第08話:訓練開始 其の一
――行縢の朝は、鳥の声から始まる。
午前六時。
目覚まし時計が鳴るより少し早く、白雪姫はぱちりと目を覚ました。
「……ん」
二段ベッドの下段。天井代わりの板の裏が、視界いっぱいに広がっている。
(……あ、そっか)
一瞬、自分がどこにいるのか分からなくなった。
けれど、鼻先をかすめる杉の匂いと、少し硬いマットレスの感触が、昨日の出来事を思い出させてくれる。
(私、今日からここで暮らすんやったね)
窓の外では、森の小鳥たちがけたたましく鳴き交わしていた。
白雪姫はゆっくりと身体を起こし、小さく欠伸をひとつ。
――さて、と。
やることは、いくつかある。
❆
まずは、洗面所へ。
鏡に映るのは、寝癖のついた真っ白な髪の少女。
(……この髪、寝癖が目立つっちゃよねぇ)
冷たい水で顔を洗い、丁寧に歯を磨く。
部屋に戻ると、昨日教わったルール通り、使ったシーツと枕カバーを外して畳んだ。
角を合わせて、四つに。
それを抱えて、廊下の指定の回収場所まで運ぶ。
(……なんか、旅館の朝みたい)
持ってきた私服に着替える。
アイボリーのブラウスに、淡い桜色のカーディガン。
――半年前、母と一緒に買った服だ。
「…………」
ほんの少しだけ、袖口を握って。
それから白雪姫は、鍵を持って部屋を出た。
❆
二階の食堂には、朝の光がまっすぐに差し込んでいた。
だだっ広いフロアに、人影はない。
「……おはようございます」
厨房のカウンターに声をかけると、中から昨夜の女性が顔を出した。
「あら、おはよう! 早いのねぇ。よく眠れた?」
「はい。おかげさまで」
「そう、よかった。はい、朝ごはんね」
受け取ったトレーには、焼き魚と味噌汁、それに艶やかな白米。
絵に描いたような和食の朝ごはんだった。
白雪姫はトレーを抱えて、ぐるりと広い食堂を見回す。
翠織は、まだ来ていないらしい。
――どこに座ろう。
というより、空いている席しかない。
少し迷った末、窓際の、山がよく見える席を選んだ。
「いただきます」
味噌汁をひとくち。
じんわりとした温かさが、身体の内側に染みていく。
――と、そこで食堂の扉が開いた。
「あら。おはよう、白雪姫ちゃん。早起きね」
「あ、先生。おはようございます」
慌てて口の中のものを飲み込む白雪姫に、翠織はくすりと笑って向かいの席に腰を下ろした。
「食事中にごめんなさいね。今日の予定だけ、先に伝えておくわ」
「はい」
「まず、午前中に蒼波ちゃんがご両親と一緒に到着するわ」
「……はい」
箸を持つ手に、少しだけ力がこもった。
「それと、あなたたちの荷物を入れるタンスが、今日届く予定なの。小さいのが二つね」
「あ、昨日おっしゃってた……」
「ええ。届くまでは、お部屋で待機していてちょうだい」
「わかりました」
❆
部屋に戻り、畳の間に折りたたみテーブルを広げる。
やることはある。
中学に上がったばかりとはいえ、教科書はもう配られているし、明後日からは本格的な授業だ。
シャーペンを走らせながら、白雪姫は時々窓の外を見た。
行縢山の岩壁が、朝の光を受けて白く光っている。
(……蒼波さん、何時ごろ来るっちゃろ)
――集中できていなかった。
❆
午前十時を少し過ぎた頃。
コン、コン。
「白雪姫ちゃん、入るわよ」
「あ、はい」
扉を開けると、廊下に木製の小型タンスが二台、並べて置かれていた。
新品らしく、木の匂いがする。
「タンスが届いたわ。ひとつは、この部屋に運びましょう」
「あっ、はい! 私、運びます!」
――お世話になっている以上、自分の物くらいは自分で。
そう思って、白雪姫はタンスの端に手をかけた。
ぐっ、と踏ん張る。
「……ん、しょ……っ」
――びくともしない。
「……っ、ん、んぬぅ……っ」
(お、重い……⁉)
中身は空のはずなのに、無垢材のタンスはずっしりと重かった。
十二歳の、しかも背丈が百四十センチと平均より少し低い女の子に持ち上がる代物ではない。
「ふふっ。無理しなくていいのよ」
「で、でも、先生一人じゃ……」
翠織は片手をタンスの底に添えると。
「――よいしょ」
ひょい、と。
まるで、床に落ちたハンカチでも拾うような手軽さで、それを持ち上げてしまった。
「…………え」
そのまま軽やかに部屋へ入り、壁際にトン、と静かに下ろす。
