EP 5
純白の自己犠牲と、絶対の檻
「……ガッ……ァ……っ!?」
魔王ラスティアが空から舞い降りた瞬間。
政宗の肺から、強制的に酸素が搾り出された。
空気が、重い。いや、空間そのものの『質量』が変質していた。
広場の重力が何十倍にも跳ね上がったかのように、政宗の両膝が石畳に激突し、バキッと鈍い音を立てる。
強靭な闘気を誇るリバロンでさえ、片膝をつき、顔を歪めて荒い息を吐いていた。
圧倒的な、絶対者のオーラ。
暴力でも、法でもない。ただそこに『在る』だけで、脆弱な生命体を平伏させる神話クラスの威圧。
「……ああ、なんと滑稽な光景だ。資本主義の覇者よ」
ラスティアの漆黒のヒールが、広場に散らばっていた黄金の金貨を踏み躙る。
チャリン、という虚しい音が冷え切った空気に響いた。
「金で命が買えたか? 算盤で私の『悲哀』は弾き返せたか? ……貴様の作ったちっぽけな砂上の楼閣は、私のため息一つでこのザマだ」
ラスティアの虚無の瞳が、地面に這いつくばる政宗を氷のように見下ろす。
政宗は、歯を食いしばり、目から血の涙を流さんばかりの形相でラスティアを睨み返した。
「……てめえ……ッ! 遊びの、つもりか……!」
「遊び? 違うな。私はただ、あるべきものを『あるべき場所』へ収めに来ただけだ」
ラスティアは政宗から興味を失ったように視線を外し、膝をついて血を吐いているキャルルの前へ、音もなく歩み寄った。
「……ウサギの娘よ。自分の命を削り、魂の摩耗を強引に補填するとは。……愚かだが、その自己犠牲の輝きは、ひどく美しい」
ラスティアの冷たい指先が、キャルルの泥と血に汚れた頬を撫でる。
キャルルは、魔王の絶対的な冷気に震えながらも、その手から逃げようとはしなかった。
いや、逃げる体力が、もう彼女には残されていなかった。
「だが、お前の命の炎など、私の絶望の前では蝋燭の火に等しい。……このまま回復を続ければ、あと数分でお前の魂は燃え尽き、結局この村の人間も全員死ぬ」
ラスティアの言葉は、残酷な事実だった。
キャルル自身、それが分かっていた。自分の治癒力(愛)をどれだけ振り絞っても、どうにもならない次元の暴力が世界には存在するのだと。
「……どうすれば……いいの」
キャルルが、掠れた声で尋ねる。
「私のものになれ」
ラスティアが、ふわりと微笑んだ。
一切の温もりのない、冷たく、完璧に美しい支配者の笑み。
「お前の魂の全てを私に明け渡し、永遠の忠誠を誓う『魂の隷属契約』を結べ。……お前が私の『所有物』になるというのなら、その対価として、この村に落とした私の悲しみ(瘴気)は永遠に拭い去ってやろう」
ラスティアの指先から、赤黒い魔力で編み込まれた一枚の『羊皮紙』が空中に展開された。
魔族の絶対誓約。一度サインすれば、死すら許されず、魂の底まで魔王の意のままに操られる、究極の奴隷契約書。
「——だめだッ!!」
地面に顔を押し付けられていた政宗が、血を吐くような絶叫を上げた。
「キャルル! それに触るな! 触ったらお前は……お前じゃなくなる! そんなの、死ぬより……ッ!」
政宗は、自分にのしかかる魔王の重圧に逆らい、指先の爪が剥がれるのも構わず、石畳を掻き毟って前へ進もうとする。
「俺が……! 俺が、どうにかしてやる! 全財産投げ打ってでも、必ず別の方法を……っ! だから、お前が犠牲になる必要は——」
「……政宗くん」
キャルルが、ゆっくりと振り返った。
その顔は、血の気が引き、ボロボロだったが。
彼女の瞳には、かつて政宗が『不思議の国のアリス』のハッキングから村を救った時と同じような、純粋で、ひどく穏やかな光が宿っていた。
「……だめだよ、政宗くん。今は、政宗くんの『算盤』、壊れちゃってるもん」
「……っ!」
その言葉が、政宗の心臓を物理的に抉り取った。
「政宗くんは、今までずっと、その算盤で私やみんなを守ってくれた。……だから、今度は私の番」
キャルルは、うつ伏せで倒れている信長や、村人たちを見た。
そして、自分を絶望の底から助け出してくれた、血まみれになって這いつくばっている不器用な商社マンの顔を、愛おしそうに見つめた。
「誰も死なせないよ。……檻の中でだって、私は絶対に『心』まで渡したりしないから」
キャルルは、震える右手を伸ばした。
そして、ためらいなく、空中に浮かぶ赤黒い羊皮紙の契約書へと、自らの血に染まった親指を押し当てた。
ジュゥゥゥゥッ!!
肉の焼けるような音と共に、キャルルの首筋に『漆黒の鎖』の紋様が浮かび上がり、皮膚に焼き付いた。
同時に、ポポロ村を覆っていた重く冷たい瘴気が、嘘のようにスッと霧散していく。
村人たちの顔に赤みが戻り、彼らの魂の摩耗が止まったのだ。
「……あはっ。ああ、美しい……!」
ラスティアが、歓喜の産声を上げた。
彼女の背後で空間が割れ、アバロン皇国へと続く暗黒の門が開く。
「さあ、帰ろう、私の愛おしい小鳥。……永久に終わらない、退屈な箱庭遊びの始まりだ」
ラスティアの魔力に引かれ、キャルルの体がフワリと宙に浮き、ゲートの中へと引き寄せられていく。
「キャルル……! 待て……待てェェッ!!」
政宗の重圧が解けた。
彼は弾かれたように立ち上がり、ゲートの中へ消えていくキャルルの腕を掴もうと、必死に手を伸ばした。
だが。
わずか数ミリ。
政宗の指先は、キャルルの衣服の端を掠め——。
「政宗くん。……ポポロ村のこと、お願いね」
最後に残された、悲しげなウサギの微笑み。
バァンッ!!
空間のゲートが、無情な音を立てて完全に閉ざされた。
「…………ああ、ぁぁ」
政宗の伸ばした手は、何もない虚空を掴んでいた。
彼の足元には、キャルルのポケットからこぼれ落ちた、一枚の『人参柄のハンカチ』だけが落ちている。
世界を買収し、大国をひざまずかせた彼が、たった一人、どうしても守りたかった少女。
それが今、資本もロジックも通じない『魔法』という不条理によって、完全に奪い去られた。
「あ……あああああああアアアァァァァァァッ!!!」
ポポロ村の広場に、全てを失った男の、獣のような慟哭が響き渡った。
絶対の算盤は砕け散り、彼に残されたのは、血塗られた両手と、ちっぽけなハンカチ一枚だけだった。




