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きさらぎ駅・後編

カツン。カツン。カツン。

足音が響く。

ホームの影から。線路から。階段の奥から。

帰れなかった者たちが、ゆっくりと、しかし確実にこちらへ向かってきていた。

軍服の男。首元の識別票にラ號-七。

彼は笑っていた。崩れた顔で、カラカラに乾いた笑い声を上げている。


「八」


「八だ」


「まだ壊れていなかったか」


灯は困惑した。八? 誰のことだ。


陣内だけが強張った顔で反応した。

「ラ號…実験体か…」


「知ってるのか」

柴崎が低く問う。


「知りたくもありませんでしたよ。」

陣内は目を伏せた。胃の奥が痛むような顔だ。


「ですが、想定内です。地下54の残滓が関与しているようですね」


灯はその言葉を聞き逃さなかった。地下54。聞き覚えのない名前だ。


「…先に倉橋を探す」

静弥が靜かに言った。


「彼もここにいるはずだ」


−−−


一行は逃げるように駅舎へ向かった。


改札を抜ける。切符は不要だ。ここは境界だから。

駅舎の中は昭和の空気が淀んでいた。

売店の棚には色褪せた商品が並んでいる。新聞、雑誌、タバコ、お菓子……全て古いものだ。待合室の木製ベンチには埃が積もっている。

だが、何もかもが腐っているようだった。触れた棚の支柱が、ぐずぐずと崩れ落ちる。

壁には古い張り紙が貼られていた。

『軍用輸送計画』

『松輪島 第四防衛線』

『将兵への告諭』

灯は戦慄した。


「なんでこんな物が……ここは駅なのに……」


「旧日本軍、松輪島軍事要塞地下54階」

陣内が答えた。


「千島列島にあった戦時中の研究施設です。旧日本軍が呪物や怪異を兵器として運用するために作ったものです。その一部が、境界を通じてここに漏れ出している」


灯は棚の下から、破れたファイルを見つけた。

手に取って開く。

『ラ號計画』

『死体再利用実験』

『適性試験:第八号——成功』

『境界接続:確認』

『零式——覚醒』

『第七号——自我崩壊につき破棄』

『第八号——実戦投入』

灯は息を飲んだ。

手が震える。

第八号。

さっきの男が呼んでいた名前。

八。

灯はゆっくりと顔を上げた。

靜弥の背中が目の前にある。黒いコート。冷たい空気。

「神代さん……」


靜弥は振り返らない。ただ、視線を逸らせた。

沈黙が答えだった。

その時だ。


「帰れない……」


か細い声が聞こえた。

線路の脇。ホームの陰。

うずくまっている人影があった。

倉橋誠だ。見つけた。

生存している。だが、正気は限界だった。目は焦点が合わず、唇は紫になっている。


「帰れない」

「電車が来る」

「また連れて行かれる」

「どこまでも行くんだ」


彼は震えていた。靴は脱げ、足は泥と血で汚れている。

灯は咄嗟に駆け寄り、彼の手を握った。氷のように冷たい。


「大丈夫です」


灯は必死に声を絞り出した。


「帰れます。ここから出られますから」


倉橋が灯の顔を見る。涙ぐんだ。


「ほんとうに……?」

「ほんとうです」


その時だ。

グラリ。

駅全体が揺れた。


カツン。カツン。カツン。

死者たちが動き出した。

ホームの影から湧き出るように。線路から這い上がるように。改札をくぐり抜けるように。

帰れなかった者たちが、倉橋へ、灯へ向かってくる。

軍服の兵士。製服の学生。着物の老女。背広の会社員。

顔には苦悶の色が張り付いている。

全員が、生者の温もりを求めているのだ。生きている熱を。奪ってでも、自分たちのものにしようとしている。

灯は後退した。恐怖が背筋を駆け上がる。


「うそ……やだ……」


静弥が前へ出た。

右手にモシキ。重厚な大きな拳銃。

銃口に黒い光が渦巻く。

轟音。

一発。

二発。

死者の群れが吹き飛ぶ。 胸部が弾け、影が霧散する。

だが、次から次へと湧いてくる。

終わらない。


「チッ」


柴崎が舌打ちした。

「きりがねぇな!」


陣内が懐から護符を取り出し、結界を展開する。

「狹まります! 奥へ!」


灯は倉橋を抱え、改札の奥へと後退した。

だが、足元がもつれた。

線路脇の段差。灯はバランスを崩した。

転ぶ。

倉橋が手から離れた。

壁際に追い詰められる。

目の前に、死者たちが迫っていた。

学生の顔。目がなく、口だけが開いている。

老女の手。枯れ木のような指が、灯の肩へ伸びる。

兵士の軍靴。土踏まずが灯の脛を踏みつける。

灯は悲鳴を上げたかった。だが声が出ない。動けない。

死ぬ。

