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翌日は快晴だった。晴れた空の下、いつもと変わらない一日が始まった。ほとんど日の出と同時に目を覚ましたロランは、父を起こさないよう気をつけながら外に出た。家の周りを軽く掃除し、井戸から汲んできた水を家の瓶に入れる。家畜に餌をやり、その帰りに容器に入れた乳と卵を運ぶ。父が起きてくる前に朝食の支度をし、父が食べている間に農具の用意をする。父が家を出た後、朝食の残りを腹に収め、それからロランは、山菜の採集のため家を出た。
村の中を歩くロランは、村の空気が昨日よりも軽くなっていることに気がついた。畑で仕事をする男たちや、家畜の世話をする女たちの表情は、昨日までよりも柔らかくなっている。ロランを追い越し森に向かおうとしている子供たちは、明るく騒がしい声を出していた。
(巡視隊が来たお陰なのかな)
ロランの予想とは違い、村の空気は改善されているようだった。弛緩していると言い換えてもよいぐらいだ。本来なら午前の班の大人たちが、泥鬼対策のための柵作りを始めていなければいけない時間だ。だのに、その音も今日は聞こえてきていない。巡視隊が来たことで安心し、自分の家の仕事を優先してしまっているのだろう。巡視隊のテントが村の外にあることもあり、柵の内側はまるで、泥鬼が現れる前に戻ったかのようであった。
(よいことなんだろうな……)
不安や恐怖から解放されたのはよいことなのだろう。だがロランは、この安心感に危ういものを感じていた。村に来た巡視隊は一小隊。騎兵の数は大隊長を含めても三十しかない。テルナがたとえ優秀な大隊長であったとしても、わずか二十九の騎兵で森に潜む泥鬼を一掃するのは至難の業だろう。正確な数も、住処も判明していないのなら尚更だ。必ず何体かは逃がしてしまうはずである。その逃げた泥鬼が、もし村にやってきたら……そのときの恐怖と混乱が、ロランには容易に想像できた。
(……恐怖と混乱)
なにかが心に引っかかり、ロランはその場で足を止めた。視線を巡らし、村の中を、柵の内側を見回す。昨日までと違い、空気の軽くなった村。巡視隊が来たことで安心した村人たち。その頼みの巡視隊は、泥鬼討伐のため森を進んでいる。もし今村が襲われたら、大変な惨事になるだろう。一度気を緩めただけに、恐怖はいや増し、大きな混乱を生むはずだ。巡視隊は村を離れ、助けにはならず、それが更なる絶望になる……もし、誰かがそれを企んでいたとしたら? クベック村の人々を恐怖に陥れることを目的としているモノがいるとしたら?
(まさか……まさかそんなことは……)
だがそう考えれば、不自然な泥鬼の行動にも説明がつくことに、ロランは気づいた。村を襲わず、森に来た村人も殺すことはなかった泥鬼。森にはあれほど泥鬼に食われた動物の死骸があったというのに、なぜ人間だけは逃がしていたのか。獲物であるはずの人間を殺さず、まるで森に巡視隊を誘き寄せるような真似をしたのはなぜなのか。それを企んでいるモノがいると考えれば、その説明がつくのだ。
(でも泥鬼に、そんなことを考える知恵はない……)
泥鬼は低級の魔物だ。力は強いが、知能は人間よりも劣る。遠回しな作戦を考えられるような知恵はない。もしロランの想像が当たっているのなら、泥鬼とは別に今回のことを企んだモノがいるはずだった。泥鬼を操れるような上位の魔物で、人の恐怖や不安、絶望等を望むモノが……。
(考えられるのは……)
口中にたまった唾を、ロランは飲み込んだ。自分の想像を、そんなはずはないと否定しようとする。だが、一度思い浮かんだ考えは消えてくれない。頭の中で勝手に、形になろうとしていた。
(人の恐怖や不安を食らうような……)
ロランがそう思ったのと、天を裂くような咆哮が聞こえたのは同時だった。
(……悪鬼邪竜だ)
巨大な咆哮に、村人たちは体の動きを奪われていた。一瞬で硬直し、表情を強張らせている。咆哮の余韻が消えると、恐る恐るといった体で首を動かし、不安げに森の方に顔を向けた。そこでまた咆哮が響いた。遠く森の中から響き渡る咆哮が、村を囲む柵を大きく震わせる。泥鬼対策のために作られた高い高い柵は、まるで壁のように見えた。その壁は告げていた。逃げ場はないと。
また咆哮が聞こえた。それと重なるように、誰かの悲鳴が辺りに響き渡った。村人の悲鳴にロランは正気を取り戻し、慌てて周囲を見回す。遠く、未完成の柵の隙間から、泥鬼が村の中に入り込んできているのが見えた。人型の汚泥の化け物は、身軽に土の上を駆け、早くも近くの村人に襲いかかっていた。長い爪が振るわれ、その一撃で村人は倒れた。それきりもう体は動かない。泥鬼が側に座り込み、汚い泥団子のような頭が近づいていっても、倒れた村人はもう動かなかった。
あっけなく、一人の村人が死んだ。泥鬼に殺された。それを周りの村人たちは、ただ眺めているだけだった。恐怖に足がすくんでいるのか、逃げ出そうとする者はいない。動けず立ち尽くしたままだ。その人々の間を、悲鳴や泣き声だけが駆け抜けていく。
そんな村人たちを泥鬼が慮ってくれるわけもない。柵の隙間から次々と泥鬼は村の中に入り込み、自分の獲物を見つけると嬉々とした動きを見せた。はしゃぐように地面を駆け、硬直したままの村人に飛びかかろうとし、
「逃げろぉー!」
ロランの叫びが、村人たちに動きを取り戻させていた。自分が出した悲鳴を追いかけるように、慌ててその場から駆け出す。半ば転びながらも足を進め、辛うじて泥鬼の爪を避けていた。
「早く! みんな逃げて、早く!」
ロランは叫びながら道を駆けた。村人に向かって怒鳴り声を上げ、逃げるよう促す。
(くそっ、でもどこへ……!)
