黒衣と骨董店
雨だった。
初冬の雨は冷たくて、街灯の光をにじませる。
篠宮灯は駅から住宅街へと続く細い道を、傘を差して歩いていた。二十三時を過ぎた路上には人影はない。レポートの提出がぎりぎりになって、気づけば終電近くになっていた。
「はあ……」
白い息が闇に溶ける。
スマホの画面を見ながら、明日の一限は諦めようかとぼんやり考えていた。
その時だった。
視界の端を、黒い何かが横切った。
顔を上げる。
十メートルほど先。
女が立っていた。
黒い傘。白いコート。長い髪。
こんな時間に、こんな場所に。
灯は小さく首をかしげた。先ほどまでは誰もいなかったはずだ。でも、ただの帰宅途中の女性かもしれない。
気にせず歩く。
路地を曲がる。
曲がった先にも、女が立っていた。
え。
立ち止まる。
さっきの女ではない。さっきの女は背後のはずだ。
なのに、前にいる。
黒い傘。白いコート。
顔は、髪に隠れて見えない。
雨音だけがやけに大きく耳につく。
灯は唾を飲み込んだ。なにかがおかしい。心臓がとくんと跳ねる。
別の道。
そう思い、脇道へ逸れる。
住宅と住宅の狹間。街灯が切れかけて、チカチカと瞬いている。
道の真ん中に、女が立っていた。
傘は差していない。
濡れた黒髪が、顔に張りついている。
コートの裾から、白い足がのぞいていた。
裸足だった。
「……っ」
灯は走った。
傘を落とした。
雨が髪を濡らし、マフラーを濡らし、コートを濡らす。
走って、走って。
曲がった路地の奥に、ふと灯りが見えた。
古い木造の店構え。
看板がかかっている。
『神代骨董店』
こんな場所に骨董店? 疑問に思う余裕はなかった。
後ろを見る。
女がいた。
さっきよりずっと近い。もう五メートルも離れていない。
灯は店の引き戸に飛びついた。
カラン、とベルが鳴った。
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店内は、外よりずっと静かだった。
古い紙、錆びた金属と、かすかな線香の匂い。壁には掛け軸、棚には古書や昔の日本軍のものであろう軍用品、ガラスケースには懐中時計が並んでいる。
薄暗い。
でも、暖かな灯りが店の奥でともっていた。
「……いらっしゃい」
声がした。
店の奥から、男が立ち上がるのが見えた。
黒いロングコートを着た、背の高い青年だった。黒髪に白い肌。目は真っ黒で、どこか疲れているように見える。歳は二十代半ばくらいだろうか。
綺麗な人だ、と灯は思った。
それと同時に、何かがおかしいとも思った。
理由はわからない。ただ、背筋がほんの少し冷えた。
「あ、あの、外に……」
灯は震える声で言った。
男は何も言わず、店の入り口へと歩いた。灯の横を通り過ぎる時、かすかに空気が冷えた気がした。
男が引き戸を少し開けて、外を見る。
しばらく沈黙。
「……入って来れない」
「え?」
「この店には」
男は静かに言った。それから引き戸を閉め、鍵をかける。
「座るといい」
店の奥の小さなテーブルで、灯は湯呑みを両手で包んでいた。
ほうじ茶の香りが鼻をくすぐる。
「あの、すみません、急に飛び込んだりして」
「かまわない」
男は向かいに座り、自分も茶を啜った。店の主らしい。
「ここは……骨董店、なんですよね」
「そうだ」
「こんな時間まで、開いてるんですか」
「決まった時間はない」
男は淡々と答える。無表情というわけではないが、感情の起伏がとても小さい様に感じた。
「私は篠宮灯といいます。大学で民俗学を専攻してて」
「神代静弥だ」
「神代……さん」
灯はもう一度店内を見回した。
古時計がコチコチと時を刻む。棚には軍刀が一振り。ガラスケースの中には、古びた拳銃のようなものも飾られている。
「さっきの、あれは」
「帰れないものだ」
静弥は湯呑みを置いた。
「死んだ場所も、帰る場所も忘れた。だから彷徨っている」
「幽霊……ってことですか」
「怪異だ」
静弥の目が、一瞬だけ灯を見た。黒い瞳。底が見えない。
「このあたりは、そういうものが寄りやすい。気をつけて帰るといい」
「寄りやすい?」
「骨董店だからな。古いものには、念が残る」
静弥は立ち上がった。
「雨が弱まった。今なら大丈夫だろう」
「……はい」
灯は腰を上げた。正直、まだ怖い。でも、ずっとここにいるわけにもいかない。
「あの、ありがとうございました」
「駅までの道は?」
「え、あ、えっと」
灯が道を説明する前に、静弥は小さくうなずいた。
「送る」
「えっ」
「また出るかもしれない」
静弥はもう店の戸を開けていた。外は小雨になっている。
