第09話:訓練開始 其の二
午後の日差しが、少しだけ角度を変えていた。
「――さて」
翠織は二人の前に立ち、すっと人差し指を立てた。
「ここからが本番よ。まずは――自分自身の〝霊力〟を感じ取れるようになること」
「感じ取る……?」
「そう。これができないと、何も始まらないの」
翠織はゆっくりと歩きながら、指を折り始めた。
「神子として戦えるようになるには、段階を踏む必要があるわ」
一本目。
「まず、第一段階――〝感知〟。自分の体内と、周囲に満ちている霊力を感じ取ること」
二本目。
「第二段階――〝制御〟。感じ取った霊力を、練る、動かす、留める」
三本目。
「第三段階――〝出力〟。制御した霊力を、体の外へ放つこと。自分の属性に応じた形になれば、クリアよ」
そして、四本目。
「第四段階――〝神器顕現〟。魂に根付いた自分だけの武器を、自在に引き出せるようになること」
「……さっきの、弓ですね」
「ええ」
翠織は頷いてから、少しだけ苦笑して肩をすくめた。
「本当はこの先にもう一段階あるのだけれど……そっちは運の要素が大きすぎるし、そもそも私自身が到達していないの。だから、教えようがないわ」
「先生でも……?」
「そうよ。私だって、まだ道の途中なの」
あっさりと言ってのける翠織に、白雪姫は目を丸くした。
「さあ、まずは第一段階から。二人とも、そこのベンチに座って」
言われるまま、白雪姫と蒼波は木製のベンチに並んで腰を下ろした。
「目を瞑りなさい」
二人は素直に瞼を閉じる。
「意識を、自分の体の内側だけに向けるの。……焦らないで。ゆっくり呼吸をして」
翠織の声が、囁きに変わる。
「心臓の音。指先の熱。……そして、血液とは違う〝何か〟が体を巡っているイメージを、そっと探してみて」
――しん、と。
広場に、風の音だけが残った。
白雪姫は、ゆっくりと息を吸い込んだ。
(体の、内側……)
聞こえるのは、木々の葉擦れ。
自分の心臓の、規則正しい鼓動。
(温かい、何か……)
探す。
探して、探して――
(……分からない)
何も、ない。
あるのは、いつも通りの身体だけだ。
血が流れて、心臓が動いて、肺が膨らんで。
それ以上の〝何か〟なんて、どこにも見つからない。
(……もう少し、集中せんと)
眉間に力がこもる。
じわ、と背中に汗が滲んだ。
――そんな白雪姫の隣で。
「……うん。こんな感じ、ですかね」
蒼波が、あっさりと目を開けた。
「え……っ」
驚いて、白雪姫も目を開ける。
蒼波の全身から、目には見えないほど微細な波が、静かに脈打っているような――そんな気配があった。
「あら。ちゃんと訓練を続けていたのね、蒼波ちゃん」
「はい。毎朝、少しずつですけど」
「偉いわ」
そういえば、と白雪姫は思い出す。
蒼波は幼い頃から翠織の指導を受けてきたのだ。
第一段階など、とっくの昔に通り過ぎている。
「じゃあ蒼波ちゃんは、第二段階の〝制御〟に進みましょうか。体内の霊力を、体の一部分に集める訓練よ」
「はい」
「白雪姫ちゃんは――焦らなくていいから、引き続き感覚を探してみて」
「……はい」
白雪姫は、もう一度目を閉じた。
❆
――結果から言えば。
それから数時間が経っても、白雪姫は霊力の欠片すら掴めなかった。
太陽が傾き、木々の影が長く伸びていく。
隣では、蒼波が手のひらの上に淡い水の球を浮かべては、崩し、また作り直している。
「……ううん」
やがて、白雪姫は肩を落とした。
「やっぱり、だめみたいです。……ごめんなさい、先生」
「謝ることじゃないわ」
翠織は、きっぱりと首を振った。
「いい? 白雪姫ちゃん。神子として生まれながら、霊力を感知できないまま一生を終える人なんて、いくらでもいるのよ」
「……そうなんですか?」
「というより、そちらのほうが圧倒的に多数なの。力を開花させられる神子のほうが、ずっと稀なんだから」
翠織は、白雪姫の白い髪をくしゃりと撫でた。
「それに、覚えているでしょう。あなたはあの日、手のひらから雪を出して魔物を吹き飛ばした」
「……はい」
「あれは間違いなく、第三段階の〝出力〟よ。……命の危機が生んだ奇跡かもしれないけれど、できたことに変わりはないわ」
「……はい」
白雪姫は小さく頷いた。
――けれど。
(……でも)
スカートの裾を、きゅっと握る。
(蒼波さんは、あんなにすぐできてるのに)
自分だけが、何も感じられない。
(私……足を引っ張ってしまうんじゃないっちゃろか)
膨らんでいく不安を、白雪姫は喉の奥に押し込んだ。
――その隣で。
翠織の思考は、まったく別のところにあった。
(……気になるのは、そこじゃないのよね)
彼女の頭を離れないのは、あの日の白雪姫の証言だった。
――まるで自分の身体じゃないみたいに、勝手に動いて。
――木の棒で、襲ってきたオオカミたちを、叩き切ったような気がするんです。
本人は――夢みたいな感覚――と曖昧に言っていた。
だが、もしそれが事実なら。
(そこらに落ちていた木の棒に、魔物を斬れるだけの霊力を付与した……?)
