遠野へ
今回からの遠野編では、実際の遠野物語をモチーフとしていますが、作者独自の解釈なども含んでいます。あくまでフィクションとしてお楽しみください。
冬の大学の講義室は、暖房が効いているのにどこか寒々しい。
講義が終わり、学生たちがぞろぞろと出ていく。
灯だけが席に残っていた。
守部史郎教授が書類をまとめている。
「篠宮君」
守部が穏やかに声をかけた。
「この前の話ですが、遠野へ行ってみませんか」
灯は顔を上げた。
「え!遠野ですか?」
「ええ。民俗学を学ぶなら、一度は行くべき場所です」
守部は眼鏡の位置を直した。
「河童。座敷わらし。山男。オシラサマ。そしてデンデラ野」
灯の目が輝く。
「遠野物語は怪談集ではありません」
守部は静かに言った。
「あれは人々の暮らしの記録です。人が何を恐れ、何を信じたか。それが残っている場所なのです」
灯は大きく頷いた。
「行きたいです! 絶対に行きたいです!」
−−−
数日後。
神代骨董店。
灯は興奮気味にまくし立てた。
「遠野に行きませんか!」
柴崎が新聞を広げたまま顔を出す。
「旅行か?」
「調査です!」
「学生はそれを旅行と言うんだ」
カラン。
鈴の音。
陣内が入ってきた。いつものスーツ。顔色が悪い。
「遠野ですか」
タイミングが良すぎる。
全員が嫌な予感を覚えた。
「ちょうど良かった」
陣内はカウンターに資料を置いた。
「第三部の案件があります」
資料には、地図とリストがあった。
遠野近郊で失踪者が発生している。
5人。増加中。
共通点は一つ。
全員、山へ入っている。
「うーん、最近クマが出てるって話だよなぁ。」
柴崎は資料を見ながら話す。
「生還者の証言があります」
陣内が報告書を読み上げた。
『大きな男を見た』
『山の中で』
『こちらを見ていた』
灯は息を呑んだ。
「山男……?」
「地元ではそう呼ばれているそうです」
静弥が口を開いた。
「いるな」
沈黙が落ちる。
柴崎が煙草を落とした。
「え、いるのかよ」
「昔見た」
さらっと爆弾発言だった。
−−−
出発当日。
雪道を黒いワゴン車が走る。
東北の冬。白一色の世界。
運転は陣内。冬道に苦労しながらハンドルを握っている。
助手席には静弥。後部座席には柴崎と灯。灯は膝に『遠野物語』を広げている。
「ねぇ神代さん、これ読んでるんですけど」
灯が本を指差す。
「河童って本当にいるんですか?」
「いるな」
「座敷わらしは?」
「見たことはない」
「山男は?」
「見たことある」
会話が弾む。
柴崎は眠っている。いびきがうるさい。
陣内は時折ため息をついていた。
サービスエリアで休憩をすることになった。
静弥はソフトクリームを買ってきた。わさび味。
「寒いですよ!?辛いですよ!?」
灯がツッコミを入れる。
「うまい」
静弥は淡々と舐めた。
「馬鹿だなあ」
柴崎が笑う。
平和な時間だった。
−−−
夕方。
車は遠野市の市街地へ入った。
雪景色。田畑。古い家々。遠くに連なる山々。
灯は窓にへばりついた。
「綺麗……」
宿泊先は守部の知人が営む民宿だった。
老夫婦が出迎えてくれた。
囲炉裏が焚かれている。地元の料理。地酒。
民話の里らしい空気が流れていた。
「さてと、ところでさ」
柴崎は情報を知ろうと聞き込みを始める。
民宿の主人たちは口を揃えて言う。
「山へ呼ばれる」
「吹雪の日は行くな」
「連れていかれる」
不穏な言葉ばかりだった。
夜。
灯は布団の中で目を開けていた。
眠れない。
静かすぎるのだ。都会とは違う静寂。
廊下を抜け出し、縁側へ出た。
外は雪。
しんしんと降っている。
そして。
いた。
雪原の向こう。
白い着物の女が立っていた。
遠い。でもはっきりと見える。
白い肌。黒い髪。こちらを見ている。
灯は目を奪われた。
恐怖ではなかった。ただ、吸い込まれそうな美しさだった。
女は静かに微笑んだように見えた。
そして、次の瞬間には消えていた。
翌朝。
囲炉裏を囲んで朝食。
灯は昨夜のことを話した。
静弥が箸を止めた。
「見たか」
「知ってるんですか?」
「昔からいる」
意味深な言葉だった。
民宿にいた人たちに聞き込みを続ける。
一人の老人が顔色を変えた。
「白い女? 見たのか」
灯が頷くと、老人は声を潜めた。
「そうか」
「何かまずかったですかね?」
「デンデラだ」
初めて聞く言葉だった。
その時、陣内の携帯が鳴った。
第三部からの連絡だ。
新たな失踪者が出たという。
高校生。雪山へ入ったまま戻らない。
現場写真が送られてきた。
雪に残る足跡。途中で消えている。
そして、写真の奥。
白い着物の女が写っていた。
陣内の顔色が変わった。
「八号事案認定です」
静弥は窓の外を見た。
遠くの山々。雪に覆われた森。
その中に、誰かがいる気がした。
巨大な影。人ではない。
山男だ。
こちらを見ている。
そして、吹雪の中へと消えていった。
(第九話「遠野へ」了)