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二人で夜道を歩く。
静弥は傘を差さない。黒いコートが雨に濡れているのに、気にする様子もない。
灯は横顔をちらりと見た。白い肌。雨粒が頬を伝うのを拭いもしない。
「神代さんは、いつもああいうのを見るんですか?」
「たまに」
「怖くないんですか」
少し沈黙。
「……俺も、似たようなものだ」
ぼそりと言った。
灯は言葉の意味を訊ねられなかった。
駅が見えてきた。
「ここまでで大丈夫です」
「そうか」
「あの、お茶代とか」
「いらない」
それだけ言って、静弥は背を向けた。
黒いコートの背中が、雨の闇に溶けていく。
灯はしばらく、その後ろ姿を見ていた。
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アパートに着いたのは、零時をまわった頃だった。
灯は鍵を開け、部屋に入る。電気をつけて、ほっと息をついた。
コートを脱ぎ、濡れた髪をタオルで拭く。
怖かった。でも、なんだか夢みたいな出来事でもあった。骨董店。黒いコートの店主。幽霊いや怪異。全部が現実離れしている。
疲れていた。とにかく寝よう。
部屋着に着替え、ベッドに潛り込む。
雨音が窓を叩いている。
小さな音で、眠りに落ちかけた。
ぺた。
目が開く。
なんだ、今の。
ぺた。
廊下から聞こえる。
濡れた足音。
ぺた。
近づいてくる。
灯は布団を握りしめた。動けない。声も出ない。
部屋のドアの下にある隙間。
そこから、水が滲んでくる。
ぺた。
ドアの向こうに、何かが立っている気配がする。
鍵はかけた。かけたはずだ。
ガチャリ。
ドアノブが回る。
違う。
鍵がかかっているのに、ドアがゆっくりと開いていく。
隙間から、黒い髪が垂れた。
「……かえりたい」
水に濡れた声。
灯は叫んだ。
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翌日、午後。
神代骨董店のカウンターで、灯はぐったりと突っ伏していた。
「で、泣きながらここまで来たんか、嬢ちゃん」
声がして顔を上げる。
カウンターの隅に、くたびれた中年男が座っていた。無精髭に、くたびれたコート。煙草の匂いが染みついている。
「あなた、誰ですか」
「柴崎恒一。刑事、じゃなくて元刑事」
「おっさんですね」
「おっさん言うな」
柴崎は煙草の箱を取り出しかけて、静弥にじろりと見られて手を止めた。
「店の中は禁煙だ」
「へいへい」
柴崎は肩をすくめ、茶を啜った。
「で、神代。その嬢ちゃんが例の怪異に取り憑かれてるってわけか」
「取り憑かれてはない。目をつけられただけだ」
静弥は古い帳簿に何かを書きつけながら言った。
「なんで私なんですか」
灯は半泣きで訊いた。
「たまたまだ。あの時間、あの道を通った。それだけの理由で目をつけられる」
「理不尽すぎません!?」
「怪異に理不尽はつきものだ」
静弥は顔を上げた。
「あれは事故死した女性だろう。十数年前、この近くで轢き逃げがあった。雨の夜だったらしい」
「……轢き逃げ」
「遺体は側溝に入って見つからず、長い間、行方不明扱いだったようだ」
柴崎が苦い顔で言った。
「俺も覚えてるよ。結局、事故の処理もぐだぐだでな。遺族はまだ探してるんじゃないか」
「かわいそうに」
灯の声が小さくなる。
それでも。
「でも、だからって、私を脅かしていい理由にはならないですよね」
静弥は少しだけ、ほんの少しだけ口元を緩めたように見えた。
「そうだな」
夜。
灯のアパートの一室で、静弥は窓の外を見ていた。
部屋の明かりはすべて消してある。廊下の灯りだけが、ドアの下から細く差し込んでいる。
「来るんですか」
灯はベッドの隅で縮こまっていた。
「来る。もうお前の匂いを覚えている」
「匂いって……」
ぺた。
音がした。
廊下からだ。
灯の呼吸が止まる。
ぺた。ぺた。ぺた。
だんだん大きくなる。
部屋のドアの下から、水が染み出してくる。
ガチャリ。
ドアノブが回る。
鍵は閉めた。閉めたのに、またドアがゆっくりと開く。
闇の隙間から、黒い髪。白い足。
「……かえりたい」
「……かえりたい……」
顔が、崩れている。水死体のように膨れて、目はどこにもない。口だけが大きく開いて、その言葉を繰り返す。
灯は声を出せなかった。
「そこまでだ」
静弥の低い声。
闇の中で、黒いコートが揺らめいた。
男の右手に、大きな拳銃が握られている。モーゼル。古い軍用拳銃だ。でも、何かが違う。銃口の奥で、黒い光が渦を巻いている。
「下がっていろ」
静弥が一歩踏み出した。左手が灯を背後にかばう。
怪異が顔を上げる。
