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冬の灯

その日は雪が降っていた。


しんしんと音もなく積もる白が、神代骨董店の窓枠を縁取っている。


きさらぎ駅の事件から数日が経っていた。

灯はカウンターの中で、頬杖をついていた。

目の前には勘定書。だが、数字が頭に入ってこない。

視線は自然と、ストーブの前に座る男へ向いていた。

神代静弥。

黒いロングコートを着たまま、いつものように微動だにしない。

ただ、その手にはチョコミントのソフトクリームが握られていた。


「……神代さん」

「なんだ」

「冬ですよ?」

「そうだな」


静弥は淡々とクリームを舐めた。


「うまい」

「意味が分かりません」


「俺もだ」


奥から柴崎が顔を出した。新聞を広げたまま呆れている。


「怪我したばっかだろ」

「これは別腹だ」

「だから冬に何でソフトクリーム食べてるんですかって言ってるんです!」


灯はツッコミを入れた。

柴崎が笑う。

だが、一緒に笑いながらも灯の胸の奥には、冷たい塊があった。


数日前の光景が焼き付いて離れない。

静弥の胸を貫いた異形の腕。

噴き出した黒い血。

蠢き、肉を再生していく傷口。

怪物だ。

本能がそう叫んでいる。

怖い。


でも、嫌いではない。


その複雑な葛藤が、灯の心をざわつかせていた。


カラン。


ドアの鈴の音が鳴った。


冷たい風と共に、誰かが入ってきた。


「静ちゃーん♪」


女性の声。

灯は目を瞬かせた。

現れたのは、長い黒髪の女性だった。

大人びた雰囲気。色っぽい目元。

飄々とした空気を纏っている。

彼女は一切の遠慮なくカウンターへ歩み寄り、静弥の隣にドカッと座った。

そして、何食わぬ顔で静弥の肩に腕を回した。


「久しぶりー♪ 生きてる?」

「生きてる」


静弥はクリームを舐め続けた。無反応。


灯は固まった。


え? え? 距離感ゼロじゃない?


