きさらぎ駅・前編
その日も雨だった。
しとしとと降る音が、神代骨董店の古い窓を叩いている。
「きさらぎ駅って、あの都市伝説のですか?」
灯はカウンターでスマホを操作しながら訊いた。現代人であり民俗学専攻の彼女にとって、その名前は馴染み深いものだった。ネット上で何度も目にしたことがある。存在しないはずの駅。迷い込んだら帰れない。
「そうだ」
静弥は茶を啜った。黒いロングコートの背もたれに掛かった雨粒が、ゆっくりと滑り落ちる。
「本当にあるんですか? ネットの噂かと……」
「ある」
静弥の低い声が店の空気を変えた。断言だった。迷いも躊躇もない。あると言い切った。
灯はごくりと唾を飲み込んだ。
カラン。
鈴の音。
入り口の扉が開いた。
スーツ姿の男が立っていた。
三十代後半。細身で神経質そうな顔立ち。短く刈り込んだ黒髪。疲れ切った目をしている。黒縁の眼鏡の奥には、睡眠不足特有の薄い目が光っていた。
「いらっしゃいませ……?」
灯が小さな声で漏らす。
「公安調査庁第三部です」
男が名刺を差し出した。白地に黒文字。部署名だけが印字されている。
「はじめまして、陣内省吾です」
「第三部?」
灯は首を傾げた。
「存在しない部署です」
陣内は表情を変えずに言った。
「……相変わらず胡散臭ぇな」
奥から柴崎が顔を出した。煙草を指に挟んでいる。
「柴崎さんも相変わらずですね」
陣内は深いため息をついた。
「胃痛が治まりません」
「お互い様だろ」
陣内は柴崎を無視してカウンターに向き直った。
「単刀直入に言います。失踪者が出ました」
資料を広げる。
「大学生。二十代男性。名前は倉橋誠」
「また若いのか」
柴崎が覗き込む。
「友人への通話記録があります」
陣内が端末を操作し、音声データを再生した。
『……変な駅にいる』
ノイズ混じりの声。恐怖に歪んでいる。
『きさらぎ駅って書いてある』
途切れる。
『……助け……』
プツリと切れた。
「その後、連絡が途絶えました」
陣内は端末を閉じた。
「第三部が捜索に向かいましたが……失敗しました」
「失敗?」
灯が聞き返す。
「黒衣隊二名が行方不明になりました」
陣内の声が沈んだ。
「通常案件ではありません。八号事案です」
空気が凍りついた。
八号事案。静弥でなければ対処できない案件。
「助けられるんですか?」
灯は訊かずにはいられなかった。
「分かりません」
陣内は正直に答えた。
「きさらぎ駅は異界との境界に近い場所です。一度迷い込めば帰還は極めて困難」
沈黙が落ちる。
雨音だけが響く。
「行く」
静弥が静かに言った。
即答だった。
−−−
第三部の施設は都内の地下にあった。
エレベーターで降りること数十メートル。
無機質な廊下。点滅する非常灯。
壁には怪異資料や呪物保管庫への入り口が並んでいる。
灯は目を輝かせていた。
「すごい……民俗学的に見ても資料価値が……」
「触らないでください」
陣内が即座に止める。
「ここにあるものの半分は見るだけで呪われます」
「すみません!」
灯は慌てて手を引っ込めた。
会議室には大量の資料が用意されていた。
きさらぎ駅に関する報告書だ。過去の目撃談、行方不明者のリスト、空間観測データ。
「共通点があります」
陣内がホワイトボードに書き出す。
・深夜
・終電
・一人
・気付くと存在しない駅
・帰れない
「怖すぎません……?」
灯が身震いする。
「今さらだろ」
柴崎が茶を啜る。
「嬢ちゃん、もう三件は経験してるだろ」
「経験してても怖いものは怖いんです!」
静弥は黙って資料をめくっていた。
一枚で手が止まる。
古い写真。昭和初期の駅。モノクロームの風景。
何かに惹かれたように見つめている。
「神代さん?」
灯が声をかける。
「……」
静弥は何も言わなかった。ただ写真を指で撫でた。その指先がかすかに震えているように見えたのは、気のせいだろうか。
−−−
深夜一時。
第三部特別車両は雨の中を走っていた。
黒いワゴン車。窓ガラスは防弾仕様だという。怪異にとってはほぼ無力だが。
陣内がハンドルを握っている。
助手席には静弥。黒いコートを着たまま目を閉じている。
後部座席には灯と柴崎。
柴崎が煙草を取り出した。
カチッ。ライターの火。
「禁煙車です」
陣内がバックミラー越しに言った。
「窓開ける」
柴崎は窓を少し開けた。
「これでいいだろ」
煙草の煙が漂う。
灯がむせる。
「っ……けほっ……」
静弥が目を開けた。白い目で柴崎を見る。
「……悪ぃ悪ぃ」
