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市松人形

カラン。

鈴の音が鳴る。

午後三時。

神代骨董店のアルバイト初日だった。


「はい! いらっしゃいませ!」

篠宮灯は元気よく声を出した。


……が。

客はいない。

店の奥から、黒いロングコートの青年が顔を出す。


「……そんな大声出さなくていい」


神代静弥だ。


「えっ、でも接客ですよね?」


「客は滅多に来ない」


「じゃあ何のための店ですか」


「古物商だ。店を持っているだけでいいんだそうだ」


「適当すぎません!?」


灯はツッコミを入れた。

静弥はただ淡々と茶を啜っている。


「で、まずは何すればいいんですか」


「掃除だな」


「掃除……」


灯は店内を見回した。

棚には古書、ガラスケースには懐中時計、壁には軍刀に掛け軸。埃を被った人形に、出所の怪しげな壺。


「全部埃だらけじゃないですか……」

「定期的にやっている」


「嘘ですね。絶対嘘です。角に蜘蛛の巣ありますよ」


「……見えていたのか」


「見えますよ!」


灯は腕まくりをした。


「やります! 任せてください!」


一時間後。

灯は店内の半分を掃除し終え、ぜいぜいと息を切らしていた。


「思ったより汚い……」


「ご苦労」


静弥は変わらずカウンターに座り、古い帳簿をめくっている。手伝う気配はない。


「神代さん! 手伝ってくださいよ!」


「俺がやると余計に埃がつく」


「どういう意味ですか」


「……死人は垢も落とさないからな」


「もう! またそうやって誤魔化す!」


その時。

店の入り口が開いた。


「よう、嬢ちゃん。早速奉公か」


煙草の匂いをさせた中年男。

柴崎恒一だ。


「柴崎さん! 今日も来たんですか」


「ここは俺の憩いの場だ」


「憩いの場じゃないですよ。お店です」


灯は呆れた。

柴崎はカウンターに座り、勝手に茶を注ぐ。


「おう、神代。今日は客が来るぞ」


「客?」


静弥が顔を上げた。


「ああ。お前の店にしては珍しく、普通の客だ」


「……普通か」


静弥は少し眉をひそめた。


---


十分後。

女性が娘を連れて入ってきた。

三十代半ばほどの母親。五歳くらいの女の子だ。


「あの、こちらが神代骨董店ですよね」

女性は不安そうに店内を見回す。


「はい! いらっしゃいませ!」

灯が明るく応対する。


「何かお探しでしょうか」


「ええと、その……こちらで、古いものを見ていただけるという話を……」


女性は鞄から布を取り出した。

包みを開くと、中から市松人形が出てきた。

三十センチほど。古びた絹の着物。黒い髪。ガラス細工の目。

灯は少しだけ背筋が冷えた。こういう人形は、昔からあまり好きじゃない。


「これは……」


女性は声を潜めた。

「結菜が拾ってきたんです」


女の子――結菜が、母親の後ろから顔を出した。


「お姉ちゃんがくれたの」


「お姉ちゃん?」


灯が聞き返す。


「ええ。結菜には姉はいません。一人っ子なんです」

女性は困った顔をした。


「近所の空き地で拾ったって言うんです。それからずっと一緒にいるって言って……最初はただのお友達ごっこだと思っていたんです」


女性は震える声で続けた。


「でも、最近……結菜が言うんです。『お姉ちゃんが髪を梳かしてくれる』って。……夜中に、話し声がするんです」


灯はごくりと唾を飲み込んだ。

静弥がカウンターから立ち上がり、近づいてくる。


「見せてもらってもいいか」


女性が人形を差し出す。

静弥は人形を受け取らず、覆われている布ごと眺めた。


「……いつからだ」


「え?」


「話し声が聞こえたのは」


「一週間ほど前からです」


静弥は少しだけ目を細めた。

「この子の名前は」


「結菜です」 


