非日常を楽しめる日常は大切に
「いい加減に起きないと怒るよ、幸ちゃん?」
耳元で聞こえた声に、深い眠りの中にいた意識が少しずつ浮かび上がっていく。
俺のことを『幸ちゃん』と呼ぶ人間なんて、今のところ一人しか思い当たらない。
「……由美姉ちゃんか。おはよう」
「おはようじゃないよ。もう昼休みなんだから」
重たい瞼を開けると、机に突っ伏している俺のすぐ横で、由美姉ちゃんが少し呆れたような顔をしていた。
「授業中ずっと寝てたんでしょ? ちゃんと授業を受けないと、成績にも響いちゃうよ?」
「大丈夫だよ。推薦を狙ってるわけじゃないし、大学も一般受験で受けるつもりだから。最低限の成績さえ取れてれば何とかなる」
「もう……。幸ちゃんがそれでいいなら、今は何も言わないけど」
由美姉ちゃんは少し不満そうに頬を膨らませたあと、すぐに表情を明るくした。
「それより、一緒にお昼食べない?」
「昼?」
「うん。屋上に行こうよ。早く行かないと、いい場所取られちゃうから」
「分かったから、ちょっと待って。まだ寝起きなんだよ」
「歩いてたら目も覚めるよ。ほら、行こ?」
「ちょっ、待ってって」
由美姉ちゃんは俺の返事を最後まで聞くことなく、楽しそうに俺の腕を引いた。
俺より一学年上の小鳥遊由美。
小学生の頃によく一緒に遊んでいた、姉のような存在だ。
四年ぶりに再会した翌日、その由美姉ちゃんが一年生の教室まで迎えに来て、俺を昼食へ誘っている。
当然、そんな光景が目立たないわけがなかった。
「…………」
教室を出る直前、何となく嫌な気配を感じて周囲を見る。
案の定、クラスメイトたちの視線が一斉に俺たちへ向いていた。
「また視線の的になってる……嫌だな」
「そんなの気にしなくてもいいのに」
「俺は気にするんだよ」
「私は見られるのって、そんなに嫌じゃないんだけどなぁ」
「由美姉ちゃんくらいだよ、それは」
「そうかな?」
「少なくとも俺には理解できない」
由美姉ちゃんに手を引かれたまま廊下へ出る。
その後も、すれ違う生徒が何度かこちらを振り返っていた。
中には、
「誰だよ、あいつ……」
「一年のくせに……」
なんて声まで聞こえてくる。
「…………」
聞かなかったことにしよう。
入学二日目から面倒事に巻き込まれるのは御免だ。
そんなことを考えながら歩いていると、それまで楽しそうに前を歩いていた由美姉ちゃんが、急に歩く速度を緩めた。
「ねぇ、幸ちゃん」
「ん?」
振り返った由美姉ちゃんは何かを言おうとしているようだったが、なかなか言葉が出てこない。
「どうしたの?」
「ううん、その……」
言葉を探すように視線を逸らしたあと、由美姉ちゃんは少し困ったように笑った。
「ごめんね。やっぱり何でもない」
「…………」
何となく、聞かれようとしていたことは分かる。
たぶん。
『私と別れたあと、何かあったの?』
そう聞きたかったのだと思う。
由美姉ちゃんは、小学校を卒業したあと俺も同じ中学校へ進学すると信じていた。
でも、俺はそこへ行かなかった。
四年間連絡を取ることもなかったのだから、理由が気になるのは当然だ。
「由美姉ちゃん」
「なに?」
「今度、ちゃんと話すよ」
「…………」
「今はまだ、ちょっと話したくないけど」
由美姉ちゃんは一瞬驚いた顔をしたものの、すぐに優しく頷いてくれた。
「うん、分かった。幸ちゃんが話したくなった時でいいよ」
「ごめん」
「謝らなくていいの。無理に聞きたいわけじゃないから」
「ありがとう」
「うん」
それ以上、由美姉ちゃんは何も聞いてこなかった。