白雪姫は、口を半開きにしたまま固まっていた。
「……せ、先生。すごく力持ちなんですね……⁉」
「ふふ。まあ、これくらいなら霊力を使えば朝飯前よ」
「れいりょく……?」
また、その言葉だ。
昨日も、一昨日も聞いた。
けれど、白雪姫には、いまだにそれが何なのか分かっていない。
「その顔ね」
翠織は肩をすくめた。
「大丈夫。今日、たっぷり教えてあげるわ。……それより、もう一台のタンスだけど」
彼女は廊下に残ったもう一つに目をやった。
「これは蒼波ちゃんの分。あの子がどの部屋を使うか決まってから運びましょう」
「そうですね」
「とりあえず、壁際に寄せておくわ」
❆
――そして、十一時三十分を少し過ぎた頃。
再び、部屋の扉が叩かれた。
「白雪姫ちゃん。蒼波ちゃんが到着したわよ」
「――っ」
どくん、と心臓が跳ねた。
「……は、はいっ」
シャーペンを置いて、白雪姫は立ち上がる。
(……落ち着け、私)
昨日、お風呂の中でさんざん悩んだのに、結局答えは出ていない。
どんな顔で。
どんな言葉で。
手のひらに、じんわりと汗が滲んでいた。
❆
一階のエントランス。
自動ドアの向こうに、見慣れた制服――ではなく、見慣れない私服姿の蒼波が立っていた。
その隣には、彼女を送ってきたらしい両親の姿。
翠織はすっと背筋を伸ばすと――
「――こんにちは、古閑さん。この度、受け入れを担当させていただきます、八雲と申します」
――声のトーンが、ワントーン高くなった。
(……先生の声が、違う)
白雪姫に向ける穏やかな口調とはまるで別人だ。
背筋の伸びた、完璧な社会人の応対である。
「こんにちは、八雲さん。こちらこそ、娘がお世話になります」
「遠いところをありがとうございます。手続きの書類なのですが――」
大人たちの会話が、広いエントランスに反響しながら続いていく。
――その、輪の外側。
白雪姫は、ぽつんと立っている蒼波の隣へと歩み寄った。
「……蒼波さん」
「あ……白雪姫さん」
振り返った蒼波は、少しだけぎこちなく笑った。
「よろしくね。今日から……その、同じ施設で」
「うん。……よろしく」
大人たちの声が、天井に響いている。
そのおかげで、二人の周りにだけ、不思議と静かな空間ができていた。
(……今なら、聞こえん)
白雪姫は、声を落とした。
「あのね、蒼波さん」
「うん?」
「……よろしくねってだけじゃなくて。言っておきたいことが、あって」
「え……?」
「私、知ってるの」
蒼波の琥珀色の瞳が、揺れた。
「翠織先生に、頼まれたっちゃろ? 私と仲良くしなさいって」
「……っ」
蒼波の表情が、強張る。
視線が、床へ落ちた。
「……ごめん」
小さな声だった。
「ほんとに、ごめんね。うち、白雪姫さんのこと、騙すみたいな……」
「ううん。違うの」
白雪姫は首を振った。
「怒ってるわけじゃなくて……。ただ――そういう義務的なのじゃなくて」
言葉を探しながら、白雪姫は続けた。
「私、蒼波さんとは、ちゃんと話せるようになりたいなって、思ってるから」
「…………」
「だから、その。……えっと」
――こういう時、うまく喋れない。
顔が熱くなってきた。
それでも白雪姫は、まっすぐに蒼波を見た。
「今度からは、言いたいこととか、嫌やなって思うことは。……ちゃんと、言ってほしいなって」
蒼波は、しばらく黙っていた。
それから、握りしめていた拳から、ゆっくりと力を抜いて。
「……うん」
小さく、笑った。
「ありがとう、白雪姫さん」
――ふと、白雪姫は気づいた。
大人たちの声が、必要以上に大きいことに。
書類の確認くらい、あんな声量でしなくてもいいはずだ。
(……もしかして、先生)
わざと、なのだろうか。
自分たち二人が、話せるように。
ちらりと見上げた翠織の横顔は、両親に向かって完璧な営業スマイルを浮かべているだけだった。
❆
「――さて、蒼波ちゃん」
話が一段落したところで、翠織が二人のほうへ歩み寄ってきた。
「お部屋のことなんだけど。白雪姫ちゃんとは別のお部屋も用意できるわ。どうする?」
――一瞬の間。
「いえ」
蒼波は、迷いなく答えた。
「白雪姫さんと、同じ部屋がいいです」
「えっ⁉」
思わず、白雪姫のほうが声を上げてしまった。
(い、いま! 嫌なことは言ってって、言ったばっかりやのに!)
