最後まで見て
篠宮灯は講義室の最後列で、ノートパソコンに向かっていた。民俗学のレポートである。提出期限が近い。隣の席では友人の奈々がスマホをいじっている。
「ねぇ灯」
奈々が顔を上げた。明るい茶髪。人懐っこい笑顔。
「これ見た?」
スマホの画面を傾ける。
数秒の動画だった。
古いアパートの一室。暗い照明。映像は乱れている。
特に何が起きるわけでもない。
ただ部屋が映っているだけ。
だが最後。
一瞬だけ。
画面の奥から女の顔が迫った。
白い顔。黒い目。口が開いている。
動画は終わった。
灯は息を呑んだ。
「なにこれ」
「SNSで流行ってるらしいよ」
奈々は笑う。
「怖い映像だって。なんかね、最後まで見ると祟られるとか」
「やめてよそういうの」
灯は顔をしかめた。
「私、そういうの苦手なんだから」
「大丈夫だって。ただの動画だよ」
奈々はけらけらと笑った。
---
数日後。
灯は大学の廊下で奈々を見かけた。
奈々は窓際に立って、外をぼんやりと眺めていた。
「奈々?」
奈々はゆっくりと振り返った。
目の下に隈がある。元気だった笑顔がない。
「どうしたの? 具合悪い?」
「ううん……」
奈々は首を振った。
「なんかね、最近眠れなくて」
「病院行った?」
「行ってない……大したことないし」
灯は心配になった。
奈々はそれから「後ろ誰かいる気がする」と言った。
「なんかずっと見られてる気がして……鏡を見るのも怖い」
それでも奈々はスマホを手放さなかった。常に握りしめている。画面をちらちらと気にしている。
---
その日の午後。
灯は神代骨董店のカウンターで茶を啜っていた。
「……それで、その奈々がおかしくなったと」
向かいには静弥。黒いロングコート。静かな瞳。
「うん。あの子、あんなんじゃなかったのに」
「動画を見せてくれたんだろ」
「うん……」
灯はスマホを取り出した。奈々から送ってもらったあの動画だ。
再生ボタンに指をかける。
「待て」
静弥の手が伸びてきた。スマホを取り上げる。
「えっ」
静弥は画面を一瞥し、すぐに再生を止めた。
「最後まで見ないんですか?」
静弥の顔がしかめられた。珍しく嫌そうな表情だ。
「……見るな」
短く言い捨てた。
---
翌日。
灯は大学で奈々に会った。
奈々の様子はさらに悪くなっていた。
目は充血し、肌は青白い。
それなのにスマホだけは握りしめている。
「奈々、病院行こう? 私付き添うから」
「いいの……」
奈々は首を振った。
「私、見ちゃったんだ……最後まで」
「え?」
「あの動画……何度も見ちゃった……」
奈々の声が震える。
「そうしたらね……画面の中の女の人がね……こっちを見てるんだよ」
灯は背筋が凍った。
その日の夜。
柴崎が骨董店に来ていた。
「SNSで騒ぎになってるらしいぞ」
柴崎は煙草をくわえたまま言った。
「あの動画を見た奴が次々体調不良になってる。失踪した奴もいる」
「自殺未遂も出たらしい」
灯が言った。
「ニュースで見た」
「共通点は一つだ」
柴崎が煙草の煙を吐く。
「全員、動画を最後まで見ている」
---
灯は大学の図書館に籠もった。
民俗学の資料室。古い新聞記事や過去の事件記録を漁る。
見つけたのは十数年前の記事だった。
『配信中の女性飛び降り』
ネット生配信中に女性が飛び降り自殺をした。その映像が拡散された。何度もコピーされ、何度も編集され、何度も転載された。
「これか……」
灯は記事を読み進める。
女性は生前、
「誰も見てくれない」と繰り返していたという。
孤独な死。
誰にも気づかれない消滅。
それが映像という形で残り続けた。
灯はスマホを取り出した。
あの動画の画面だ。
よく見ると背景があの女性の部屋に似ている。
これは怪異だ。
映像を媒介して広がる怪異。
---
夜更け。
灯はアパートに戻った。
机に向かってレポートを書いている。
プップップッ。
スマホが鳴った。
通知音。
灯が画面を見る。
『動画を受信しました』
送り主は不明。
サムネイルは暗い部屋。
灯の手が震えた。
見てはいけないとわかっている。
でも指が勝手に動く。
