上の階
深夜。
公安調査庁第三部。
地下の執務室は、蛍光灯の冷たい光に支配されていた。
陣内省吾はデスクに向かっている。
目の前には書類の山。
始末書。報告書。損害賠償請求。もみ消し依頼。
きさらぎ駅事案の処理である。
八号事案。
書類の一枚一枚が、胃の粘膜を削っていくようだ。
「……最悪だ」
マグカップのコーヒーはとうに冷めている。
「監察官」
声をかけたのは、若い黒衣隊員だった。二十代前半。入隊してまだ日が浅い。
「神代静弥の扱いについて」
部下は資料を差し出した。
表紙には、黒いインクで書かれていた。
【ラ號第八実験体】
「本当に信用していいんですか」
隊員の声には、隠しきれない警戒があった。
「あの人は……あれは怪異ですよ」
陣内は少し黙った。
きさらぎ駅での光景が蘇る。
胸を貫かれた静弥。黒い血。蠢く再生。皮膚の下の亀裂。
人間ではない。自分たちが監視し、時に排除すべき対象。
「知っています」
陣内は静かに答えた。
「ですが」
言葉を継ぐ。
「彼がいなければ、もっと多くの人が死んでいました」
それが事実だった。きさらぎ駅で、黒衣隊二名は行方不明になった。だが、静弥がいなければ倉橋の救出も叶わなかったし、境界の崩壊はもっと甚大な被害をこの現実にまで招いていただろう。
隊員は納得いかない様子の顔をしながらも、一礼して去っていった。
陣内は冷めてしまったコーヒーを飲み干した。苦い。
−−−
「八号事案認定です」
翌日の骨董店。
陣内がいつものスーツ姿で立っていた。
「またですか」
灯がストーブの前で眉をひそめる。
「はい。胃が持ちません」
陣内は深いため息をついた。
「知ってる」
柴崎が新聞紙の裏から声を上げる。
静弥は茶を啜っていた。
「場所は」
陣内は資料をカウンターに置いた。
『曙団地 調査報告』
「昭和三十年に建設された、老朽化した団地です」
夕暮れ。
一行は曙団地に立っていた。
雪が積もった屋根に、コンクリート打ちっ放しの外壁は汚れ、鉄筋が錆びついている。
5階建ての長屋が、無数に並んでいた。
人気がない。いるのは高齢者ばかりだ。
証言を聞いた。
「毎晩聞こえるんだよ」
杖をついた老人が言った。
「上から。歩く音が。ドン、ドンって」
主婦は震える声で続けた。
「子供の声もするの。泣いてるような。呼んでるような」
しかし、だ。
最上階は5階だ。その上は屋上である。
人が住める空間はない。
「上はないはずなのに……」
灯は怖がりながら、手帳に書き留める。
柴崎が資料を見て、舌打ちした。
「この団地、数十年で孤独死、自殺、事故死、ネグレクト……そんなんばっかりだ」
「人間の方が怖いってことかな」
灯は顔をしかめた。
「こりゃあ怪異じゃない。人間が起こした案件だ」
柴崎の言葉に、重い沈黙が落ちた。
夜。
調査開始。
5階の一室を借り受け、泊まり込みとなった。
灯、静弥、柴崎、陣内の四人。黒衣隊はもしもに備えて団地の外で待機している。
午前一時。
灯は紙パックのジュースを飲みながら、天井を見上げていた。
ドン。
音がした。
天井から。
真上。
ドン。ドン。
歩く音だ。重い。誰かが、ゆっくりと歩いている。
「うそ……」
灯は息を呑む。
陣内が冷静に行動を開始する。
「護符設置。封印具展開します」
有能だ。第三部の監察官だけある。的確で、迷いがない。
陣内が結界を展開する。部屋の四隅に護符を貼り、封印具を配置する。
一瞬、足音が止まった。
「効いた?」
灯が尋ねる。
バリン!
護符が弾け飛んだ。
「効いてない!」
上から、大量の足音が降ってきた。
ドタドタドタドタ!