自分の拳や脚。あるいは長年使い込んだ武器。
そういうものへの霊力付与なら、第二段階を修めた神子には難しくない。むしろ戦闘の基本中の基本だ。
だが、ただの木の棒に対しては話が変わる。
馴染みもなければ、魂との繋がりもない。
(――そんなもの、霊力が素通りするだけよ)
第四段階まで到達した翠織だからこそ、身をもって断言できる。
(私がやろうとしたって、付与に意識を持っていかれて、周囲の警戒すら疎かになる。……そもそも、うまく流れていかないもの)
それを、訓練も受けていない十二歳の少女が、無意識にやってのけた?
(資質がある、なんて言葉じゃ済まないわ)
だが。
ちらり、と目を向ける。
ベンチの上で、必死に目を閉じている小さな背中。
第一段階の〝感知〟にすら、届かない少女。
(……ちぐはぐすぎる)
火事場の馬鹿力、で片付くだろうか。
――そこで、翠織の脳裏に、ひとつの言葉が引っかかった。
まるで自分の身体じゃないみたいに。
(……自分の、身体じゃない)
ぞわり、と。
背筋を、何かが這い上がった。
(まさか。……白雪姫ちゃんの中に、もう一人〝誰か〟がいる……?)
馬鹿げた発想だ。
――だが、そう考えれば、すべての辻褄が合ってしまう。
人間から神子になった前例のなさ。
神器を顕現していないのに白いままの髪と瞳。
尋常ではない霊力量。
そして、あの夜の異常な戦闘痕。
(……今後の訓練で、慎重に見極める必要があるわね)
翠織は、焦げ茶色の瞳を静かに細めた。
❆
「――さあ、今日はここまでにしましょう」
パン、と翠織が手を打つと、張り詰めていた空気が一気に緩んだ。
見上げれば、空はもう茜色に染まっている。
行縢山の二つの岩壁が、夕日を背負って黒く聳えていた。
「「ありがとうございました」」
二人は頭を下げ、汗を拭いながら建物へ戻ろうとする。
――が。
「あ、待って。二人とも」
翠織が、二人を呼び止めた。
「今夜の夕食はね。……野外で食べましょう」
「え? 野外、ですか?」
蒼波が不思議そうに首を傾げる。
――だが。
「……あ」
白雪姫のほうは、その一言で察してしまった。
(野外炊飯場……)
脳裏に浮かぶのは、遠い夏の日の景色。
薪の爆ぜる音。
煙に目をこすった父。
――辛口にしすぎたね――と笑った母。
この施設の、いちばんの醍醐味。
(……カレー)
嬉しさと、切なさが、同時に胸に押し寄せてきた。
❆
三人が向かったのは、東屋造りの野外炊飯場だった。
中央には、コンクリート製の大きなテーブルと、木の長椅子。
それを取り囲むように、頑丈な竈がずらりと並んでいる。
屋根はあるが、壁はない。夕暮れの風が、心地よく吹き抜けていく。
「はい、これが材料ね。ルウは市販のもので許してちょうだい」
「「はい!」」
まずは――最大の難関、火起こしである。
「えっと、たしか新聞紙を丸めて置いて……その周りに、細い枝を組んで……」
白雪姫は記憶を頼りに、恐る恐るマッチを擦った。
ボッ、と紙が燃え上がる。
――が。
しゅん。
「あ、あれ⁉ 消えた……!」
「あー、多分、木が太すぎるんやない?」
「そっか、細いのからやね……!」
二人がかりで枝を組み替え、団扇で扇ぎ、息を吹き込む。
「ごほっ、けほっ、け、煙が……!」
「白雪姫さん、顔! 顔、真っ黒!」
「蒼波さんも!」
鼻の頭に煤をつけたまま、二人は顔を見合わせて吹き出した。
――パチ、パチ。
やがて、薪が心地よい音を立て始める。
小さかった炎が枝を伝い、太い薪へと移り、竈の中で安定した。
「……ついた」
「ついたね」
「――ついた‼」
二人は、思わず手を取り合ってはしゃいだ。
少し離れたベンチで、翠織がおかしそうに笑っている。
火が安定したら、次は米だ。