その優しさがありがたかった。
いつかは話さなければならないと思う。
だけど、今はまだ昔のことを全部言葉にして話せるほど、俺の中では整理できていない。
だから今くらいは、普通に過ごしたかった。
昼休みに誰かと飯を食べて、くだらない話をして、授業が終われば家へ帰る。
そんな何でもない日常を。
俺にとっては、そういう平凡な毎日こそが一番大切だった。
◇
「やっぱり屋上、気持ちいいね」
「そうだな」
屋上へ着いた俺たちは、フェンスの近くに空いている場所を見つけて腰を下ろした。
雲一つない青空。
春の日差しは暖かく、時折吹く風も心地いい。
騒がしい校舎から少し離れただけなのに、ここだけ時間の流れがゆっくりになったように感じられた。
「いただきます」
「いただきます」
由美姉ちゃんは持ってきていたサンドイッチを取り出し、俺も自分で作ってきた弁当を開ける。
しばらくは二人とも何も話さず、それぞれ昼食を食べていた。
静かだった。
でも、不思議と気まずくはない。
昔もこんな感じだったような気がする。
「由美姉ちゃん」
「ん?」
サンドイッチを口へ運ぼうとしていた由美姉ちゃんが、俺の方を向いた。
「今度さ、またカノン弾いてくれない?」
「カノン?」
「うん。昨日みたいに」
あの曲を聞いた時、忘れていた昔の記憶が少しだけ戻ってきた。
まだ何も失っていなかった頃。
今よりずっと普通に笑えていた頃。
そんな時間を思い出させてくれる曲だった。
「今度は、ゆっくり聞きたいんだ」
由美姉ちゃんは少し驚いたように俺を見つめたあと、嬉しそうに微笑んだ。
「もちろんいいよ」
「本当?」
「うん。じゃあ、明日にでも音楽室を借りて弾こうかな」
「ありがとう」
「どういたしまして」
由美姉ちゃんは嬉しそうに笑うと、再びサンドイッチへ手を伸ばした。
「ほら、幸ちゃんも早く食べないと、お昼休み終わっちゃうよ?」
「そうだな」
俺も弁当へ箸を伸ばす。
ところが。
「…………」
何かがおかしい。
「どうしたの?」
「いや……」
弁当を見る。
もう一度、よく見る。
「おかずが減ってる」
「え?」
「絶対減ってる」
今日は少し量を少なめに作ってきた。
だからこそ分かる。
さっきまであったはずのおかずが、一つ消えている。
「由美姉ちゃん、食べた?」
「食べてないよ」
「じゃあ、何で……」
その時だった。
「ん~、おいしいねぇ、これ」
背後から、のんびりした声が聞こえた。
「…………」
「…………」
俺と由美姉ちゃんが同時に振り返る。
そこには、一人の女子生徒が立っていた。
しかも、俺の弁当から取ったらしいおかずを平然と食べている。
「萌笑!」
由美姉ちゃんが勢いよく立ち上がった。
「何してるの!」
「何ってぇ、お昼ご飯?」
「それ、幸ちゃんのお弁当でしょ!」
「いいじゃん。一個くらい」
「よくないよ! 私だって、まだ幸ちゃんのお弁当食べさせてもらってないのに!」
「そこなの?」
思わず突っ込んでしまった。
「だってぇ、すごく美味しそうな匂いがしたんだもん。お腹空いてたしぃ、つい?」
「『つい』で人のお弁当食べちゃダメでしょ!」
「由美が怒ったぁ」
そう言いながら、今度はなぜか俺の後ろへ回り込んできた。
「彼氏く~ん、助けてぇ」
「誰が彼氏だよ」
「え? 違うの?」
「ち、違うよ!」
俺より先に由美姉ちゃんが否定した。
ただ、その割には少しだけ頬が赤くなっている気がする。
「由美姉ちゃん?」
「な、何でもないよ!」
「そう?」
「それより萌笑、幸ちゃんから離れてよ!」
「え~、いいじゃん」
