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白雪の神子  作者: 日影ヱト
第01章:白雪の少女
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第09話:訓練開始 其の二

 午後の日差しが、少しだけ角度を変えていた。


「――さて」


 翠(み)織(おり)は二人の前に立ち、すっと人差し指を立てた。


「ここからが本番よ。まずは――自分自身の〝霊(れい)力(りょく)〟を感じ取れるようになること」


「感じ取る……?」


「そう。これができないと、何も始まらないの」


 翠(み)織(おり)はゆっくりと歩きながら、指を折り始めた。


「神(み)子(こ)として戦えるようになるには、段階を踏む必要があるわ」


 一本目。


「まず、第一段階――〝感(かん)知(ち)〟。自分の体内と、周囲に満ちている霊力を感じ取ること」


 二本目。


「第二段階――〝制(せい)御(ぎょ)〟。感じ取った霊力を、練る、動かす、留める」


 三本目。


「第三段階――〝出(しゅつ)力(りょく)〟。制御した霊力を、体の外へ放つこと。自分の属性に応じた形になれば、クリアよ」


 そして、四本目。


「第四段階――〝神(じん)器(ぎ)顕(けん)現(げん)〟。魂に根付いた自分だけの武器を、自在に引き出せるようになること」


「……さっきの、弓ですね」


「ええ」


 翠(み)織(おり)は頷いてから、少しだけ苦笑して肩をすくめた。


「本当はこの先にもう一段階あるのだけれど……そっちは運の要素が大きすぎるし、そもそも私自身が到達していないの。だから、教えようがないわ」


「先生でも……?」


「そうよ。私だって、まだ道の途中なの」


 あっさりと言ってのける翠(み)織(おり)に、白雪姫(こゆき)は目を丸くした。


「さあ、まずは第一段階から。二人とも、そこのベンチに座って」


 言われるまま、白雪姫(こゆき)と蒼(あお)波(ば)は木製のベンチに並んで腰を下ろした。


「目を瞑(つむ)りなさい」


 二人は素直に瞼(まぶた)を閉じる。


「意識を、自分の体の内側だけに向けるの。……焦らないで。ゆっくり呼吸をして」


 翠(み)織(おり)の声が、囁(ささや)きに変わる。


「心臓の音。指先の熱。……そして、血液とは違う〝何か〟が体を巡っているイメージを、そっと探してみて」


 ――しん、と。


 広場に、風の音だけが残った。


 白雪姫(こゆき)は、ゆっくりと息を吸い込んだ。


(体の、内側……)


 聞こえるのは、木々の葉擦れ。

 自分の心臓の、規則正しい鼓動。


(温かい、何か……)


 探す。


 探して、探して――


(……分からない)


 何も、ない。


 あるのは、いつも通りの身体だけだ。


 血が流れて、心臓が動いて、肺が膨らんで。


 それ以上の〝何か〟なんて、どこにも見つからない。


(……もう少し、集中せんと)


