夢と現実は曖昧になるほど、心のカギは緩んでいく
二十分ほどの短い眠りの中で、俺はずっと昔の夢を見ていた。
そこに広がっていたのは、今の俺にはもう手を伸ばしても届かない、ごく普通の日常だった。
誰かと一緒に笑って、同じ時間を過ごして、どうでもいいことで言い合いになったかと思えば、少し経つと何事もなかったようにくだらない話で笑っている。
きっと、多くの人にとっては特別でも何でもない光景なのだと思う。
朝になれば家の中に誰かがいて、学校から帰れば「おかえり」と声を掛けてくれる人がいる。嬉しいことがあればその人に話し、辛いことがあれば一人で抱え込まずに頼ることができる。
そんな、ごく当たり前の毎日。
昔の俺にとっては、それが本当に当たり前だった。
当たり前すぎて、いつかなくなるかもしれないなんて、考えたことすらなかった。
「…………」
夢の中では、誰かの笑い声が聞こえていた。
よく知っているはずの声なのに、その人の顔だけがどうしてもはっきり見えない。
すぐ近くにいるように感じるのに、手を伸ばして近づこうとすれば、その姿は少しずつ遠くなっていく。
待って。
行かないで。
置いていかないでほしい。
そう言いたかった。
本当は、声が出なくなるくらい必死に叫びたかったのかもしれない。
けれど夢の中の俺は何も言えないまま、その背中が遠ざかっていくのをただ見ていることしかできなかった。
「…………」
胸の奥へ、懐かしい温もりがゆっくりと広がっていく。
それと同じくらい、どうしようもない寂しさも込み上げてきた。
今も、きっとどこかにはこんな毎日の中で生きている人がいる。
家へ帰れば誰かが待っていて、何かあればその人を頼ることができて、一人ではどうにもならない時には手を伸ばしてもらえる。
そんな日常を。
ほんの少しだけ。
羨ましいと思った。
「…………」
気づけば、閉じた瞼の端から一筋だけ涙が流れていた。
けれど眠っている俺自身は、それに気づいていなかった。
◇
「櫻坂ぁ……」
懐かしい夢の向こう側から、誰かの声が聞こえる。
「私の授業中に、ずいぶん気持ちよさそうに寝てくれるじゃない」
「…………」
夢の中から現実へ引き戻そうとするような声だった。
けれど俺の意識はまだ完全には浮かび上がってこず、机へ伏せたまま、半分眠った状態でその声だけをぼんやりと聞いていた。
「まったく……」
小さな足音が、少しずつ近づいてくる。
「入学二日目から堂々と居眠りなんて、いい度胸してるわね」
「…………」
声には聞き覚えがあった。
少し幼く聞こえるけれど、今ではもう誰の声なのか分かる。
枢木愛理だ。
そんなことは頭のどこかでは理解しているはずなのに、夢と現実の境目にいるせいなのか、目の前にいる教師としてうまく認識することができなかった。
「ねえ、櫻坂」
足音が俺の席の横で止まる。
「もしかして、私の授業そんなにつまらない?」
「…………」
「それとも」
枢木先生の声が少しだけ近づいた。
「私のこと、嫌いになった?」
からかうような調子だった。
普段の俺なら、『何でそうなるんですか』くらいは返していたと思う。
けれど、その言葉を聞いた瞬間だった。
夢の中にいた誰かと、今すぐそばにいる人の存在が、頭の中で不自然に重なった。
「……嫌いだよ」
「え?」
枢木先生の声が止まった。
同時に、さっきまで僅かに聞こえていた教室の物音まで消えたような気がした。
それでも俺は目を覚まさない。
「俺を……」
自分でも何を言っているのか分かっていなかった。
ただ、夢の中でずっと言えなかった言葉だけが、眠りに引っ張られるまま口から零れていく。
「一人だけ置いていったくせに……」
「…………」
「アンタらなんか……嫌いだ……」
誰に向けて言っているのか。
俺自身にも分からなかった。
ただ、ずっと心の奥へ押し込めたまま触れないようにしていた何かが、眠っている間だけ外へ漏れ出していた。
「…………」
教室から物音が消える。
さっきまで俺を起こそうとしていた枢木先生も、何も言わなくなった。
「…………櫻坂」
しばらくして聞こえた声には、もうさっきまでのからかうような調子はなかった。
怒っているわけでもない。
むしろ、何と声を掛ければいいのか迷っているような、少しだけ痛そうな声だった。
枢木先生は小さく息を吐く。
「……まったく」
その直後、俺の頭へ何かが触れた。
「…………?」
柔らかくて、温かい感触。
何度かゆっくり髪を撫でられて、ようやく頭のどこかで、それが先生の手だと理解する。
けれど、その瞬間。
胸の奥が僅かに揺れた。
なぜだろう。
初めてではないような気がした。
ずっと昔にも、こんなふうに誰かから頭を撫でられたことがある。
そんな感覚だけが、記憶の奥に残っている。
「…………」
枢木先生の手が一度だけ止まった。
ほんの数秒、俺の髪へ触れたまま動かなくなり、そのままほとんど独り言のような小さな声が落ちてくる。
「……こういうところまで、似なくていいのに」
「…………」
何のことだろう。
誰に似ている?