静弥は結菜を見た。結菜は静弥を見上げている。怖がる様子はない。


「……そうか」


---


その夜。

結菜の家に上がり込んでいた。

母親は灯に付き添われて隣室で休んでもらっている。

子供部屋。

灯と静弥。そして柴崎。

结菜のベッドには市松人形が座らされている。

灯は人形を見るだけで鳥肌が立つ。


「これ……本当に動くんですか」


「動くだろうな」


静弥は窓際に立っていた。

外は雨だ。しとしとと降る音が響く。

コチコチと時計の音。

それだけの静寂。


カタン。

灯はびくりとした。


「な、何……?」


「人形だ」


柴崎が顎で指す。

見ると、人形の首が少しだけ傾いていた。

さっきまでは正面を向いていたはずだ。


「うそ……」


灯は息を呑む。


サラサラ……

音がした。

髪を梳かす音だ。

でも、人形の手は小さな膝の上にある。

誰の手も触れていないのに、音だけが響く。

灯の顔から血の気が引いていく。


ポツリ。

人形の口から、声が漏れた。


「……おねえちゃん」


小さな、寂しい声だった。

灯は悲鳴を上げそうになるのを必死で堪えた。


「来るぞ」

静弥が低く言った。


カチリ。

何かが外れる音。

部屋の空気が変わった。

湿った匂い。古い畳の匂い。消毒液の匂い。

子供部屋の壁が、ぐにゃりと歪む。

壁紙が剥がれ、古い板壁が現れる。

天井が低くなり、裸電球がぶら下がった。


「えっ……えっ!?」

灯は目を見開いた。


「ちょっと待ってください! 部屋が!」


「異界化だ」


柴崎が煙草に火をつけた。

「空間ごと持っていかれそうだな」


「持っていかれるってどこへ!?」


「あっちの方だろ」


部屋の隅。

暗がりに、白い影が見えた。

薄汚れたワンピースを着た少女。

足がない。

浮遊しているわけでもない。ただ、影のようにそこにある。

少女は結菜のベッドを見つめていた。


−−−


翌日。

結菜の家から離れた喫茶店で作戦会議をした。


「やっぱり戦後の孤児院だったな」


柴崎がコーヒーを啜る。

「あの辺一帯、昔は福祉施設とかがあったらしい。火事で全焼して……子供が数人死んでる」


灯は資料を見せていた。大学のデータベースで調べたものだ。


「昭和二十年ごろですね。空襲で親を亡くした子たちが集められていた施設……記録があります。名前まではわかりませんでしたが」


静弥は黙って聞いている。


「あの人形は『お姉ちゃん』のものだろう」


静弥が言った。


「本当の姉妹ではない。ただの同じ施設の子供だ。だが、妹のように可愛がっていた。……火事の時、姉の方は妹を庇って死んだらしい」


「じゃあ、どうして今頃……」


灯が訊く。 


「帰る場所が欲しかったんだろう」


静弥は窓の外を見た。

「施設ごと燃えた。家族もいない。行き場がない。……だから、家族になれそうな子を見つけて、寄り添った」


灯は胸が痛んだ。

怪異だ。怖い存在だ。

でも、その根本にあるのは…寂しさだ。


---

帰り道。

夕暮れの商店街を歩いていた。


「怪異って悲しいですね」


灯がぽつりと言った。

静弥は何も言わない。


「家族になりたかっただけなんですよね。……お姉ちゃんも、妹も」


静弥が足を止めた。


灯も立ち止まる。


「……人間も同じだ」


静弥は低く言った。

「帰る場所がない者は、誰かに縋り付く。それが例え死者同士でも」


灯は静弥を見上げた。


冷たい横顔。でも、その目には微かな光があるような気がした。


---


夜十一時。

再び訪れた結菜の家は完全に異界化していた。

廊下は古びた木造校舎のそれに変わり、あちこちから子供たちの笑い声が聞こえる。でもそれは楽しそうな声じゃない。無理やり笑っているような、乾いた声だ。


「おねえちゃん……どこ?」


結菜の声がする。母親と一緒に奥の部屋に避難している。


子供部屋に入ると、そこはもう部屋ではなかった。