 眉間に力がこもる。


 じわ、と背中に汗が滲んだ。


 ――そんな白雪姫(こゆき)の隣で。


「……うん。こんな感じ、ですかね」


 蒼(あお)波(ば)が、あっさりと目を開けた。


「え……っ」


 驚いて、白雪姫(こゆき)も目を開ける。


 蒼(あお)波(ば)の全身から、目には見えないほど微細な波が、静かに脈打っているような――そんな気配があった。


「あら。ちゃんと訓練を続けていたのね、蒼(あお)波(ば)ちゃん」


「はい。毎朝、少しずつですけど」


「偉いわ」


 そういえば、と白雪姫(こゆき)は思い出す。


 蒼(あお)波(ば)は幼い頃から翠(み)織(おり)の指導を受けてきたのだ。


 第一段階など、とっくの昔に通り過ぎている。


「じゃあ蒼(あお)波(ば)ちゃんは、第二段階の〝制御〟に進みましょうか。体内の霊力を、体の一部分に集める訓練よ」


「はい」


「白雪姫(こゆき)ちゃんは――焦らなくていいから、引き続き感覚を探してみて」


「……はい」


 白雪姫(こゆき)は、もう一度目を閉じた。





❆





 ――結果から言えば。


 それから数時間が経っても、白雪姫(こゆき)は霊力の欠(か)片(けら)すら掴めなかった。


 太陽が傾き、木々の影が長く伸びていく。


 隣では、蒼(あお)波(ば)が手のひらの上に淡い水の球を浮かべては、崩し、また作り直している。


「……ううん」


 やがて、白雪姫(こゆき)は肩を落とした。


「やっぱり、だめみたいです。……ごめんなさい、先生」


「謝ることじゃないわ」


 翠(み)織(おり)は、きっぱりと首を振った。


「いい? 白雪姫(こゆき)ちゃん。神子として生まれながら、霊力を感知できないまま一生を終える人なんて、いくらでもいるのよ」


「……そうなんですか?」


「というより、そちらのほうが圧倒的に多数なの。力を開花させられる神子のほうが、ずっと稀(まれ)なんだから」


 翠(み)織(おり)は、白雪姫(こゆき)の白い髪をくしゃりと撫でた。


「それに、覚えているでしょう。あなたはあの日、手のひらから雪を出して魔物を吹き飛ばした」


「……はい」


「あれは間違いなく、第三段階の〝出力〟よ。……命の危機が生んだ奇跡かもしれないけれど、できたことに変わりはないわ」


「……はい」


 白雪姫(こゆき)は小さく頷いた。


 ――けれど。


(……でも)


 スカートの裾を、きゅっと握る。


(蒼(あお)波(ば)さんは、あんなにすぐできてるのに)


 自分だけが、何も感じられない。


(私……足を引っ張ってしまうんじゃないっちゃろか)


 膨らんでいく不安を、白雪姫(こゆき)は喉の奥に押し込んだ。




 ――その隣で。


 翠(み)織(おり)の思考は、まったく別のところにあった。


(……気になるのは、そこじゃないのよね)


 彼女の頭を離れないのは、あの日の白雪姫(こゆき)の証言だった。


 ――まるで自分の身体じゃないみたいに、勝手に動いて。


 ――木の棒で、襲ってきたオオカミたちを、叩き切ったような気がするんです。


 本人は――夢みたいな感覚――と曖(あい)昧(まい)に言っていた。


 だが、もしそれが事実なら。


(そこらに落ちていた木の棒に、魔物を斬れるだけの霊力を付与した……?)


 自分の拳や脚。あるいは長年使い込んだ武器。


 そういうものへの霊力付与なら、第二段階を修(おさ)めた神子には難しくない。むしろ戦闘の基本中の基本だ。


 だが、ただの木の棒に対しては話が変わる。


 馴染みもなければ、魂との繋がりもない。


(――そんなもの、霊力が素通りするだけよ)


 第四段階まで到達した翠(み)織(おり)だからこそ、身をもって断言できる。


(私がやろうとしたって、付与に意識を持っていかれて、周囲の警戒すら疎(おろそ)かになる。……そもそも、うまく流れていかないもの)


 それを、訓練も受けていない十二歳の少女が、無意識にやってのけた?


(資質がある、なんて言葉じゃ済まないわ)


 だが。


 ちらり、と目を向ける。


 ベンチの上で、必死に目を閉じている小さな背中。


 第一段階の〝感知〟にすら、届かない少女。


(……ちぐはぐすぎる)


 火事場の馬鹿力、で片付くだろうか。


 ――そこで、翠(み)織(おり)の脳裏に、ひとつの言葉が引っかかった。


 まるで自分の身体じゃないみたいに。


(……自分の、身体じゃない)


 ぞわり、と。


 背筋を、何かが這い上がった。


(まさか。……白雪姫(こゆき)ちゃんの中に、もう一人〝誰か〟がいる……?)