ここで、彼らと同じになる。

その瞬間だった。

黒い影が、灯の視界を遮った。

静弥が飛び込んできたのだ。

灯の体を庇うように、背中を向けて



ぐしゃり。

鈍い音が響いた。

何かが、静弥の胸を貫いた。

老女の手ではない。

兵士の銃剣のような、骨で形成された異形の腕だ。

それが、静弥の左胸を、背中から貫通していた。


「神代さん!!」


灯は絶叫した。

血が飛び散る。

だが、その色は赤ではなかった。

黒い。


粘り気のある、黒い液体。

普通の血ではない。

静弥は苦しそうに息を吐いた。


「……っ」


膝が折れそうになる。

だが、倒れない。

灯を庇った姿勢のまま、立ち尽くす。

そして、次の瞬間。

灯は信じられないものを見た。

傷口が、蠢いた。

傷口から黒い霧が噴き出し、肉と骨と神経を形成していく。

見る間に、貫通していた穴が塞がっていく。

再生。

人間にはあり得ない現象。

灯は言葉を失った。

周囲の怪異ですら、手が止まっていた。

静寂が駅を覆う。

灯は震えていた。

怖い。

本能が叫んでいる。

人間じゃない。

あの黒い血。あの再生。あの冷たい体温。

絶対に、人間じゃない。

静弥は立ち上がった。

何事もなかったかのように。

傷は完全に消えていた。


「下がっていろ」


静かな声。

それだけ。

灯は何も言えなかった。

その時、灯は気づいた。

再生した場所。胸元。

一瞬だけ、皮膚の下に黒い亀裂が走ったのを。

人ではないものが、体内で蠢いているのを。

静弥はすぐにコートの前を閉じた。


「見るな」


低い声。

灯は唇を噛んだ。

陣内は目を伏せている。知っていたのだ。

柴崎も、何も言わない。

ただ、辛そうに煙草を揉み消した。


「やはり」


声がした。

ラ號-七。

軍服の怪異が、ゆっくりと近づいてくる。

彼の周囲の死者たちは、まるで壁のように道を開けていた。


「成功だった」


七は言った。


「八は、生きていた」

「俺は失敗作だった」


七の声は、どこか寂しかった。


「帰れなかった。死ねなかった。ただ境界を漂って、何十年も」


七の身体が、崩れ始めていた。指先から皮膚が剥がれ落ち、骨が露出していく。

理性も消失しつつあるのか、目が赤く発光し始めた。


「こ、来い……八…」


七が咆哮を上げた。


「俺と一緒に……」


その瞬間、きさらぎ駅が崩壊し始めた。

空間が裂ける。

天井が歪み、無数の亀裂から闇が漏れ出す。

境界が不安定になっている。

無数の死者が、押し寄せてくる。

静弥は軍刀を抜いた。

チリン……

刃に黒い魔力が纏わりつく。

今までよりも強く感じる。


「灯。倉橋を連れて走れ」

「え……?」

「改札を抜けて、電車に乗れ。大丈夫、陣内が道を開く」

「でも……!」

「行け」


静弥は前へ出た。

死者たちの群れへ、たった一人で立ち向かう。

軍刀が閃く。

一閃。

二人の死者が断ち斬られる。

黒い魔力が残像を引き、全てを切り裂く。

靜かで、重い剣術。

無駄のない動き。

だが、数が多すぎる。

七が笑う。


「無駄だ、八! ここは俺達の領域だ!」


七の身体が完全に異形と化した。骨と泥と怨念の塊。巨大な腕が静弥を薙ぎ払う。

静弥はそれを軍刀で受け止めた。

金属と骨がぶつかる衝撃。

静弥は歯を食いしばった。何度も衝撃が走る。削れた骨が、破片となって静弥を襲う。

七が叫ぶ。


「俺達は帰れなかった! お前だけが特別だと!?」


「俺だって!俺だって帰りたかった!皆のところに!」


その時だった。

七の動きが止まった。



赤く発光していた目が、急に澄んだ色に戻ったのだ。

理性が、一瞬だけ戻ったのか。


「……八……」


七の声が震えていた。


「どうか、お前だけでも……」


泥と血にまみれた顔から、涙が溢れ出した。


「俺は、もう……」


静弥は軍刀を下げた。

静かに、七へ近づく。


「…帰ろう」


静弥の声は、優しかった。

戦友へ向けるような、静かな優しさ。

七が泣いた。

骨と泥の顔で、声を上げて泣いた。


「ああ……俺は……」


軍刀。

一閃。

静かで、速い、慈悲の一撃。

七の身体が、崩れていく。

泥から、骨から、軍服から、若い兵士の姿へと戻っていく。

二十代半ばほどの青年。泣き笑いのような顔。

彼は、静弥に向かって敬礼した。

かつての上官へ向けるような、綺麗な敬礼。

そして微笑んだ。


「ありがとうございます……神代少尉」


消滅。

光の粒子となって、境界へと溶けていった。


−−−