「かえり……たい……」
「帰る場所は、もうない」
静弥は静かに言った。
「でも、ここにいてはいけない」
怪異の口が大きく裂ける。
叫び声。
同時に、部屋中の電気という電気が爆ぜた。
暗闇。
水飛沫。
灯の悲鳴。
静弥は動じなかった。黒いコートが、内側から光っているように見えた。星空のような黒い光。綺麗だ、と灯は見入ってしまった。
モーゼルの轟音。
耳をつんざくような銃声が二回。室内で発砲したとは思えない重い音だった。
悲鳴。
怪異が壁に叩きつけられる。
「モシキだ」
静弥は言った。
「古い拳銃だが、俺にはこれで十分だ」
怪異はまだ消えない。床に這いつくばり、水浸しの廊下を進もうとしている。
静弥はためらいなく近づいた。軍刀を抜く。いつの間に持っていたのか、腰に帯びていたらしい。
刃が闇を裂く。
でも、斬ったのは怪異ではない。
怪異の周りにまとわりついていた、黒い霧のようなもの。それが、ぱっと散った。
「……かえ……り……たい」
怪異の声が、弱々しくなる。
「ああ」
静弥は刀を下ろした。
「帰ろう」
ぎん、と刀を鞘に収める。
左手を怪異に差し出す。
「もう、どこにも縛られなくていい」
怪異の顔が、少しずつ元の形に戻っていく。
若い女性の顔だった。泣いている。
涙なのか、水なのか、頬を伝って落ちる。
「……かえれる……?」
「帰れる」
静弥はうなずいた。
「行く先はわからない。でも、お前を縛っていたものは俺が斬った。だから、ここに留まる必要はない」
女性は泣きながら、手を伸ばす。
静弥の白い指が、そっとその手に触れた。
次の瞬間。
怪異は、光の粒になって消えた。
部屋に静寂が戻る。
雨はもう、やんでいた。
---
「……すごい」
灯はしばらくして、やっと言った。
「怖かったけど、すごい」
静弥は答えない。窓を開けて、外の空気を入れている。
「神代さんって、何者なんですか」
灯は震える声で訊いた。
月明かりの中で、静弥は振り向いた。
その顔は、さっきまでと変わらない。綺麗だ。
変わらないのに、とても遠くにあるように見えた。
「……死人だ」
静弥は言った。
「ずっと昔に死んだ。でも、死にきれなかった」
灯は何も言えなかった。
怖いと思うよりも、なぜか胸がぎゅっと締めつけられた。
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翌日。大学の講義が終わっても、灯の頭の中は神代骨董店のことばかりだった。
静弥の言葉が離れない。
『死人だ』
冗談には聞こえなかった。
手の冷たさ。目。あの黒い光、魔力のようなもの。全部、普通ではなかった。
でも。
怪異をただ壊したわけじゃない。手を差し伸べて、「帰るぞ」と言った。
怖くて、優しい人。
放課後。
気づいたら灯は、あの路地に立っていた。
カラン。
ベルが鳴る。
夕暮れの薄闇に、静弥が顔を上げた。
「……篠宮か」
「こんにちは」
「何か用か」
「あの」
灯は深呼吸を一つ。
「アルバイト、募集してませんか」
静弥が、ほんの少し目を見開いた。驚いたらしい。
店の奥から、げほげほとむせる声。
「おいおい、嬢ちゃん正気か」
柴崎だ。いつの間にかカウンターの隅にいた。
「正気です」
「ここは普通の骨董店じゃないんだぞ。さっきまで俺も変な人形と睨めっこしてた」
「変な人形ってなんですか」
「さあな。夜中に首が回るらしい」
「回るんですか首!?」
「三回転」
「怖っ!」
灯は言ってから、柴崎を指差した。
「っていうかなんでおっさんがいるんですか!」
「柴崎だ。おっさん言うな」
そのやりとりを、静弥は黙って見ていた。
「……骨董店の仕事だぞ」
「知ってます」
「怖い目に遭うかもしれない」
「もう遭ってます」
「給料は安い」
「学生のバイトなんてそんなものですよ」
静弥は少し考えてから、ちらりと柴崎を見た。
柴崎は肩をすくめた。
「俺は止めたからな」
「……そうか」
静弥は灯に向き直った。
「では、週に三日。午後から閉店まで」
「ありがとうございます!」
灯の顔がぱっと明るくなる。
その笑顔に、静弥は何か言いたげだったが、結局何も言わなかった。
ただ、口元がかすかに緩んだのを、柴崎は見逃さなかった。
「へえ」
「なんだ」
「いや、なんでも」
柴崎は煙草をくわえたまま、にやにやと笑った。
「店が少し、明るくなるな」
古時計が、こっこっと時を刻む。
雨は、もうすぐ終わる。
でも。
灯の新しい日々は、ここから始まるのだった。
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(第一話「黒衣と骨董店」了)