再生ボタンを押した。
画面の中。
暗い部屋。
何もない。
何も起きない。
女がいた。
画面の奥から迫ってくる。
だんだん大きくなる。
顔が見える。
白い顔。黒い目。開いた口。
動画なのに近づく。
怖い。
灯はスマホを投げ捨てたかった。でも指が動かない。見入ってしまう。
女が言った。
「みて」
灯の背後で空気が変わった。
振り向きたくない。
でもわかる。そこに誰かがいる。
---
その頃。
神代骨董店では静弥が座ったまま何かを感じていた。
黒いコートを翻す。
店を出る。
夜の街を一人歩く。
目指すは灯のアパートだ。
アパートに着いた時には、建物全体が異界化しかかっていた。
空気は湿り気を帯び、廊下は古いアパートのそれに変質している。
灯の部屋のドアは開いていた。
中に入る。
灯が座り込んでいる。
目の前にはスマホ。
画面から女が迫っている。
「灯」
静弥の声。
灯がびくりとして顔を上げた。
「神代さん……!」
静弥は部屋を見渡した。
隅々まで暗い影が滲んでいる。映像のノイズのような歪みが空間に走る。
女の声が響く。
「みて」
「さいごまでみて」
「わすれないで」
情報災害型の怪異だ。
物理攻撃が効きにくい。
静弥はモシキを抜いた。
重い拳銃。銃口に黒い光が渦巻く。
女が叫ぶ。
「みてええええ!」
空間が歪む。映像のノイズが床を這う。灯が悲鳴を上げる。
静弥は動じない。
一歩踏み出す。
黒い魔力がコートから漏れ出し、足元に広がる。
---
女は言う
「わすれられるのはいや」
「ひとりのままおわりたくない」
「みてほしかっただけ」
静弥はモシキを構えたまま問う。
「お前は誰だ」
女の顔が歪む。ノイズ混じりの涙。
「だれにもみられなかった」
「しんでるあともみつからなかった」
「だから……せめて……」
静弥は目を細めた。
忘れられる恐怖。誰にも気づかれない消滅。そんな最期を拒絶した魂が映像に宿った。
静弥はスマホ画面へ歩み寄る。
灯が声を上げる。
「神代さん! 危ない!」
大丈夫だ。
静弥は画面を見据えた。
「……見ている」
静かな声だった。
女が息を呑む。
「だから終われ」
静弥はモシキを構えた。
銃口が黒く光る。
轟音。
スマホの画面が砕け散った。
女の悲鳴と共に影が霧散していく。
映像データも崩壊した。
部屋に静寂が戻る。
割れたスマホの破片だけが床に散らばっていた。
---
翌日。
大学のキャンパスで灯は奈々に会った。
奈々はいつもの笑顔だった。
「なんか怖い夢見てた気がするー。あんな動画見なきゃよかったかな」
灯はほっとした。
「もう無理しないでよ」
「はいはい」
奈々は笑う。
「あ、灯それよりレポート出した?」
「まだ!」
灯は慌ててノートパソコンを開いた。
日常が戻ってきたのだ。
---
その日の夕方。
神代骨董店。
灯がカウンターで茶を啜っている。静弥は帳簿に何か書き込んでいた。
「最近の怪異ってネット使うんですね」
灯が言った。
「時代ですよねぇ」
静弥は真顔で答えた。
「面倒だな」
灯は吹き出した。
「もう! そういう反応!」
その時だった。
ジリリリリリ。
骨董店の電話が鳴った。
黒い電話機。レトロなダイヤル式だ。
静弥が受話器を取る。
「……神代だ」
相手の声は聞こえない。でも灯にはわかった。静弥の眉がしかめられたからだ。
「そうか」
短く答える。
「……八号事案か」
灯はごくりと唾を飲み込んだ。八号事案。以前柴崎から聞いた言葉だ。静弥でなければ対処できない案件。
静弥の表情が曇る。嫌そうな顔だ。でも拒絶はしない。
電話の相手が何かを言ったようだ。静弥の手が一瞬止まった。
「きさらぎ駅をご存知ですか」
受話器越しに聞こえた声ではない。でも灯にはそう聞こえた気がした。
静弥の表情が変わった。
ただ嫌そうな顔ではない。もっと深い、暗い色が目を湛めたように見えた。
帰れない場所。存在しない駅。迷い込んだ者は還れない。
静弥にとってそれは他人事ではないのだろう。
受話器を置く音がやけに大きく響いた。
古時計がコチコチと時を刻む。
外は雨になりそうだった。
(第三話「最後まで見て」了)




