一人で暮らすには少し広い。
部屋も余っているし、食卓だって本来なら何人かで囲める大きさがある。
けれど今は、どれだけ料理を作っても座るのは俺一人だけだった。
好きで一人暮らしをしているわけじゃない。
一人の方が気楽だから、こうしているわけでもない。
いろいろなことがあって、気づけば俺はこの家で一人、食事をするようになっていた。
「…………いただきます」
さっきよりも小さな声で、もう一度そう呟く。
もちろん、返事はない。
俺は静かな食卓で一人、箸を動かし始めた。
学校では、由美姉ちゃんや暁たちのおかげで少しだけ賑やかな時間を過ごせるようになった。
けれど家へ帰れば、いつも通りだった。
誰もいない家で、自分で作った飯を一人で食べる。
それが今の俺にとっての、当たり前の日常だった。




