表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
4/10

きさらぎ駅・前編

その日も雨だった。

しとしとと降る音が、神代骨董店の古い窓を叩いている。


「きさらぎ駅って、あの都市伝説のですか?」


灯はカウンターでスマホを操作しながら訊いた。現代人であり民俗学専攻の彼女にとって、その名前は馴染み深いものだった。ネット上で何度も目にしたことがある。存在しないはずの駅。迷い込んだら帰れない。


「そうだ」


静弥は茶を啜った。黒いロングコートの背もたれに掛かった雨粒が、ゆっくりと滑り落ちる。


「本当にあるんですか? ネットの噂かと……」


「ある」


静弥の低い声が店の空気を変えた。断言だった。迷いも躊躇もない。あると言い切った。

灯はごくりと唾を飲み込んだ。


カラン。

鈴の音。

入り口の扉が開いた。


スーツ姿の男が立っていた。

三十代後半。細身で神経質そうな顔立ち。短く刈り込んだ黒髪。疲れ切った目をしている。黒縁の眼鏡の奥には、睡眠不足特有の薄い目が光っていた。


「いらっしゃいませ……?」

灯が小さな声で漏らす。


「公安調査庁第三部です」

男が名刺を差し出した。白地に黒文字。部署名だけが印字されている。

「はじめまして、陣内省吾です」


「第三部?」

灯は首を傾げた。


「存在しない部署です」

陣内は表情を変えずに言った。


「……相変わらず胡散臭ぇな」

奥から柴崎が顔を出した。煙草を指に挟んでいる。


「柴崎さんも相変わらずですね」

陣内は深いため息をついた。

「胃痛が治まりません」


「お互い様だろ」


陣内は柴崎を無視してカウンターに向き直った。


「単刀直入に言います。失踪者が出ました」

資料を広げる。

「大学生。二十代男性。名前は倉橋誠」


「また若いのか」

柴崎が覗き込む。


「友人への通話記録があります」

陣内が端末を操作し、音声データを再生した。

『……変な駅にいる』

ノイズ混じりの声。恐怖に歪んでいる。


『きさらぎ駅って書いてある』


途切れる。


『……助け……』


プツリと切れた。


「その後、連絡が途絶えました」


陣内は端末を閉じた。

「第三部が捜索に向かいましたが……失敗しました」



「失敗?」


灯が聞き返す。


「黒衣隊二名が行方不明になりました」


陣内の声が沈んだ。

「通常案件ではありません。八号事案です」


空気が凍りついた。

八号事案。静弥でなければ対処できない案件。


「助けられるんですか?」


灯は訊かずにはいられなかった。


「分かりません」


陣内は正直に答えた。

「きさらぎ駅は異界との境界に近い場所です。一度迷い込めば帰還は極めて困難」


沈黙が落ちる。

雨音だけが響く。


「行く」


静弥が静かに言った。


即答だった。


−−−


第三部の施設は都内の地下にあった。

エレベーターで降りること数十メートル。

無機質な廊下。点滅する非常灯。

壁には怪異資料や呪物保管庫への入り口が並んでいる。


灯は目を輝かせていた。


「すごい……民俗学的に見ても資料価値が……」



「触らないでください」


陣内が即座に止める。

「ここにあるものの半分は見るだけで呪われます」


「すみません!」


灯は慌てて手を引っ込めた。


会議室には大量の資料が用意されていた。

きさらぎ駅に関する報告書だ。過去の目撃談、行方不明者のリスト、空間観測データ。


「共通点があります」


陣内がホワイトボードに書き出す。


・深夜

・終電

・一人

・気付くと存在しない駅

・帰れない


「怖すぎません……?」


灯が身震いする。


「今さらだろ」


柴崎が茶を啜る。

「嬢ちゃん、もう三件は経験してるだろ」



「経験してても怖いものは怖いんです!」


静弥は黙って資料をめくっていた。

一枚で手が止まる。

古い写真。昭和初期の駅。モノクロームの風景。

何かに惹かれたように見つめている。


「神代さん?」


灯が声をかける。


「……」


静弥は何も言わなかった。ただ写真を指で撫でた。その指先がかすかに震えているように見えたのは、気のせいだろうか。


−−−


深夜一時。

第三部特別車両は雨の中を走っていた。

黒いワゴン車。窓ガラスは防弾仕様だという。怪異にとってはほぼ無力だが。


陣内がハンドルを握っている。

助手席には静弥。黒いコートを着たまま目を閉じている。

後部座席には灯と柴崎。


柴崎が煙草を取り出した。

カチッ。ライターの火。


「禁煙車です」


陣内がバックミラー越しに言った。


「窓開ける」


柴崎は窓を少し開けた。

「これでいいだろ」


煙草の煙が漂う。

灯がむせる。


「っ……けほっ……」


静弥が目を開けた。白い目で柴崎を見る。


「……悪ぃ悪ぃ」