飯盒に米を入れ、冷たい水で研ぐ。何度か水を換え、目盛りまで水を注いで、蓋をしっかり閉める。
それを竈の上へ。
そして、具材切り。
「……白雪姫さん、にんじん切るの丁寧やね」
「そ、そうかな。慎重すぎて遅いだけやと思う……」
「うちなんか、大きさバラバラよ」
「蒼波さんの切り方、なんか豪快で美味しそう」
「ほんと? じゃあ、じゃがいもも大きめにしよっかな」
「あ、芽は取ってね。あれ、毒があるって聞いたことある」
「えっ、そうやと⁉」
包丁を握る手つきは、二人ともまるで慣れていない。
それでも――会話は、驚くほど自然に流れていた。
昨日まで、あんなにぎこちなかったのに。
今はもう、ずっと昔から友達だったかのようだ。
少し離れたベンチで、翠織はその光景を静かに眺めていた。
(……よかった)
大人が仕組んだ出会いだったとしても。
そこから先を作っていくのは、この子たち自身だ。
❆
やがて。
炊飯場いっぱいに、カレーの香りが広がった。
「できた……!」
「完成!」
飯盒の蓋を開けると、ふわりと甘い湯気が立ち上る。
「「「いただきます」」」
三人で手を合わせ、スプーンを取った。
――しゃり。
「……あ」
「……じゃがいも、固いね」
「うん。ちょっと、生っぽい……」
それに、全体的にほんのり灰の味がする。
――けれど。
「ん……! でも、美味しい……っ」
白雪姫は、目を細めて頬張った。
そして、飯盒のご飯。
こちらは驚くほど上手く炊けていた。ふっくらと艶やかで、底には見事なきつね色のおこげまでできている。
「おこげ、おいしい……」
「これは成功やね」
もぐもぐと口を動かしながら、蒼波が真剣な顔で呟いた。
「……じゃがいもは、もっと小さく切って、先に入れて煮込むべきやった。あと肉は、最初に炒めてから……」
「蒼波さん、反省会が早い」
「だって、次はもっと美味しくしたいやん」
――次は。
その言葉が、白雪姫の胸にすとんと落ちた。
(……次が、あるんやね)
スプーンを持つ手が、少しだけ止まる。
ここは、家族と過ごした思い出の場所だ。
もう二度と戻らないと思っていた景色。
――それが今、新しい誰かとの時間で、そっと上書きされていく。
(お父さん。お母さん)
寂しさが消えたわけじゃない。
消えるはずもない。
それでも。
(私、ちゃんと、ごはん食べちょるよ)
カレーの温もりが、じんわりと身体の奥へ落ちていった。
❆
片付けを終える頃には、辺りはすっかり夜になっていた。
二人は施設へ戻り、汗と煤を流すために大浴場へ向かう。
「ふぁ……気持ちいい……」
「……生き返る」
広い湯船に並んで浸かると、一日の疲れがじわじわと溶けていく。
湯気の向こうで、蒼波がふと口を開いた。
「白雪姫さん」
「うん?」
「今日の感知の練習ね。……焦らなくていいと思うよ」
「……っ」
白雪姫は、湯の中でそっと膝を抱えた。
「最初はみんな、できないのが普通やから」
「でも、蒼波さんはすぐに……」
「うち?」
蒼波は、けろりと言った。
「うち、感知できるようになるまで、一年かかったよ」
「……えっ⁉」
思わず、白雪姫は身を起こした。
ざぶん、とお湯が跳ねる。
「い、一年⁉」
「うん。翠織先生に見てもらいながら、毎日毎日座って。……ぜんぜん分からなくて、何回も泣いた」
「蒼波さんが……?」
「うちも、そんな出来がいいわけじゃないよ」
蒼波は湯を手ですくって、ぱしゃりと落とした。
「だから、一日でできんかったくらいで落ち込まんでいいと」
「…………」
白雪姫は、隣の横顔をじっと見つめた。
いつも落ち着いていて、なんでもそつなくこなす女の子。
その〝そつのなさ〟は、天から降ってきたものではなかったのだ。
(……努力家なんや、蒼波さんは)