 馬鹿げた発想だ。


 ――だが、そう考えれば、すべての辻褄が合ってしまう。


 人間から神子になった前例のなさ。

 神器を顕現していないのに白いままの髪と瞳。

 尋常ではない霊力量。


 そして、あの夜の異常な戦闘痕。


(……今後の訓練で、慎重に見極める必要があるわね)


 翠(み)織(おり)は、焦げ茶色の瞳を静かに細めた。





❆





「――さあ、今日はここまでにしましょう」


 パン、と翠(み)織(おり)が手を打つと、張り詰めていた空気が一気に緩んだ。


 見上げれば、空はもう茜色に染まっている。


 行(むか)縢(ばき)山の二つの岩壁が、夕日を背負って黒く聳(そび)えていた。


「「ありがとうございました」」


 二人は頭を下げ、汗を拭いながら建物へ戻ろうとする。


 ――が。


「あ、待って。二人とも」


 翠(み)織(おり)が、二人を呼び止めた。


「今夜の夕食はね。……野外で食べましょう」


「え? 野外、ですか?」


 蒼(あお)波(ば)が不思議そうに首を傾げる。


 ――だが。


「……あ」


 白雪姫(こゆき)のほうは、その一言で察してしまった。


(野外炊飯場……)


 脳裏に浮かぶのは、遠い夏の日の景色。


 薪(たきぎ)の爆(は)ぜる音。

 煙に目をこすった父。

 ――辛口にしすぎたね――と笑った母。


 この施設の、いちばんの醍(だい)醐(ご)味(み)。


(……カレー)


 嬉しさと、切なさが、同時に胸に押し寄せてきた。





❆





 三人が向かったのは、東(あずま)屋(や)造りの野外炊飯場だった。


 中央には、コンクリート製の大きなテーブルと、木の長椅子。


 それを取り囲むように、頑丈な竈(かまど)がずらりと並んでいる。


 屋根はあるが、壁はない。夕暮れの風が、心地よく吹き抜けていく。


「はい、これが材料ね。ルウは市販のもので許してちょうだい」


「「はい!」」


 まずは――最大の難関、火起こしである。


「えっと、たしか新聞紙を丸めて置いて……その周りに、細い枝を組んで……」


 白雪姫(こゆき)は記憶を頼りに、恐る恐るマッチを擦った。


 ボッ、と紙が燃え上がる。


 ――が。


 しゅん。


「あ、あれ⁉ 消えた……!」


「あー、多分、木が太すぎるんやない?」


「そっか、細いのからやね……!」


 二人がかりで枝を組み替え、団(うち)扇(わ)で扇ぎ、息を吹き込む。


「ごほっ、けほっ、け、煙が……!」


「白雪姫(こゆき)さん、顔! 顔、真っ黒!」


「蒼(あお)波(ば)さんも!」


 鼻の頭に煤(すす)をつけたまま、二人は顔を見合わせて吹き出した。


 ――パチ、パチ。


 やがて、薪が心地よい音を立て始める。


 小さかった炎が枝を伝い、太い薪へと移り、竈の中で安定した。


「……ついた」


「ついたね」


「――ついた‼」


 二人は、思わず手を取り合ってはしゃいだ。


 少し離れたベンチで、翠(み)織(おり)がおかしそうに笑っている。


 火が安定したら、次は米だ。


 飯(はん)盒(ごう)に米を入れ、冷たい水で研ぐ。何度か水を換え、目盛りまで水を注いで、蓋をしっかり閉める。


 それを竈の上へ。


 そして、具材切り。


「……白雪姫(こゆき)さん、にんじん切るの丁寧やね」


「そ、そうかな。慎重すぎて遅いだけやと思う……」


「うちなんか、大きさバラバラよ」


「蒼(あお)波(ば)さんの切り方、なんか豪快で美味しそう」


「ほんと? じゃあ、じゃがいもも大きめにしよっかな」


「あ、芽は取ってね。あれ、毒があるって聞いたことある」


「えっ、そうやと⁉」


 包丁を握る手つきは、二人ともまるで慣れていない。


 それでも――会話は、驚くほど自然に流れていた。


 昨日まで、あんなにぎこちなかったのに。


 今はもう、ずっと昔から友達だったかのようだ。


 少し離れたベンチで、翠(み)織(おり)はその光景を静かに眺めていた。


(……よかった)