柴崎は煙草を消した。

「機嫌悪ぃなぁ」


少し和んだ気がした。

しかしすぐに空気は張り詰めた。

車は廃線跡へと少しずつ近づいていた。


−−−


深夜二時。

廃線となった線路の脇に立っていた。

寒い。風がヒュウヒュウと鳴る。

線路だけが闇の中に伸びている。草は生えていない。土も砂利もない。ただ線路だけがある。


「ここです」


陣内が懐中時計を見る。

「毎回、二時十三分に電車が来ます。存在しないはずの電車です」



「来るわけ……」


灯が言いかけた。


ガタン。

遠くから音がした。


ガタン。

ガタン。

近づいてくる。


本当に来る。

古い国電。昭和の塗装。

ホームに滑り込んできた。

誰も乗っていない。


車内は薄暗い。蛍光灯が点滅している。

貼り紙の広告も古いままだ。


『銀河鉄道999公開記念』

『新幹線0系退役』


平成どころか昭和の時代だ。


「異常ありませんね」


陣内が呟く。


でも違う。

雰囲気が違う。

空気が違う。

時間が違う。

ここだけが他の世界と隔離されている。


「行くぞ」


静弥が言った。

電車のドアは既に開いていた。


乗り込む。

ドアが閉まる。

発車。


灯は座席に腰掛けた。

窓の外を見る。真っ暗だ。どこまでも真っ暗。


「これ本当に日本ですか……?」


答えはない。


陣内も柴崎も窓の外を見ている。


途中の駅で停止した。

異常があった。

駅名標が無い。

ただホームだけがある。

そこに人が立っている。

動かない。

乗ってこない。ただ見ている。

全身黒い人影。顔が無い。でも確かにこちらを見ている。

怖い。

灯は視線を感じる。

窓ガラスを伝う冷たい汗。

窓の外に、彼らがいた。

ホームに立っているのは、ただの人影ではない。

子供。兵士。老人。

女。学生。職人。

みな、衣服は古び、顔色は悪い。

けれど、全員が同じ方向を見ていた。

こちらを、見ている。


「……っ」

灯は息を呑んだ。悲鳴は出ない。喉が引き攣る。

彼らの目には、光がない。

ただ、空洞のような虚ろさがあるだけだ。

静弥だけが、その光景をじっと見ていた。

怒りも恐怖もない。

ただ、ひどく悲しそうな目をしていた。


ガタン。

電車が大きく揺れた。

速度が落ちていく。

チン、と無機質なベルが鳴った。

プシュウウウ。

ブレーキ音。

車内にアナウンスが響く。

『次は……きさらぎ……きさらぎです』

ノイズ混じりの声。

女性のアナウンスのはずなのに、どこか擦れたような音だった。


電車が停止した。

ドアが開く。

外の空気が流れ込んでくる。

冷たい。いや、冷たいというより、温度そのものがない。

灯は立ち上がった。

古い駅舎。

コンクリートの柱。

錆びた鉄骨。

誰もいないホーム。

駅名標には、薄汚れた文字でこう書かれていた。

『きさらぎ駅』

「本当に……あった……」


灯の声が震える。


「降りるぞ」


静弥が先に立った。

コートの裾を翻し、ホームへと足を踏み出す。

灯、柴崎、陣内も後に続く。


ホームに降り立った瞬間、灯は理解した。

ここは、日本ではない。

空気が違う。

音が遠い。自分の足音すら、水の中を歩いているように鈍く響く。

風がない。髪は揺れない。

匂いがない。雨の匂いも、土の匂いもしない。

世界が死んでいるのだ。


「ここは境界だ」


静弥が低く呟いた。


「境界?」


灯はおそるおそる聞き返す。


「帰れなかった奴が集まる場所だ」


静弥の声には、深い哀れみが滲んでいた。

「生きる世界を失った者たちが、辿り着く果て」


灯は周囲を見回した。

ホームの奥。

闇が濃い。

その闇の中に、誰かがいることに気づいた。


ボロボロの軍服。

泥と血とで固まった布切れ。

人間ではない。

顔が崩れている。皮膚が溶け落ち、骨が剥き出しになっている部分もある。

だが。

その存在は、笑っていた。

カラカラに乾いた喉から、空気が漏れるような音を立てて。


ゆっくりと顔を上げる。

崩れた目で、静弥を捉える。


「八」


沈黙が落ちた。

雨音さえ遠い。時が止まったような静寂。


「神代さん……?」


灯は静弥を見上げた。


その存在は、一歩踏み出した。

軍靴がコンクリートを削る音。


「八」

「帰って来たのか」


静弥の顔色が変わった。

今まで見たこともない表情だった。

恐怖とも悲しみともつかない。

自分の一部をえぐり出されたような、苦悶の色。


その瞬間だった。


カツン。

カツン。カツン。

駅全体に、無数の足音が響いた。

ホームの影から。線路から。階段の奥から。

帰れなかった者たちが動き出した。

(第四話「きさらぎ駅 前編」了)




評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