「おう、冴ちゃん。久しぶり」


柴崎が新聞の裏から笑う。


「柴崎おじさんも元気?」


「おじさんは余計だろ」


冴は灯に向き直った。値踏みするような視線。


「へぇ。あなたが灯ちゃん? 可愛いじゃん」


灯は姿勢を正した。


「は、はい! でも、なんで私の名前を」


「静ちゃんから聞いた」


「言ってない」


静弥が即座に訂正した。


「じゃあ陣内かな」


「個人情報保護法違反ですよ!」


灯は思わず声を荒らげた。


冴はケラケラと笑う。


「あはは。真面目だねぇ」

「アタシは黒瀬くろせ さえよろしくね。」

冴はその後、完全に居座った。


店の奥からみかんを勝手に拝借し、ストーブにあたりながら皮を剥いている。


「ところでさぁ、ねぇ灯ちゃん。静ちゃんとはどうなの?」


「どうって……」


「いい感じ?」


「仕事ですよ! バイトです!」


「顔真っ赤」


「ストーブのせいです!」


静弥はといえば、空になったソフトクリームの容器を片付け、黙々と帳簿をめくっている。

冴は静弥の肩に頬杖をつき、灯を見た。


「静ちゃんってさ、変わんないよね」


「変わらない?」


「何あっても、そういう顔なの」


冴は静弥の横顔を指差した。


「ふん」

とも

「へっ」

ともつかない、感情の読めない顔。


灯はその顔を見つめた。


「冴さんって……神代さんとどういう関係なんですか?」


思い切って聞いてみた。

冴は少し考えた。


「戦友の孫? 家族? 腐れ縁?」


指折り数えながら、けらけらと笑う。


「全部かな」


「…うちのおばあちゃんね」


冴の声が少し静かになった。


「戦後の闇市で偽造屋やってたの」


灯は手を止めた。


「静ちゃんの戸籍、全部おばあちゃんが作ったのよ」


灯は驚いた。

戸籍がない。つまり、この社会に存在しない人間だったということだ。


「戦後ね、焼け野原だった時」


冴はみかんを口に運んだ。


「ボロボロの軍服着て、虚ろな目で立ってたって。おばあちゃんが言ってた」


戦争が終わり、誰も彼もが必死に生きる中で、彼だけが死んだ目をしていた。


「顔、変わってないのよ。静ちゃん」


さらっと言った。


「戦後から」


沈黙が落ちた。


ストーブの火がパチパチと鳴る。


灯は固まった。

戦後から。八十年以上前から。

静弥は無言だった。否定も肯定もしない。

ただ、帳簿をめくる手が止まっていた。


「へ、へぇ~。すごいですね。若いなんてもんじゃないですね。」

空気に耐えきれず、灯は店の奥の棚を整理しようとする。


古いアルバムが目に留まった。


埃を被った革表紙。そっと開く。

戦前の写真。


桜の下。笑う青年。

静弥だ。


今と全く同じ顔。でも、笑っている。

今では考えられないほど、幸せそうに。


その隣に、少女がいた。

着物を着た、明るい笑顔の少女。

灯は息を飲んだ。


「ああ」


背後で冴が声を上げた。


「その人。燈子とうこさんだね」


店の空気が変わった。

静弥が動きを止めたのが分かった。


「燈子……さん?」


灯は写真を見つめた。優しそうな、温かい笑顔。


「婚約者だった」


静弥の低い声が響いた。

灯は振り返った。静弥は窓の外を見ている。


「夏祭りに行ったんだ。神社で。三人で」


三人。静弥、燈子、そして恩人であり親友の燈子の兄。


「戦争前の、普通の日常だった」


静弥の声は、どこか遠い。


「帰った時には、何もなかった」


東京大空襲。

焼け跡。

燈子がいた家の跡。

誰もいない。


「そこに立っていることしかできなかった」


灯は何も言えなかった。

ただ、写真の中の燈子の笑顔を見つめることしかできなかった。



帰り際。

冴はコートを羽織りながら、灯に耳打ちした。


「静ちゃんね」


声を潛める。


「ずっと死ねなかったの」


灯は黙って聞いた。


「戦争も、仲間も、燈子さんにも、全部に置いてかれちゃった」


冴の目は、真剣だった。


「だから」

「少し引っ張ってあげて、こっち側に」


灯は頷いた。声が出ない。でも、覚悟は決まったような気がした。


閉店後。


雪はまだ降っていた。

店先の軒下。自販機の明かりが青白く雪を照らしている。


静弥が一人で立っていた。

灯は隣へ座った。


冷たい石段。でも、不思議と寒さは気にならなかった。


しばらく沈黙。

雪音だけが響く。


灯は口を開いた。


「怖かったです」


正直に言った。


「あの時…きさらぎ駅で…神代さんが怪物に見えました」


静弥は目を伏せる。


「そうか」


否定しない。


「正直、今もちょっと怖いです」


「そうだろうな」


灯は息を吸った。冷たい空気が肺を満たす。


「でも」


言葉に力を込める。


「神代さんは助けてくれました。何度も」


静弥を見る。白い横顔。


「だから」

「私は神代さんを怪物だと思いません」


長い沈黙が流れた。

雪音だけが響く。


やがて、静弥が顔を上げた。


本当に少しだけ。驚いたような、困ったような顔をして。

笑ったように見えた。


「変な奴だな」


灯も笑った。


「よく言われます」


−−−


アパートへの帰り道。


雪道を歩きながら、灯は少しだけ嬉しかった。

一歩、踏み出せた気がした。

そして同じ頃。


神代骨董店。


静弥は店の奥にいた。

手には燈子の写真。


優しい笑顔。永遠に失われた光。

その隣に、今日の灯の笑顔が浮かんだ。

生意気で、怖がりで、でも真っ直ぐな瞳。


少しだけ。

本当に少しだけ。


温かい表情を浮かべて、静弥は写真を伏せた。

時計がコチコチと鳴る。

外では雪が降っている。

長い夜はまだ続くだろう。

でも、独りではない気がした。


(第六話「冬の灯」了)


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