 大人が仕組んだ出会いだったとしても。


 そこから先を作っていくのは、この子たち自身だ。





❆





 やがて。


 炊飯場いっぱいに、カレーの香りが広がった。


「できた……!」


「完成!」


 飯盒の蓋を開けると、ふわりと甘い湯気が立ち上る。


「「「いただきます」」」


 三人で手を合わせ、スプーンを取った。


 ――しゃり。


「……あ」


「……じゃがいも、固いね」


「うん。ちょっと、生っぽい……」


 それに、全体的にほんのり灰の味がする。


 ――けれど。


「ん……! でも、美味しい……っ」


 白雪姫(こゆき)は、目を細めて頬張った。


 そして、飯盒のご飯。


 こちらは驚くほど上手く炊けていた。ふっくらと艶やかで、底には見事なきつね色のおこげまでできている。


「おこげ、おいしい……」


「これは成功やね」


 もぐもぐと口を動かしながら、蒼(あお)波(ば)が真剣な顔で呟いた。


「……じゃがいもは、もっと小さく切って、先に入れて煮込むべきやった。あと肉は、最初に炒めてから……」


「蒼(あお)波(ば)さん、反省会が早い」


「だって、次はもっと美味しくしたいやん」


 ――次は。


 その言葉が、白雪姫(こゆき)の胸にすとんと落ちた。


(……次が、あるんやね)


 スプーンを持つ手が、少しだけ止まる。


 ここは、家族と過ごした思い出の場所だ。


 もう二度と戻らないと思っていた景色。


 ――それが今、新しい誰かとの時間で、そっと上書きされていく。


(お父さん。お母さん)


 寂しさが消えたわけじゃない。


 消えるはずもない。


 それでも。


(私、ちゃんと、ごはん食べちょるよ)


 カレーの温もりが、じんわりと身体の奥へ落ちていった。





❆





 片付けを終える頃には、辺りはすっかり夜になっていた。


 二人は施設へ戻り、汗と煤を流すために大浴場へ向かう。


「ふぁ……気持ちいい……」


「……生き返る」


 広い湯船に並んで浸かると、一日の疲れがじわじわと溶けていく。


 湯気の向こうで、蒼(あお)波(ば)がふと口を開いた。


「白雪姫(こゆき)さん」


「うん?」


「今日の感知の練習ね。……焦らなくていいと思うよ」


「……っ」


 白雪姫(こゆき)は、湯の中でそっと膝を抱えた。


「最初はみんな、できないのが普通やから」


「でも、蒼(あお)波(ば)さんはすぐに……」


「うち?」


 蒼(あお)波(ば)は、けろりと言った。


「うち、感知できるようになるまで、一年かかったよ」


「……えっ⁉」


 思わず、白雪姫(こゆき)は身を起こした。


 ざぶん、とお湯が跳ねる。


「い、一年⁉」


「うん。翠(み)織(おり)先生に見てもらいながら、毎日毎日座って。……ぜんぜん分からなくて、何回も泣いた」


「蒼(あお)波(ば)さんが……?」


「うちも、そんな出(で)来(き)がいいわけじゃないよ」


 蒼(あお)波(ば)は湯を手ですくって、ぱしゃりと落とした。


「だから、一日でできんかったくらいで落ち込まんでいいと」


「…………」


 白雪姫(こゆき)は、隣の横顔をじっと見つめた。


 いつも落ち着いていて、なんでもそつなくこなす女の子。


 その〝そつのなさ〟は、天から降ってきたものではなかったのだ。


(……努力家なんや、蒼(あお)波(ば)さんは)