そう考えようとしたけれど、眠気に包まれた頭では、その答えまで辿り着くことができない。
やがて先生の手がもう一度動き始め、さっきよりもゆっくりと俺の頭を撫でる。
「……昔、私も……こうしてもらったっけ」
「…………」
その声には、いつもの明るさも教師らしい強さもなく、どこか懐かしそうで、それでいてほんの少しだけ寂しさが混じっているように聞こえた。
「先生?」
教室のどこかから、生徒の声が上がる。
「……何でもないわ」
枢木はすぐにいつもの声へ戻った。
「櫻坂は放っておきなさい」
「え?」
「今日は特別よ」
その言葉を聞いた途端、それまで静まり返っていた教室の空気が少しだけ緩んだ。
「入学早々、色々あったみたいだしね」
枢木先生が立ち上がる気配がする。
「ただし」
頭から手が離れた。
「明日からはちゃんと授業を受けなさいよ、櫻坂」
「…………」
「二日連続で寝たら、今度は本当に起こすから」
軽い足音が俺の席から離れていき、やがて教壇へ戻る音が聞こえた。
「はい。それじゃあ授業に戻るわよ」
教室に再び、教科書のページをめくる音や、黒板へ文字を書く音が広がっていく。
けれど俺の意識はまだ、夢と現実の境目に取り残されたままだった。
「…………」
頭には、さっきまで触れていた手の感触が微かに残っている。
温かかった。
どうしてなのかは分からない。
それでも、その温もりは夢の中で感じていたものと、どこかよく似ているように思えた。
「…………」
誰だったんだろう。
夢の中にいた人。
昔、俺の頭を撫でてくれた誰か。
そして、枢木先生が口にした、
『こういうところまで、似なくていいのに』
という言葉。
その意味を考えようとしたけれど、ぼんやりとした疑問が形になるより先に、また強い眠気が押し寄せてくる。
結局、俺の意識は再びゆっくりと沈んでいった。
今度こそ、誰にも邪魔されないくらい深い眠りの中へ。
◇
「…………」
教壇へ戻った枢木は、授業を再開する前に一度だけ眠っている幸へ視線を向けた。
机へ伏せたまま静かな寝息を立てるその横顔には、さっき流れた涙の跡がまだ僅かに残っている。
「…………」
それを数秒だけ見つめたあと、枢木は何事もなかったように教科書へ視線を戻した。
「それじゃあ、さっきの続きからね」
いつも通りの声。
いつも通り、生徒の前に立つ教師として授業を再開する。
けれど、教科書を持っている指には、本人にも分かるくらい僅かに力が入っていた。
さっき幸の頭へ触れた瞬間。
ずっと昔の記憶が、一瞬だけ蘇った。
まだ自分が今よりずっと幼く、教師になることなど想像もしていなかった頃。
失敗した時も。
落ち込んだ時も。
どうしていいのか分からないほど辛かった時も。
何も言わず、自分の頭をこうして優しく撫でてくれた人がいた。
あの手は、いつも変わらず温かかった。
「…………本当に」
授業を進めながら、誰にも聞こえないほど小さな声で呟く。
「似てるんだから」
それ以上は口にしなかった。
今、幸に伝えるべきことではない。
自分が何を知っているのか。
どうして彼のことを気に掛けているのか。
そして、自分と幸の間にどんな過去が繋がっているのか。
それを話すには、まだ少し早い。
「…………」
枢木は一度だけ小さく息を吐くと、再び教師の顔へ戻った。
「そこ。ちゃんと黒板見なさい」
「は、はい!」
「初日からぼーっとしない!」
教室から小さな笑いが起こる。
その中で枢木は、もう幸の方を見なかった。
少なくとも、表向きは。
◇
俺はまだ知らない。
どうして枢木先生が、時々俺にだけあんな目を向けるのか。
どうして初対面のはずなのに、まるでずっと昔から俺のことを知っているような態度を見せることがあるのか。
そして。
先生の記憶の中に、俺と深く関わる誰かがいることも。
先生が何を知っていて、何をまだ隠しているのかも。
この時の俺には、まだ何も分からなかった。