きさらぎ駅が、更に激しく揺れる。

空間の裂け目が広がっていく。


「早く!」


陣内が叫んだ。

「崩壊します!」


灯は倉橋を抱え、改札へ走った。

柴崎が倉橋の腕を取る。

「立て! 死にたくねぇんだろ!!」


陣内が結界を展開し、道を確保する。


「神代!」


柴崎が振り返った。

「来い!」


「神代さん!!」

灯が静弥を呼ぶ。


静弥は一瞬、七が消えた場所を見つめていた。

そして、踵を返した。

黒いコートを翻し、走る。

電車がホームに入ってきた。

あの存在しない電車だ。


電車へ飛び乗る。

ドアが閉まる直前、静弥は振り返った。

崩れゆくホームの奥。

闇の底に、誰かが立っていた。

将校服。

軍刀を佩いた男。

ボロボロの軍服ではない。整えられた、かつての帝国陸軍の制服だ。

空気が変わった。

息が詰まるような重圧。

静弥の足が止まった。

凍りついたように動かない。

灯は見た。静弥の顔を。

恐怖。後悔。そして、深すぎる懐かしさ。

それらが混ざり合った、初めて見る表情だった。


「礼二さん……」


静弥の唇から、言葉が漏れた。


男は微笑んだ。ように見えた。

穏やかで、優しい笑みだ。

だからこそ、怖い。


「八」


男の声は静かだった。


「まだ人間の真似事をしているのか」


懐かしむような、哀れむような響き。


「こちらへ来い」

「もう終わっていい」


その言葉は、まるで甘美な誘いのようだった。

静弥の目が揺れる。

一歩、踏み出しそうになった。


「神代さん!」


その時。


灯が静弥の腕をつかむ。


「帰るんです!神代さんも!私たちと!」

ガタン!


電車が大きく揺れ、発車した。

男の姿が急速に遠ざかっていく。

闇の中へと溶けていく。

見えなくなっても、その笑顔は網膜に焼き付いていた。


−−−


現実への帰還は、あっけないものだった。

気がつくと、電車は消え、廃線跡の冷たい土の上に立っていた。

夜明け前。空は白み始めている。

倉橋誠は意識はあるが衰弱していた。柴崎が肩を貸し、第三部の車へ運ぶ。

灯はぐったりとしていた。寒さと恐怖で体が震える。

陣内が毛布を掛けてくれた。


「無事のようですね。」


陣内の声は疲れていた。


「倉橋さんの保護、確認しました。ありがとうございます。依然、黒衣隊2名は行方不明のままですが……」


柴崎が煙草に火をつけた。


「全く……命拾いしたな、お嬢ちゃん」



「あはは……笑い事じゃないですよ……」


灯は力なく笑った。


「地下54が動き始めています」


陣内が静弥に向き直った。表情は硬い。


「きさらぎ駅の出現も、ラ號-七の顕現も、全て地下54の影響です」


「それに、最悪ですね。零式の痕跡も検知されました」


静弥は何も言わなかった。

ただ、闇の方角を見つめているだけだった。


−−−


神代骨董店に戻ったのは、朝だった。

雨は上がっている。朝日が店先を照らしていた。

柴崎と陣内は倉橋を第三部へ引き渡しに行った。店には静弥と灯だけだ。

灯はカウンターに座り、ほうじ茶を啜っていた。手がまだ震えている。

静弥を見る。

黒いコートの背中。

あの時見た光景が蘇る。

貫かれた胸。黒い血。蠢く再生。皮膚の下の亀裂。

怖い。本能がそう告げている。

人間じゃない。あの人は、本当に死人なんだ。

灯は視線を落とした。


「……」


沈黙が続く。

古時計がコチコチと鳴る。

静弥は帳簿をめくっていた。何事もなかったかのように。

でも、灯にはわかる。あの傷は消えても、見た記憶は消えない。

それでも。

あの時、彼は自分を庇ったのだ。

人間ではない腕で。人間ではない命で。


「神代さん」


声が出た。少し迷ってから。


「傷……大丈夫なんですか」


静弥が顔を上げた。

白い肌。黒い瞳。

そこには何の感情も読み取れないように見えた。

でも。

少しだけ笑ったように見えた。


「慣れている」


短い言葉。

灯は苦笑した。なんて答えなんだろう。

でも、その笑顔は。

今までより少しだけ近かった気がした。


「……そうですか」


灯は茶を啜った。

温かさが体に染み渡る。

まだ怖い。でも、もう逃げないと決めたのだ。

この店で働くと決めたのだから。


外では、朝の光が街を照らし始めていた。

長い夜が終わる。

でも、これから始まる物語もまた、長い夜の連続なのだろう。

灯は静かに覚悟を決めた。


(第五話「きさらぎ駅 後編」了)

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