子供の足音。大人の足音。老人の足音。
無数の足音が、天井一面を駆け回る。
「異界化が進んでます!」
陣内が叫ぶ。
その時、外から音がした。エレベーターが動き出した。
勝手に。
ガタガタと音を立てて、上昇していく。
表示板の数字が変わっていく。
1……2…3……4…5……
そして。
6。
「6……?」
灯は目を疑った。「この団地、5階建てですよね!?」
7……8…9……10……11……12……
13。
表示板が止まった。
『13階』
本来存在しない階。
エレベーターのドアが開いた。
長い廊下。
無数の部屋。
生活痕。誰もいない。明かりもない。
怖い。
灯は柴崎の背中にしがみついた。
陣内は冷静に周囲を警戒している。
そして、静弥。
彼は一人で歩いていた。黒いコートを翻し、迷いなく廊下を進む。
陣内の視線が、静弥の背中に注がれた。
(怪異)
(危険存在)
(監視対象)
全て事実だ。だが。陣内は思い出す。
過去の案件。黒衣隊が全滅しかけた夜。
静弥だけが残った。
黒い血まみれで、傷だらけで、それでも前へ出た。
(あなたは何なんですか)
心の中で問う。
廊下の奥に、一つの部屋があった。
ドアが開いている。
中に入ると、そこは墓場だった。
遺体があるわけではない。
あるのは、生活の痕跡だけ。
枯れた花。冷たい食器。散らばった薬。書きかけの手紙。
誰にも見つけてもらえなかった人間たちの、最期の場所。
孤独死。事故死。無縁仏。
忘れられた者たちの墓場。
掠れた声が聞こえる。
(サミシイ……忘レナイで……)
灯は呟くように言った
「こんなの……あんまりです」
感情が溢れる。怖いだけじゃない。哀しい。
その時、空間が崩れ始めた。異界が崩壊し始めたのだ。
怪異の群れが押し寄せてくる。
黒い影。無数の手。忘れ去られた亡霊たち。
「くる!」
陣内は拳銃を抜いた。
第三部支給の特殊拳銃。怪異に人類が唯一傷をつけられる護符弾が装填されている。
発砲。
弾丸が怪異を撃ち抜く。
結界杭を打ち込む。
必死になりながら、陣内は戦う。
逃げない。人を守るために。
逃げたら守れない。
だが、数が多すぎる。
怪異が陣内に殺到する。
絶体絶命。
その時。
軍刀が一閃した。
黒い魔力が刃に纏わりつき、怪異を両断する。
静弥が、陣内の前に立っていた。
「下がっていろ」
静かな声。
陣内はその背中を見た。
怪物。化け物。人間ではない。
それでも。
守られている。
陣内は息を吐いた。
そして、初めて言った。
「神代静弥」
静弥は振り返らない。
「あなたは怪異なんでしょう」
「ですが」
「あなたは人を守っている」
「だから私は…」
言葉を詰まらせる。
「…私は、あなたを撃てない」
静弥は、存在しない階の住人たちへ向き合った。
亡霊たちが、静弥を見つめる。
彼らはただ、見つけてほしかったのだ。
忘れないでほしかったのだ。
静弥は静かに言った。
「大丈夫」
「俺は忘れない」
亡霊たちの動きが止まる。
二言。たったそれだけだった。
亡霊たちは安心できたような、安らかな顔に変わっていった。
少しずつ、光の粒子となって、消えていく。
「帰るぞ」
静弥は静かに告げる。
亡霊たちは、光の粒は一つずつ、闇へと溶けていった。
−−−
事件後、曙団地は解体されることになった。
慰霊祭が開かれ、住民たちが手を合わせる。
骨董店に戻った夜。
灯が陣内に言った。
「陣内さん、神代さんの事嫌いじゃないですよね」
陣内は沈黙した。
「苦手です」
「非常に」
柴崎が奥で爆笑した。
「言うと思った!」
灯も吹き出した。
−−−
その日の深夜。
公安調査庁第三部。
地下資料室。
陣内は一人、地下54関連資料を開いていた。
封印指定のファイル。
中に、古い写真があった。
将校服の男。
整った顔立ち。軍人の写真に相応しい真面目な風貌。
裏に記載があった。
【ラ號零式】
【霧島礼二】
陣内の顔色が変わった。
「最悪だ……」
写真を持つ手が震えた。
写真の男は、笑っていた。
優しく。
だからこそ、怖かった。
(第七話「上の階」了)