薄暗い和室。柱には火傷の跡。畳は煤けている。

部屋の中央に市松人形がある。

そしてその周りを、数人の子供たちの影が囲んでいた。


「あそぼう」


「もうどこにもいかないで」


「ずっと一緒に」


影たちの手が結菜の方へ伸びる。結菜の部屋へ続くドアノブを、黒い手形が掴もうとしている。


「そこまでだ」


静弥が一歩踏み出した。


右手はモシキに伸びかけた。だが、止まる。

今度は腰の軍刀に手をかけた。


静かに抜刀する。


チリン……と鈴のような音が鳴った気がした。刀身には黒い魔力が薄く纏わりついている。


影たちが一斉にこちらを向く。黒い目。目がない顔。


「壊したくはない」


静弥は言った。「お前たちも、ただ帰りたかっただけだろう」


刀先を下げる。


影たちは息を呑んだように動きを止めた。


---


静弥はゆっくりと影たちに近づいていく。

敵意はない。ただ静かに。


「もう待たなくていい」

静弥の声が響く。


影の中で一歩だけ前に出ていた少女――

『お姉ちゃん』を見る。


「お前たちは十分待った」


少女の顔から、煤が落ちていくようだった。黒かった表情に、幼い少女の顔が戻っていく。


「……帰れるの?」

かすれた声。


「帰れる」

静弥はうなずいた。

「もう終わりだ」


少女の手から市松人形が滑り落ちた。

人形は床に落ちる直前、光の粒となって消えた。


少女が泣き始めた。

声を出さず、涙だけを流している。


静弥は刀を納め、左手を差し出した。


「帰るぞ」


少女の手が白い指に触れた。

冷たいだろうか。でも構わず握った。


光が溢れた。

雨音だけが残った。


---


翌朝。

灯が結菜の家を訪ねると、母親が出てきた。

「昨夜はよく眠れました」と笑う。

「不思議なんですけど……もう話し声もしなくなって」


結菜も元気そうだった。

「お姉ちゃんね、バイバイしてくれたの」

と言う。


灯は安堵して骨董店へ向かった。


---


閉店後の骨董店。

古時計がコチコチと鳴る。

外は雨だ。


灯はカウンターで茶を啜っていた。向かいには静弥。


「神代さん」

灯は切り出した。


「この前言ってましたよね『死人だ』って。」


静弥の手が止まる。


「どういう意味なんですか」


沈黙が落ちた。雨音だけが響く。


やがて静弥は口を開いた。


「昔」


言葉を選ぶようにゆっくりと。


「兵隊だった」


灯は目を見開いた。

「兵隊……?」



「戦争で死んだ」


淡々と言葉が続く。

「それで終わるはずだった」


信じられない。でも反論もできない。冷たい手。怪異を見る目。普通じゃない身体。銃声と共に散る怪異。……全部思い出す。


「気付いたら今だった」


静弥は遠くを見る目をした。


「帰る場所も」


言葉が途切れる。


「もうない」


灯にはわかった。この人は本当に長い間一人で立っていたのだと。終わるはずだった命を引きずって。



灯はしばらく考え込んだ。

そして少しだけ笑う。


「じゃあ」


静弥が不思議そうに灯を見る。

「?」


「今はここが帰る場所ですね」


灯はカウンターを指差した。

「骨董店もありますし」


それから自分の胸を指差す。

「私もいますし」


静弥は目を丸くしたようだった。本当に少しだけ驚いた顔をする。


そしてほんの少しだけ、柔らかい表情になったように見えた。


「……そうか」


その時ちょうど、古時計が時報を鳴らした。

コチコチという音に混じって、雨音だけが響いていた。


でも今日の雨はもうすぐ止みそうだった。雲間からかすかに陽が射している。

神代骨董店に住む死人と

そこで働き始めた女の子の物語は、これから続いてゆく。


(第二話「市松人形」了)

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