 胸のつかえが、すっと降りていくのを感じた。


「……ありがとう、蒼(あお)波(ば)さん」


「うん」


「私、諦めないで頑張る」


「……うん」


 湯気の向こうで、蒼(あお)波(ば)が笑った気配がした。


 風呂上がり、脱衣所の鏡の前で。


「そういえば、化粧水ってどれくらいつけるんやろ」


「え、白雪姫(こゆき)さんスキンケアしちょっと?」


「昨日、先生にもらって。……でも、正直よく分かんない」


「うちなんか、何にもしたことないよ」


「えっ、蒼(あお)波(ば)さん、お肌つやつややのに⁉」


「何にもしてないもん」


 二人は顔を見合わせて、くすくすと笑った。


「……今度、先生にお願いして、蒼(あお)波(ば)さんの分も買ってもらおっか」


「そうしよ」





❆





 部屋に戻る頃には、二人ともまぶたが重くなっていた。


「ふぁ……もう、無理……」


「私も……。おやすみなさい、蒼(あお)波(ば)さん」


「おやすみ、白雪姫(こゆき)さん」


 出入り口に近い二段ベッド。

 それぞれの下段に潜り込む。


 昨日はあんなに広く感じた部屋が、今日は少しだけ狭く――そして、あたたかく感じた。


 電気が消える。


 やがて、規則正しい寝息が二つ、静かな部屋に響き始めた。





❆





 ――そして、白雪姫(こゆき)は夢を見た。


 視界いっぱいに、桜が咲いていた。


 どこまでも、どこまでも。


 風が吹くたび、薄紅の花弁が雪のように降り注ぐ。


(……きれい)


 その桜吹雪の中央に、一人の少女が立っていた。


 自分と同じ、真っ白な髪。


 ――けれど、瞳の色が違った。


 透き通るような、桜(さくら)色(いろ)。


「……あなたは」


 白雪姫(こゆき)は、吸い寄せられるように一歩、足を踏み出した。


「誰、ですか。……あれ? 私……?」


 自分と同じ背丈。同じ髪。同じ顔立ち。


 なのに、まとう空気があまりにも違う。


 少女は、その問いには答えなかった。


 ただ静かに歩み寄ると――白雪姫(こゆき)の両手を、そっと包み込んだ。


(……あったかい)


 同じ大きさの手のはずなのに。


 なぜか、ずっと大きく感じた。


「焦る必要はありません」


 鈴を鳴らすような、澄んだ声。


「あなたの魂(たましい)には、あなたが思うよりずっと多くの力が満ちているのですから」


「……ちから」


「ええ」


 少女は、やわらかく微笑んだ。


「どうか、ご自分を信じてください」


 ――桜が、視界を白く塗りつぶしていく。


「……白雪姫(こゆき)」





❆





「……ん……」


 小鳥の声で、白雪姫(こゆき)は目を覚ました。


 カーテンの隙間から、朝の光が細く差し込んでいる。


 隣のベッドでは、蒼(あお)波(ば)がまだ静かな寝息を立てていた。


(……夢、見ちょった気がする)


 起き上がり、軽く頭を振る。


 ――何かとても大切な夢だった気がするのに、輪郭がぼやけて思い出せない。


 覚えているのは、ただ。


(……桜の匂い)


 白雪姫(こゆき)は畳の間へ歩み寄り、そっと窓を開けた。


 ――すう、と。


 ひんやりとした朝の風が、部屋へ流れ込んでくる。


 行縢山の、澄み切った空気。


 思いきり、胸いっぱいに吸い込んだ。


 ――その、瞬間だった。


「――あ」


 白雪姫(こゆき)の目が、大きく見開かれた。


 冷たい風の中に。


 肌をなぞっていく空気の中に。


 ――かすかな、温もりが、あった。


 脈打つように。

 流れるように。


 昨日まで、どれだけ意識を凝らしても感じられなかった〝何か〟が。


 ほんの一瞬。


 たしかに、この肌に触れたのだ。


「…………っ」


 息を、止めた。


 もう一度感じ取ろうと集中してみるが――それはもう、風の中に溶けて消えていた。


 それでも。


「……今の」


 白雪姫(こゆき)は、そっと自分の胸に手を当てた。


 完全な習得までは、まだ遠い。


 あと一歩どころか、二歩も三歩も先かもしれない。


 ――けれど。


(……分かった。今、分かった)


 確かな手応えが、そこにあった。


 窓の外では、朝日を浴びた行縢山が、白く輝いていた。





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