周りの様子を見、ロランは苦渋に顔を歪めた。逃げ道がないことにすぐに気づいたのだ。高い高い柵は、今はまさに壁となっている。泥鬼の侵入を防ぐために作っていた柵が、泥鬼から逃げることを妨げる壁になってしまっていた。その上未完成の柵の隙間からは、泥鬼が入り込んできているのだ。逃げ道はどこにもなかった。
(どうしよう……どうすればいいっ……)
焦る心を必死に宥めながら、ロランはどうすればいいのかを考えていた。逃げ道がないのなら、村の建物に立てこもるしかない。泥鬼に備えて、家や家畜小屋は補強してあるはずだった。しばらくは持ちこたえられるはずだ。建物にこもり、巡視隊が戻ってくるのを待つ。逃げ道がないのなら、それ以外の選択肢はないだろう。
(巡視隊さえ戻ってくれば、泥鬼はなんとかなるだろうけど……)
問題は、巡視隊がいつ戻ってきてくれるか、だった。森にどれだけ泥鬼がいるかはわからないが、今村を襲っている数よりも少ないということはないだろう。その上、泥鬼を操っている悪鬼邪竜もいるのだ。わずか三十の騎兵で、悪鬼邪竜を倒せるのか。仮に倒せたとしても、クベック村に戻ってくることはできるのか……。
『ロラン、君の不安は理解できる。それに対し、安心しろなどとは言えない……だがロラン、君はその不安に耐えなくてはならない。泥鬼の討伐は私に任された。私はその任務を遂行する。そして村人は、その間耐えるのが務めだ』
『ロラン、君は賢い。とても聡い子だ。だが……君は子供だ。いくら賢くとも、泥鬼と戦うことはできない。いくら聡くとも、村を守ることはできない。ロラン、子供の君にできることは、村人と一緒に待ち、耐えることだけだ』
ロランの脳裏を、テルナの言葉がよぎった。不安に耐えなくてはならない。耐えるのが務め。子供の君にできることは、村人と一緒に待ち、耐えることだけだ……。
「……この状況で、ただ待っているだけなんてできるわけないだろ!」
叫び、ロランは足を速めた。走りながら、新たな言葉を叫んでいた。
「みんな、建物の中に逃げ込むんだ! 出入り口を封じれば、泥鬼は入ってこれない!」
叫び、村人を促す。半分余所者のロラン、それに子供の自分の言葉に、村人が従ってくれるかはわからない。でも今は、そう叫んで走るしかなかった。
「ロラン! てめえなに勝手なことを言ってんだ!」
叫びと同時に、ロランは誰かに殴られていた。突然の衝撃に抵抗できず、ロランはその場で転んでしまう。
見上げれば、睨みつけてくるガスと目が合った。
「化け物が村を襲ってんだぞ! 巡視隊だっていねえんだ! 村から逃げなきゃみんな殺されちまう! バカなこと言う前に周りを見てみろよっ、この頭でっかちの町野郎!」
ガスは頭を掻きむしりながら叫んでいた。恐怖と混乱で取り乱しながら、それでもロランを睨み続けている。その様子に、ロランの頭に血が上った。
「ガスこそ周りを見てみろよ!」
ロランは立ち上がって怒鳴り、ガスの体を両手で突いた。十歳の、それも体格には恵まれていないロランの腕だ。ガスの体を突き飛ばすことなどできない。それでも、ガスがロランの反撃を予想していなかったためだろう、勢いに押されるように、ガスは数歩後退っていた。
「よく見ろよ! 逃げ道なんてどこにもないだろ! 柵に囲まれ、隙間から泥鬼が入ってきていて、いったいどこから村の外に逃げろって言うんだよ!」
後ろに下がったガスに詰め寄り、ロランは背伸びをしてその襟元を掴んだ。目を見張るガスに向かって、更に言葉を続けた。
「逃げ道がないんなら、建物に立てこもるしかない! 出入り口を塞いで、鋤や鍬で牽制して、なんとか立てこもるんだ。泥鬼には火をつけるような知恵はない。中に入り込まれなければ、なんとか助かるはずなんだ!」