慌てる白雪姫をよそに、翠織は満足げに口元を緩める。
「そう。じゃあ、同室にしましょう」
「はい」
「ご両親へのご挨拶が終わったら、お部屋に向かってちょうだい。……準備が整ったら、私の部屋に来てね」
❆
――カチャリ。
部屋の扉を閉めると、二人きりの静寂が訪れた。
蒼波はキャリーケースを畳の間に置き、ぐるりと部屋を見回している。
「うわ、広い……。ほんとに二人で使っていいと?」
「うん、いいみたい。……あの、蒼波さん」
「なあに?」
「本当に、私と同じ部屋でよかったの?」
白雪姫は、指をもじもじと絡ませた。
「その……無理、してない? さっき、あんなこと言った直後やったし……」
すると蒼波は、ふるふると首を振った。
「無理なんかじゃないよ」
「でも」
「本当に、そうしたいと思ったの」
蒼波はまっすぐに、白雪姫の白い瞳を見つめ返した。
「うちも、白雪姫さんとは友達になりたいって、思ってるから」
「……えっ」
――ん?
(……私、も……?)
ひとつ、引っかかった。
「あの、蒼波さん」
「うん?」
「今、〝私も〟って言った?」
「言ったけど」
「私……蒼波さんに、友達になりたいって、直接言ったこと……あったっけ?」
――ぴたり、と。
蒼波の動きが止まった。
そして、ぽっと頬を赤らめて、視線を泳がせる。
「あー……えっと、それはね」
「うん」
「学校で話した日の夜、うちに翠織先生から電話がかかってきて」
「電話?」
「うん。……無茶を言ってごめんなさいって、謝られたと」
「……はあ」
「それでね、その時に、先生が言ってたの」
蒼波は、悪戯っぽく口の端を上げた。
「――白雪姫ちゃんが真剣な顔で、〝蒼波さんとちゃんと友達になりたいんです〟って言っていたわよ――って」
「――――っ⁉」
蒼波が翠織の真似をしながらそう言うと、ぼんっ、と。
白雪姫の顔が、一瞬で真っ赤に染まった。
「せ、先生ぇ……⁉」
車の中で、あんなに真剣に訴えたあの言葉が。
まさか、当日のうちに、本人にそのまま伝わっていたなんて。
「うう……恥ずかしい……」
両手で顔を覆う白雪姫に、蒼波はくすくすと笑った。
「でもうちね」
「……うん」
「それを聞いたとき、すっごく嬉しかったんよ」
「……っ」
指の隙間から、そっと蒼波を見る。
彼女は、心の底からそう思っているという顔で、笑っていた。
(……ま、まあ)
白雪姫は、こほんと咳払いをした。
(喜んでくれたなら……よし、とします)
その後、二人は廊下からもう一台のタンスを運び込んだ。
二人がかりでも、なかなかの重労働だった。
「せーの……っ、う、うわっ、重い!」
「ちょ、白雪姫さん、指! 指はさまる!」
どのベッドを使うか。
荷物をどう分けるか。
そんなことを一つずつ相談しながら決めていく時間は、白雪姫にとって、生まれて初めての経験だった。
❆
準備を終えた二人は、翠織と合流し、昼食のために食堂へ向かった。
今日のメニューは、かつ丼だ。
出汁と卵の甘い香りが、食堂いっぱいに広がっている。
「……あの、これって、どこで受け取るん?」
トレーを前に、蒼波がきょろきょろと辺りを見回していた。
「あ、そこのカウンターだよ。……蒼波さん、こういうところ初めて?」
「う、うん。うちはお寺やから、こういう施設に泊まったことなくて」
(……へえ)
いつも落ち着いていて、何でもそつなくこなす蒼波。
そんな彼女が、配膳カウンターの前で戸惑っている。
「ここって小学生の夏休みとかに、よくお泊りのイベントとかあったっちゃけど、それにも参加せんかったっちゃね」
「う、うん」
(蒼波さんにも、こういう一面があるっちゃ)
なんだか微笑ましくて、白雪姫はそっと口元を緩めた。
❆
昼食を終えると、翠織は二人を建物の外へと連れ出した。
向かった先は、野外運動広場。
青い空。
青々と茂る芝生。
それを取り囲む、行縢の深い森。
風が心地よく吹き抜けていく。
「さあ、ここからよ」
翠織が腕を組み、二人に向き直った。
その表情は、もう〝先生〟のものだった。
「今日から、本格的に神子としての指導を始めるわ」
「「はい」」
「まずは基礎知識から。……そうね、蒼波ちゃん」
「はい」
