平和の中にある不調和は人にストレスを与える
入学式から一夜が明け、光陽学園で過ごす高校生活も二日目を迎えた。
進学校だからなのか、この学校では入学式の翌日から早速通常授業が始まるらしい。もう少しくらい新入生が学校に慣れるための時間があってもいいんじゃないかと思うけれど、それだけ授業時間を無駄にしたくないということなのだろう。
教師が黒板に文字を書いていく音を聞きながら、俺は昨日の出来事をぼんやりと思い返していた。
入学式当日に寝坊して遅刻し、学校へ入る勇気が出なくて、そのまま帰ろうとしたところに飛んできた謎の紙飛行機。その後、校舎から聞こえてきた懐かしいカノンの音色に引き寄せられ、音楽室へ向かった結果、4年ぶりに由美姉ちゃんと再会することができた。
それだけでも十分すぎるくらい濃い一日だったのだが、その後には帝暁という女子とも知り合った。
『私と友達になってくれない?』
そんなことを言われて、俺は高校生活初日にして女子の友達が一人できたわけなのだが……。
「……何なんだ、これ」
俺は机の下で携帯電話の画面を確認する。
表示されているのは、帝から届いた一通のメールだった。
『あんた、空手とか他の武道って何かできるの?』
「…………」
何で朝からこんなことを聞かれているんだ。
原因は分かっている。
今朝、珍しく早めに学校へ来た俺が教室へ入ると、すでに帝が自分の席に座っていた。俺を見るなり彼女は立ち上がり、そのままこちらへ歩いてきた。
『櫻坂』
『何?』
『携帯持ってる?』
『持ってるけど』
『じゃあ……連絡先、教えなさいよ』
そう言いながら、帝はなぜか俺から顔を逸らしていた。
『別にいいけど』
『……何よ、その顔』
『いや。普通に聞けるんだなと思って』
『うるさい。早くしなさい』
そんなやり取りの末、友達になったのだから連絡先くらい交換しても問題ないだろうと思い、俺は素直に教えた。
その判断を、今になって少しだけ後悔している。
「武道ねぇ……」
俺は帝から届いたメールをもう一度読む。
空手、柔道、剣道。いくつか思い浮かべてみるものの、俺にはまったく縁のない世界だった。
運動そのものが嫌いというわけではないが、自分から誰かと殴り合いたいと思ったことなんて一度もない。ましてや、相手が帝となれば話は別だ。
昨日見せられた拳の速さを思い出す。
「あれと組手とかしたら、普通に死ぬんじゃないか……」
少なくとも、無傷で帰れる未来は想像できない。
俺は短く返信を打った。
『何もできない。あと暴力反対』
そのまま送信する。
「これでよし」
これだけ言っておけば、俺に空手を教えようなんて考えもなくなるだろう。
そう思って携帯を机の中へ戻そうとした瞬間、手の中で小さく振動した。
「早っ……」
もう返信が来ている。
画面を開いてみると、
『あんた、私に喧嘩売ってるの?』
と書かれていた。
「何でそうなるんだよ……」
思わず小声で呟く。
別に喧嘩を売ったつもりなんてない。むしろ喧嘩を避けるために『暴力反対』と送ったはずなのに、どういう思考回路を通れば喧嘩を売られたことになるのだろう。
「本当に面倒な奴と友達になったかもしれないな……」
まだ学校が始まって二日目だというのに、早くも少しだけ後悔している。
ただ、昨日の帝の表情を思い出すと、完全に突き放す気にもなれなかった。
『私と対等に話してくれる男子なんて、ほとんどいなかった』
そう言った時だけ、いつも強気な帝が少し寂しそうな顔をしていた。
男子の友達が欲しいと言っていたものの、きっと本人もどう接すればいいのか分からないのだろう。
もしかすると、今送ってきた武道の話だって、帝なりに俺と会話するきっかけを作ろうとしただけなのかもしれない。
「まあ、話すくらいならいいか」
空手をやるつもりはないし、殴られるつもりもない。それでも、普通に話をする程度なら問題ないだろう。
俺だって、この学校にはまだ友達と呼べる人間がほとんどいないし、帝からすれば俺は初めてできた男子の友達らしい。
そう考えれば、わざわざ避ける必要もない。
「ただし、殴られない範囲でだけどな……」
俺は携帯を閉じて、改めて黒板へ視線を向けた。
「…………」
何をやっているのか、まったく分からない。
メールに気を取られている間に、授業は随分先まで進んでいたらしい。
「まあ、あとで教科書を読めばいいか」
壁に掛けられている時計を確認すると、授業終了まであと二十分ほど残っている。
昨日はいろいろありすぎたせいか、まだ身体に疲れが残っていた。
「眠い……」
俺は頬杖をつきながら、もう一度帝とのメールを思い返す。
面倒な奴だとは思う。
それでも、昨日までの俺だったら、朝から誰かにメールを送られること自体なかった。
そう考えると、少しだけ変な気分になる。
「本当に変なのに捕まったな、俺」
小さく呟きながら、机へ腕を置いて枕代わりにする。
俺はただ、静かに暮らしたいだけだ。
目立つことなく、人から変な視線を向けられることもなく、普通に学校へ通って勉強し、授業が終われば家に帰る。
そんな生活で十分だった。
由美姉ちゃんと再会したことも、帝と友達になったことも、俺の日常を少し賑やかにする程度なら構わない。
むしろ、昨日までとは違う毎日が始まることに、ほんの少しだけ期待している自分もいる。
ただ、それ以上はいらない。
これ以上、俺の日常を大きく変えるような出来事なんて起こらなくていい。
「……平和が一番だよな」
そんなことを考えているうちに、少しずつ瞼が重くなっていく。
教師の声や黒板を走るチョークの音、教科書をめくる音が次第に遠ざかっていき、俺はそのまま眠気に身を任せた。
こうして静かな日常が続けばいい。
この時の俺は、本気でそう思っていた。