柴崎は煙草を消した。
「機嫌悪ぃなぁ」
少し和んだ気がした。
しかしすぐに空気は張り詰めた。
車は廃線跡へと少しずつ近づいていた。
−−−
深夜二時。
廃線となった線路の脇に立っていた。
寒い。風がヒュウヒュウと鳴る。
線路だけが闇の中に伸びている。草は生えていない。土も砂利もない。ただ線路だけがある。
「ここです」
陣内が懐中時計を見る。
「毎回、二時十三分に電車が来ます。存在しないはずの電車です」
「来るわけ……」
灯が言いかけた。
ガタン。
遠くから音がした。
ガタン。
ガタン。
近づいてくる。
本当に来る。
古い国電。昭和の塗装。
ホームに滑り込んできた。
誰も乗っていない。
車内は薄暗い。蛍光灯が点滅している。
貼り紙の広告も古いままだ。
『銀河鉄道999公開記念』
『新幹線0系退役』
平成どころか昭和の時代だ。
「異常ありませんね」
陣内が呟く。
でも違う。
雰囲気が違う。
空気が違う。
時間が違う。
ここだけが他の世界と隔離されている。
「行くぞ」
静弥が言った。
電車のドアは既に開いていた。
乗り込む。
ドアが閉まる。
発車。
灯は座席に腰掛けた。
窓の外を見る。真っ暗だ。どこまでも真っ暗。
「これ本当に日本ですか……?」
答えはない。
陣内も柴崎も窓の外を見ている。
途中の駅で停止した。
異常があった。
駅名標が無い。
ただホームだけがある。
そこに人が立っている。
動かない。
乗ってこない。ただ見ている。
全身黒い人影。顔が無い。でも確かにこちらを見ている。
怖い。
灯は視線を感じる。
窓ガラスを伝う冷たい汗。
窓の外に、彼らがいた。
ホームに立っているのは、ただの人影ではない。
子供。兵士。老人。
女。学生。職人。
みな、衣服は古び、顔色は悪い。
けれど、全員が同じ方向を見ていた。
こちらを、見ている。
「……っ」
灯は息を呑んだ。悲鳴は出ない。喉が引き攣る。
彼らの目には、光がない。
ただ、空洞のような虚ろさがあるだけだ。
静弥だけが、その光景をじっと見ていた。
怒りも恐怖もない。
ただ、ひどく悲しそうな目をしていた。
ガタン。
電車が大きく揺れた。
速度が落ちていく。
チン、と無機質なベルが鳴った。
プシュウウウ。
ブレーキ音。
車内にアナウンスが響く。
『次は……きさらぎ……きさらぎです』
ノイズ混じりの声。
女性のアナウンスのはずなのに、どこか擦れたような音だった。
電車が停止した。
ドアが開く。
外の空気が流れ込んでくる。
冷たい。いや、冷たいというより、温度そのものがない。
灯は立ち上がった。
古い駅舎。
コンクリートの柱。
錆びた鉄骨。
誰もいないホーム。
駅名標には、薄汚れた文字でこう書かれていた。
『きさらぎ駅』
「本当に……あった……」
灯の声が震える。
「降りるぞ」
静弥が先に立った。
コートの裾を翻し、ホームへと足を踏み出す。
灯、柴崎、陣内も後に続く。
ホームに降り立った瞬間、灯は理解した。
ここは、日本ではない。
空気が違う。
音が遠い。自分の足音すら、水の中を歩いているように鈍く響く。
風がない。髪は揺れない。
匂いがない。雨の匂いも、土の匂いもしない。
世界が死んでいるのだ。
「ここは境界だ」
静弥が低く呟いた。
「境界?」
灯はおそるおそる聞き返す。
「帰れなかった奴が集まる場所だ」
静弥の声には、深い哀れみが滲んでいた。
「生きる世界を失った者たちが、辿り着く果て」
灯は周囲を見回した。
ホームの奥。
闇が濃い。
その闇の中に、誰かがいることに気づいた。
ボロボロの軍服。
泥と血とで固まった布切れ。
人間ではない。
顔が崩れている。皮膚が溶け落ち、骨が剥き出しになっている部分もある。
だが。
その存在は、笑っていた。
カラカラに乾いた喉から、空気が漏れるような音を立てて。
ゆっくりと顔を上げる。
崩れた目で、静弥を捉える。
「八」
沈黙が落ちた。
雨音さえ遠い。時が止まったような静寂。
「神代さん……?」
灯は静弥を見上げた。
その存在は、一歩踏み出した。
軍靴がコンクリートを削る音。
「八」
「帰って来たのか」
静弥の顔色が変わった。
今まで見たこともない表情だった。
恐怖とも悲しみともつかない。
自分の一部をえぐり出されたような、苦悶の色。
その瞬間だった。
カツン。
カツン。カツン。
駅全体に、無数の足音が響いた。
ホームの影から。線路から。階段の奥から。
帰れなかった者たちが動き出した。
(第四話「きさらぎ駅 前編」了)