予想外のロランの迫力に、ガスは力なく、モゴモゴと口を動かした。
「だ、だけどよ……それだっていつまでももたねえだろ……いつかはこっちの力が尽きて、入り込まれちまう……」
「その前に、僕が巡視隊を呼んでくる」
言って、ロランはガスから手を離した。ロランの言葉に絶句するガスに向かって、同じ言葉を繰り返す。
「僕が巡視隊を呼んでくる」
言い終わると同時に、ロランは走り出した。
「だから、村の人たちの避難をお願い!」
立ち尽くすガスに向かって言い、後はもう振り向かず、ロランは駆けた。視線は真っ直ぐ、目の前の柵へ、その隙間から入り込んでくる泥鬼へ向けられていた。
走るロランの脳裏に、テルナの言葉が甦った。耐えるのが務め。子供はただ待つしかない。その言葉を振り切るように、ロランは足を速めた。
(ただ耐えるだけなんて、待つだけなんて、僕にはできない……そんなのはもう、僕は嫌なんだ!)
心中でロランは叫んだ。ただ耐えるだけなのは、待つだけなのはもううんざりだと思った。
ずっと、この村でロランは耐えてきた。余所者のような扱いにも、父の暴力にも。仕方ないと諦めて、心が麻痺してしまうまで一人で耐えてきたのだ。その結果、自分はなにも変えられず、苦痛はずっと続くことになってしまった。
今も同じだろう。テルナの言うとおり、ただ耐えているだけでは、待っているだけではなにも変えられない。泥鬼は村を蹂躙し、やがて悪鬼邪竜にも襲われ、巡視隊も間に合わずに自分たちは死んでしまうだろう。そんなのは嫌だと、ロランは思った。だから動かなければ、戦わなければと、ロランは思ったのだ。
「うわあぁぁぁ!」
叫びながら、ロランは泥鬼の群れに突っ込んでいった。近づく獲物に、泥鬼が目鼻も判然としない顔を向けた。まるでロランを歓迎するかのように腕が振り上げられ、
「うわあぁぁぁ!」
それが振り下ろされるよりも先に、ロランは自ら地面を転がっていた。両手で頭を庇いながら、泥鬼の足下を転がっていく。全身を擦る土の痛みに耐え、爪が振り下ろされないことを祈りながら、ロランは大地を転がった。
回転する視界から泥鬼の足がなくなると同時に、ロランは起き上がった。手で地面を叩き、勢いを殺さずそのまま駆け出す。柵の隙間を抜け、ロランは森の中に入っていた。泥鬼の群れを抜けられた。村の外に出ることができた。そのことを喜び、
「うあっ!」
そんな気持ちを嘲笑うように、鋭い痛みが右足に走った。痛みと衝撃に悲鳴をあげ、ロランはその場で転んでしまう。受け身などとれず、全身を地面に打ちつけた。痛みのあまり、意識が朦朧としてしまう。それでもどうにか手を突いて、上体を起こす。持ち上がった視界に、泥鬼の足が見えた。泥を棒状に固めたような足。それを辿って視線を上げていくと、汚れた沼のような胴体が見え、その上の泥団子のような頭に行き着いた。間近で見れば、その泥団子にも目や鼻、口が存在することに気づく。腐った葉っぱのような汚れが恐らく目だ。その下の窪みが鼻で、弾けたばかりの泡を想像させる穴が口だろう。迫る異形の顔を、どこか遠くの出来事のように見つめた。
泥鬼の腕がゆっくりと振り上げられた。広げられた手の指には、長い爪がついている。軽く振り下ろされただけで、自分の体など簡単に切り裂かれてしまうだろう。鈍った頭で他人事のように考え、醜い泥鬼の頭を見つめ、
「……え?」
鈍い音とともに、泥鬼の額から突き出た銀色が、ロランを正気に戻した。はっきりした意識で、間近の泥鬼の顔を見つめた。その頭を貫いた矢尻。それは見覚えのある矢尻だった。
泥鬼の体から力が抜け、ロランの体を掠めるように倒れた。その向こうに立つ男の姿が、ロランの瞳に映った。
長大な弓を構え、森の中に立つ男は、グリークだった。