胸のつかえが、すっと降りていくのを感じた。
「……ありがとう、蒼波さん」
「うん」
「私、諦めないで頑張る」
「……うん」
湯気の向こうで、蒼波が笑った気配がした。
風呂上がり、脱衣所の鏡の前で。
「そういえば、化粧水ってどれくらいつけるんやろ」
「え、白雪姫さんスキンケアしちょっと?」
「昨日、先生にもらって。……でも、正直よく分かんない」
「うちなんか、何にもしたことないよ」
「えっ、蒼波さん、お肌つやつややのに⁉」
「何にもしてないもん」
二人は顔を見合わせて、くすくすと笑った。
「……今度、先生にお願いして、蒼波さんの分も買ってもらおっか」
「そうしよ」
❆
部屋に戻る頃には、二人ともまぶたが重くなっていた。
「ふぁ……もう、無理……」
「私も……。おやすみなさい、蒼波さん」
「おやすみ、白雪姫さん」
出入り口に近い二段ベッド。
それぞれの下段に潜り込む。
昨日はあんなに広く感じた部屋が、今日は少しだけ狭く――そして、あたたかく感じた。
電気が消える。
やがて、規則正しい寝息が二つ、静かな部屋に響き始めた。
❆
――そして、白雪姫は夢を見た。
視界いっぱいに、桜が咲いていた。
どこまでも、どこまでも。
風が吹くたび、薄紅の花弁が雪のように降り注ぐ。
(……きれい)
その桜吹雪の中央に、一人の少女が立っていた。
自分と同じ、真っ白な髪。
――けれど、瞳の色が違った。
透き通るような、桜色。
「……あなたは」
白雪姫は、吸い寄せられるように一歩、足を踏み出した。
「誰、ですか。……あれ? 私……?」
自分と同じ背丈。同じ髪。同じ顔立ち。
なのに、まとう空気があまりにも違う。
少女は、その問いには答えなかった。
ただ静かに歩み寄ると――白雪姫の両手を、そっと包み込んだ。
(……あったかい)
同じ大きさの手のはずなのに。
なぜか、ずっと大きく感じた。
「焦る必要はありません」
鈴を鳴らすような、澄んだ声。
「あなたの魂には、あなたが思うよりずっと多くの力が満ちているのですから」
「……ちから」
「ええ」
少女は、やわらかく微笑んだ。
「どうか、ご自分を信じてください」
――桜が、視界を白く塗りつぶしていく。
「……白雪姫」
❆
「……ん……」
小鳥の声で、白雪姫は目を覚ました。
カーテンの隙間から、朝の光が細く差し込んでいる。
隣のベッドでは、蒼波がまだ静かな寝息を立てていた。
(……夢、見ちょった気がする)
起き上がり、軽く頭を振る。
――何かとても大切な夢だった気がするのに、輪郭がぼやけて思い出せない。
覚えているのは、ただ。
(……桜の匂い)
白雪姫は畳の間へ歩み寄り、そっと窓を開けた。
――すう、と。
ひんやりとした朝の風が、部屋へ流れ込んでくる。
行縢山の、澄み切った空気。
思いきり、胸いっぱいに吸い込んだ。
――その、瞬間だった。
「――あ」
白雪姫の目が、大きく見開かれた。
冷たい風の中に。
肌をなぞっていく空気の中に。
――かすかな、温もりが、あった。
脈打つように。
流れるように。
昨日まで、どれだけ意識を凝らしても感じられなかった〝何か〟が。
ほんの一瞬。
たしかに、この肌に触れたのだ。
「…………っ」
息を、止めた。
もう一度感じ取ろうと集中してみるが――それはもう、風の中に溶けて消えていた。
それでも。
「……今の」
白雪姫は、そっと自分の胸に手を当てた。
完全な習得までは、まだ遠い。
あと一歩どころか、二歩も三歩も先かもしれない。
――けれど。
(……分かった。今、分かった)
確かな手応えが、そこにあった。
窓の外では、朝日を浴びた行縢山が、白く輝いていた。
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