山の者
雪は止んでいた。
だが空は鉛色で、重く垂れ込めている。
灯は民宿の窓から、遠野の山並みを眺めていた。
白い着物の女。昨夜見たあの姿が、瞼に焼き付いている。
「嬢ちゃん、顔色悪いぞ」
食堂に下りると、柴崎が囲炉裏の火にあたりながら言った。
「……ちょっと、眠れなくて」
「若ぇのに寝不足か。俺みたいな顔になるぞ」
柴崎は笑いながら、炊き立てのご飯をよそう。
「旅館の朝飯ってだけで三杯はいけるな」
「おっさん、食べ過ぎですよ」
灯も小鉢を手に取った。焼き魚に味噌汁、漬物。素朴で温かい味がする。
陣内は隅で第三部と電話中だった。
「はい……了解しました……胃が痛いです」
最後の方が聞こえてしまって、灯は少し笑った。
静弥だけが、箸を動かしながら静かに窓の外を見ている。
「山には夜、近づがねぇ方がいい」
突然、主人が言った。
灯は顔を上げた。
「熊でも出るんですか?」
柴崎が茶呑み気味に聞く。
主人は首を振った。
「熊ならまだいい」
囲炉裏の火が揺れる。
「山男さ会ったら、目ぇ合わせるな。名前聞かれても名乗るな。山の奥から誰かに呼ばれても、返事するな」
灯は背筋が冷くなった。
「返事した者は山の者になる。家さ帰れなくなる」
女将も口を添えた。
「うちのおじいさんとか、昔の人は山へ入る前、必ず一礼したものです。山は人のものじゃない。借りて入る場所なんですよ」
灯は思い出した。守部教授の言葉だ。
『伝承とは迷信ではありません。その土地の人々が自然と共に生きるために残した知恵なのです』
単なる怪談じゃない。ここで生きるための戒めなのだ。
−−−
第三部から正式な調査依頼が静弥の下へ来た。
失踪したのは地元の青年だ。山菜採りに入ったまま消息不明。
静弥たちは警察と合流し、現場へ向かった。
「ここ半年で六人目です」
案内した警察官が言った。
「みんな山へ入って、そのまま」
雪の上には一本道の足跡が残っていた。
しかし途中で、ぷっつりと消えている。
雪崩の跡はない。獣の痕跡もない。ただ足跡だけが消えている。
警察も陣内も困惑していた。
静弥だけが足跡ではなく、山を見上げている。
風が止んだ。
静弥が低く言った。
「……見ているな」
灯も感じた。視線だ。
木々の奥。
巨大な影があった。
二メートルを超える大男。
毛皮のような姿。顔は見えない。
ただ静かにこちらを見ている。
柴崎が反射的に懐の拳銃へ手を伸ばした。
その手を、静弥が押さえる。
冷たい手だった。
「撃つな」
その一瞬で、影は消えていた。
「一旦戻りましょう。あれが相手ならば策を練らないと。」
陣内が一行に話す。
「……敵とは限らないがな。」
静弥は誰にも聞かれないほど静かに言った。
−−−
集落の老人たちを訪ねることにした。
炭火のストーブを囲みながら、山男の話を聞く。
「昔は山男に助けられた話もあったんだ」
一人が言った。
「吹雪の日、道に迷った猟師が朝になったら里の近くで寝てたんだと。誰が運んだか分からねぇって」
「山男だったんじゃねぇかと言われてたな」
しかし別の老人は首を振った。
「山男より恐ぇものがある」
「デンデラだ」
灯は身を乗り出した。
「デンデラ?宿のおじいさんも言ってたけど……」
老人は答えない。ただ山の方角を見つめるだけだ。
「昔から帰れねぇ者が集まる場所だ」
「白い着物の女に付いて行ぐな」
「帰る道が分からなくなる」
「皆同じようなこと言うねぇ。」
柴崎が独りごちる
静弥は黙ってその言葉を聞いていた。
−−−
夜。
灯は布団の中で目を開けていた。
眠れない。
そっと縁側へ出る。
雪が静かに降り始めていた。
遠くに白い着物の女が立っていた。
昨日より近い。
女は何も言わない。ただ山の奥を指差す。
灯も視線を向けた。
そこには昼間見た山男が立っていた。
しかし山男は灯ではなく、さらに山奥を見つめている。
風に乗って、かすかな声が届いた気がした。
「……たすけて……」
誰かの助けを求める声だ。
灯は息を呑んだ。
「聞こえたか」
背後から静弥が現れた。
灯は頷いた。
静弥は雪山を見つめたまま、静かに言った。
「始まったな」
吹雪の中を見る。
無数の人影がゆっくりと歩いている。
誰一人として里へ向かっていない。
全員が山の奥へ向かっている。
その先には、まだ誰も知らないデンデラ野が静かに待っていた。
(第十話「山の者」了)