「よくないの!」
俺を間に挟んで言い争う二人。
突然知らない女子との距離が近くなったせいで、俺の方は落ち着かなかった。
「…………」
誰なんだ、この人。
「もう、分かったよぉ」
萌笑と呼ばれた女子はようやく俺から離れると、俺の正面へ回り込んだ。
「改めましてぇ、礼美萌笑。二年生だよぉ」
「櫻坂幸です」
「知ってるよぉ」
「何で?」
「由美からいっぱい聞いてるからぁ」
「萌笑!」
「本当のことでしょ?」
「もう、余計なこと言わないでよ……」
「…………」
なるほど。
由美姉ちゃんの友達らしい。
そこで、ふと気づいた。
「……あ」
「どうしたのぉ?」
「昨日の人だ」
「昨日?」
「入学式の前、先生に連れていかれてた」
「…………」
礼美先輩は少し考えたあと、嬉しそうに手を叩いた。
「あ~! 見てたんだぁ?」
「見てました」
「ひどいよねぇ。私、新入生のお祝いに来てあげただけなのに、先生たちに追い出されちゃったんだよぉ?」
「でも、昨日は二、三年生はお休みだったんだから、学校に来たら怒られても仕方ないんじゃない?」
由美姉ちゃんが苦笑しながら言う。
「由美だって来てたじゃん」
「私は、その……」
「彼氏くんに会うため?」
「…………」
由美姉ちゃんが黙り込む。
「やっぱりぃ」
「もう、萌笑!」
「照れなくてもいいのにぃ」
「照れてないよ!」
また始まった。
「それで、萌笑が屋上に来るなんて珍しいけど、どうしたの?」
由美姉ちゃんが少し強引に話題を変えた。
「由美と一緒にお昼食べようと思って探してたのぉ」
「それなら連絡してくれればよかったのに」
「でもねぇ、由美がものすっごく嬉しそうな顔して一年生の教室に入っていくのが見えたから、気になって後をつけちゃった」
「……ずっと?」
「ずっとぉ」
「それ、尾行って言うんじゃない?」
「そうとも言うねぇ」
「そうとしか言わないよ……」
「由美、怖ぁい」
礼美先輩はそう言いながら、再び俺の弁当へ手を伸ばす。
「ダメ!」
由美姉ちゃんが即座にその手を止めた。
「痛いよぉ」
「人のお弁当を勝手に食べちゃダメでしょ!」
「じゃあ、彼氏くんに聞くぅ」
礼美先輩が俺を見る。
「もう一個食べてもいい?」
「嫌です」
「即答!?」
「量少ないんで」
「ケチぃ」
「俺の昼飯ですからね?」
「由美ぃ、彼氏君が冷たいよぉ」
「だから彼氏じゃないってば!」
由美姉ちゃんの声が屋上に響く。
「…………」
騒がしい。
俺が望んでいた静かな昼休みとは、だいぶ違う。
それでも、不思議と嫌ではなかった。
昨日までの俺なら、一人で昼を食べて、一人で授業を受け、一人で家に帰る。それで十分だと思っていた。
今日だって、静かな日常が欲しいという気持ちは変わらない。
ただ、こうして誰かと一緒に食事をして、くだらないことで笑ったり言い合ったりする時間も、悪くないと思えるようになっていた。
「幸ちゃん?」
「ん?」
「どうしたの? ちょっと笑ってるよ?」
「……俺、笑ってた?」
「うん。少しだけ」
「そっか」
自分では気づかなかった。
「何でもないよ」
俺はもう一度、弁当に箸を伸ばす。
由美姉ちゃんがいて、礼美先輩が勝手に俺のおかずを狙い、そのたびに二人が言い合っている。
少し騒がしくて、少し面倒で、それでもどこか心地いい。
もしかすると、俺が欲しかった『平凡な日常』というのは、何も起こらない毎日のことではなく、こういう何でもない時間のことなのかもしれない。
そんなことを思いながら、俺は二人と一緒に昼休みを過ごしていた。