「あなたはもう私の指導を受けているんだから、あなたから白雪姫ちゃんに説明してくれる?」
「わかりました」
蒼波が一歩前に出る。
昨日翠織から聞いた話は、あくまでざっくりとした概要だった。
白雪姫は姿勢を正して、彼女の言葉に耳を傾けた。
「まずは、〝神子〟とは何か――というところから」
「確か……〝神の子〟……って書くんだよね?」
それは以前に翠織から聞いた。
「うん。大昔、この世界にも神様はいたの。その神様の力を一部受け継いだ存在……それが神子」
蒼波は、習ったことを、自分なりに噛み砕いて説明していく。。
「それはうちみたいに、神社やお寺の家系に生まれた子だったり、その関係者だったり……偶に、一般の人の間に生まれることもあるんだ」
「へえ……でも、私は神社やお寺が家じゃないし、生まれた時から――でもないし、どっちになるの?」
「それは――」
と、回答に困った蒼波は翠織の方を見る。
「そうね……。確かに白雪姫ちゃんは、私が知る限り、後から神子になった初めての人間――ということになるでしょうね。後から神子になったということは――神子の力を扱えるように〝魂〟が変化した――ということだから、普通はあり得ないもの。魂は生まれた時点でその形や性質は変わらない……はず、だからね」
「魂……前にも言ってましたね」
魂は、霊力や魔力の入れ物である――と言う話は聞いている。
「そうね、それじゃあ次はそこの話ね、蒼波ちゃん」
「はい――それじゃあ、〝魂〟の話をするね」
「魂……」
「うん。漫画とかゲームにもよく出てくるやろ? だからイメージはしやすいと思う」
蒼波は、ゆっくりと言葉を選びながら続けた。
「魂っていうのは、生命力そのものである〝霊力〟や〝魔力〟を入れておく、器のことなの」
「器……入れ物、ってこと?」
「そう。まあ、それには記憶とか、感情とか、そういったものも入っているらしいっちゃけど、この話は一旦省くわ。……じゃあ次に、その中身の話ね」
蒼波は指を一本立てた。
「まず〝魔力〟。これも創作でおなじみやね。魔術や魔法を使うためのエネルギーのこと」
「うん、それは分かる」
「それだけやなくて――〝魔物〟たちの生命力でもあるの」
「……っ」
あの、白目を剥いた黒い獣の姿が脳裏をよぎる。
白雪姫は、思わず自分の腕をさすった。
「大丈夫?」
「……うん。続けて」
「じゃあ、次に〝霊力〟」
蒼波は、二本目の指を立てた。
「これは、人間も含めて、魔物以外のあらゆる生き物が生まれつき持っている生命力のこと。……これが完全に尽きたら、生き物は死んでしまう。尽きるといっても、少しでも残っていれば回復できるっちゃけどね」
「生命力……」
「うん。でも逆に言えば――これを自在に扱えるようになれば、すごい力を発揮できるってこと」
(……あ)
そこで白雪姫は、今朝の光景を思い出した。
――これくらいなら霊力を使えば朝飯前よ。
片手でタンスを持ち上げた、あの細腕。
(あれも、霊力……)
バラバラだった知識が、少しずつ繋がっていく。
「そしてね、ここからが本題」
蒼波の声が、少しだけ真剣味を帯びた。
「神子にとって、この霊力は特別なものなの」
「特別?」
「うん。神子が魂に宿している霊力は、普通の人間のものとは違ってね。……簡単に言うと、ゲームでいう〝属性〟みたいなものを持ってる」
「属性……」
「ここからは私が補足するわね」
そこで、翠織が会話に入ってきた。
「神子の霊力は、基本的に〝五行〟のいずれかの性質に属しているの」
「ごぎょう……?」
聞き慣れない言葉に、白雪姫は首を傾げた。
「万物を構成する五つの要素のことよ。――木、火、土、金、水」
「もく、か、ど、ごん、すい……?」
「そう。木は、そのへんに生えている木。火は燃える火。土は地面の土」
翠織は、指を折りながら説明していく。
「金は金属。そして水は、川を流れる水のこと」
「……なるほど」
「ちなみに、私は〝木〟の気を持つ神子よ」
「先生が、木……」
「ええ。……で、白雪姫ちゃん。あなた、山道で魔物に襲われた時、手のひらから何を出したんだったかしら?」
「あ……雪、です。……ちょっと氷も混じってたかな……?」
「そう。雪や氷は、水が姿を変えたもの」
翠織は、まっすぐに白雪姫を指さした。
「だからあなたの霊力は――五行のうちの〝水〟に分類されるはずよ」
「水……」
白雪姫は、自分の手のひらを見下ろした。
(……でも)
あの時、この手から溢れたのは、たしかに雪だった。
冷たくて、白くて、凍てつくような。
(水じゃなくて、雪やったのに……属性は〝水〟になるっちゃ)
小さな違和感が、ちくりと胸に残った。
――だが、その正体を確かめる術は、今の白雪姫にはない。
「さあ、次が本題よ」
翠織の声が、一段と引き締まった。
「神子にとって、最も重要なもの。――〝神器〟について」
「じんぎ……? 〝三種の神器〟とか聞いたことあるような……」
「そう、〝八咫鏡〟とか、〝草薙剣〟とか、〝八尺瓊勾玉〟のことね。神器っていうのは、神子が戦うための武器であり、神子の魂そのものに根付いている存在。……そうね、言葉で説明するより――」
翠織はすっと二人から距離を取り、姿勢を正した。
「――見せたほうが早いわね」
そして、彼女は凛とした声で告げた。
「――神器顕現」
――カッ‼
眩い光が、翠織の腕を包み込んだ。
「わっ……⁉」
思わず腕で目を庇う。
光が収まったとき、そこにあったのは――
「……うそ」
一張りの、弓だった。
背丈ほどもある、大きな弓。
金属質の本体には、蔓や葉、あるいは翼を思わせる曲線的な装飾が全面に施され、随所に緑の宝石が埋め込まれている。
――そして、弦がない。
いや。
弦の位置には、緑色に発光する霊力が、一本の線となって張り渡されていた。
それだけではなかった。
翠織の耳元の翡翠のピアスが、妖しく発光している。
焦げ茶色だったはずの瞳が――鮮やかな、エメラルドグリーンへと変わっていた。
「すごい……!」
「……綺麗」
二人は、揃って息を呑んでいた。
「ねえ、蒼波さん」
白雪姫は、こそりと隣に囁いた。
「蒼波さんは、これ見たことある?」
「ううん」
蒼波は、目を輝かせたまま首を振った。
「噂で聞いたことはあったけど……実際に見るのは、うちも初めて」
そして蒼波は、ふと疑問を浮かべたように口を開いた。
「先生。弓はありますけど……矢は、ないんですか?」
「ええ、要らないわ」
翠織は事もなげに答えると、ぐるりと周囲を見回した。
「……あの方角なら安全ね。二人とも、危ないからそこから動かないで」
「え、えっ?」
言うが早いか、翠織は半身を引き、弓を大きく引き絞った。
――何もない、空の弦を。
しかし。
弦を引く指先に、緑色の光が集まっていく。
収束し、細く、鋭く。
――やがてそれは、一本の矢の形を成した。
「……っ!」
ツン、と。
澄んだ音が、広場に響いた。
解き放たれた光の矢は、目にも留まらぬ速度で森の奥へと飛翔し――遥か彼方の木々の間へ吸い込まれて消えた。
「――矢は、霊力で生成するの。だから持ち歩く必要はないわ」
翠織は、澄ました顔で弓を下ろした。
「まあ、無限ってわけじゃないけどね。霊力が尽きれば、当然生成できなくなるわ」
「……あ、あの、先生!」
白雪姫は、真っ青になって手を振り回した。
「そんな、森に向かって撃って大丈夫なんですか⁉ もし誰かに当たったり、山火事になったりしたら……!」
「ふふっ」
あわあわと慌てる白雪姫を見て、翠織はおかしそうに笑った。
「大丈夫よ。ここは霊峰・行縢山の麓だもの」
「霊峰……」
「それに、あなたが襲われた件もあるでしょう? 昨日のうちに、山の結界に敷地の分だけ手を加えておいたの。霊力が外へ漏れないようにね」
「け、結界……」
――結界。
この数日で、白雪姫の常識は何度も塗り替えられてきた。
それでも、目の前でこうも次々と非常識を見せられると、頭がついていかない。
(……ほんとに、私、こんな世界でやっていけるっちゃろか)
思わず遠い目になる白雪姫。
そんな彼女の様子など意に介さず、翠織は弓を光へと還すと、パン、と手を打ち鳴らした。
「さあ、講義はここまで!」
「え」
「ここからは――実践訓練の時間よ」
翠織の瞳が、悪戯っぽく細められる。
「二人とも、覚悟はいいかしら?」
行縢の風が、ざあ、と芝生を撫でていった。
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