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白雪の神子  作者: 日影ヱト
第01章:白雪の少女
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第10話:行縢の滝へ

 ――日曜日。


 朝の光が、ラウンジの大きな窓から差し込んでいた。


「今日は訓練は休みにするわ」


 昨夜、翠(み)織(おり)はそう言った。


 昨日が訓練の初日で、明日からはまた平日。学校の授業も本格的に始まる。

 その上、週末の宿題だって残っているだろう――というのが、表向きの理由だった。


 もっとも。


(……昨日のあの子、明らかに気(き)負(お)いすぎていたものね)


 書類を眺めながら、翠(み)織(おり)はちらりとソファのほうへ視線を送る。


 感知ひとつできずに肩を落としていた背中。


 あのまま詰め込んでも、白雪姫(こゆき)は空回りするだけだ。


 休ませて、身体を動かして、頭を切り替えさせる。

 それが本当の狙いだった。


 ――そして当の二人はというと。


「……宿題、どのくらい残ってる?」


「数学のプリントが半分。あとは英宅一ページだけやけど、英単語書きまくるだけやからそんな時間はかからないかな」


「あ、私も似たような感じ」


「夜にやれば余裕やね」


 揃って真面目な二人は、既に大半を片付けてしまっていた。


 冷たい麦茶のグラスを両手で包みながら、白雪姫(こゆき)はふと顔を上げた。


「そういえば、蒼(あお)波(ば)さん」


「うん?」


「昨日の様子を見てて思ったっちゃけど……もしかして、ここに来るの初めてやった?」


 配膳カウンターの前できょろきょろしていた姿を思い出す。


「うん、初めて」


 蒼(あお)波(ば)はあっさりと頷いた。


「そもそも、行(むか)縢(ばき)の辺りに来ること自体が初めてだよ。うちは川島町やから」


「……そっか」


 ――と、そこで。


 白雪姫(こゆき)の中に、小さな思いつきが芽生えた。


「ねえ、蒼(あお)波(ば)さん」


「うん?」


「今日、行縢山に登ってみん?」


「…………え?」


 蒼(あお)波(ば)の動きが止まった。


「登るって……あの山を?」


「うん」


「あの、角みたいなのが二本生えてる、あれ?」


「そう、あれ」


「……登れると⁉」


「登れるよ。登山道あるもん」


 あっけらかんと言う白雪姫(こゆき)に、蒼(あお)波(ば)は目を白黒させている。


「あら。いいじゃない、それ」


 と、そこへ。


 書類を小脇に抱えた翠(み)織(おり)が、優雅な足取りで近づいてきた。


「先生」


「どうせいつかは、体力づくりのために登山を訓練へ組み込もうと思っていたのよ。ちょうどいい下見になるわ」


「ほら、蒼(あお)波(ば)さん。先生もこう言ってるし……」


 白雪姫(こゆき)が、きらきらした白い瞳で見つめてくる。


「……うぅ」


 蒼(あお)波(ば)は、あっさり陥落した。


「そんな顔されたら、断れんやん……。でもうち、生まれてこの方、山登りなんてしたことないよ? 足引っ張るかも」


「大丈夫。私も小学生の時以来やし、半年寝ちょったから体力ないもん」


「……それ、大丈夫って言う?」


「だから、今日は頂上までは行かずに――」


 白雪姫(こゆき)は指を一本立てた。


「――途中に〝行縢の滝〟っていうのがあってね。そこまで登ろ?」


「行縢の滝……」


「うん。すごいんよ、あれ」


「……分かった。行こっか」


「やった!」


 ――こうして、二人の行縢山登山が決まった。





❆





 動きやすい服である学校指定のジャージに着替え、それぞれのリュックに荷物を詰める。


 水筒。タオル。行動食。それから、絆(ばん)創(そう)膏(こう)。


「はい、これも持っていきなさい」


 出発前、翠(み)織(おり)が渡してきたのは、小さな鈴だった。


「熊とか、出るんですか……?」


「一応、九州地方は熊はいないって言われてるんだけど、まあ、念(ねん)のためよ」


 自然の家を出て、隣接する行縢神社の境(けい)内(だい)へ。


 鳥居をくぐると、空気が変わった。


 しん、と背筋の伸びるような静寂。

 苔(こけ)むした石畳。頭上を覆う、深い緑。


「……なんか、涼しいね」


「ここ、夏でも涼しいんよ。私、小さい頃よくここで遊んでたの」


 拝殿の前で二人並んで手を合わせ、それから右手側へ回り込む。


「ここが登山口」


 木製の古びた標識と、山へ吸い込まれていく細い道。


「へえ……。神社の中に登山口があるって、なんか不思議やね」


 白雪姫(こゆき)にとっても、この道は小学生以来だった。


 あの時は地域の行事で、インストラクターの人が先導してくれていた。だから、ただ後ろをついていくだけでよかった。


(記憶……あんまり残っちょらんなぁ)


 それでも幸いなことに、道は一本。整備もされている。


 迷う心配はなさそうだった。


「よし。行こう、蒼(あお)波(ば)さん」


「うん。よろしくね、ガイドさん」





❆





 ――最初のうちは、よかった。


「そういえば、蒼(あお)波(ば)さんの好きな食べ物って何?」


「うーん……うちのお母さんが作る筑(ちく)前(ぜん)煮(に)かな」


「渋い……!」


「渋いって言わんで。白雪姫(こゆき)さんは?」


「チキン南蛮」


「即答やん」


 他愛のないお喋りが、木々の間にこだまする。


 ――だが。


 傾斜がきつくなるにつれて。


 二人の口数は、露骨に減っていった。


「…………」


「…………」


(ハァ……ッ、ハァ……ッ)


 白雪姫(こゆき)は、心の中で悲鳴を上げていた。


(き、きつい……っ。体が、重い……!)


 半年間、ベッドの上で眠り続けていたツケは大きい。


 筋力低下こそ奇跡的になかったが、心肺機能はまるで別問題だった。


 額(ひたい)から汗が滴り落ち、肺が焼けるように痛む。


 ちらりと隣を見れば、蒼(あお)波(ば)もまた、額に汗を浮かべて黙々と足を動かしていた。


 登山未経験の彼女にとっても、この道は決して優しくないらしい。


 ――無言のまま、十数分。


 やがて、水のせせらぎが聞こえてきた。


「……あ」


 木々の間に、古い木製の橋が架かっている。


「はぁ……はぁ……橋、やね」


 追いついてきた蒼(あお)波(ば)が、その橋を見て足を止めた。


 長年の雨風に晒され、うっすらと苔むした木の橋。


 その先は、ごつごつとした岩場に続いている。


「……ねえ、白雪姫(こゆき)さん」


「うん?」


「これ、渡って大丈夫と……? なんか、ギシギシいいそうやけど」


 眉を寄せる蒼(あお)波(ば)。


 その顔がおかしくて、白雪姫(こゆき)はふふっと笑ってしまった。


「大丈夫。見た目は古いけど、ちゃんとしてるよ。……ほら」


 トン、トン、と足で軽く踏んでみせる。


 橋は、びくともしない。


 ――それでも、蒼(あお)波(ば)はまだ渋い顔をしていた。


「……じゃあ」


 白雪姫(こゆき)は、そっと右手を差し出した。


「一緒に行こ?」


「…………」


 蒼(あお)波(ば)は、差し出された小さな手をじっと見つめ。


 それから、ふわりと頬を緩めた。


「……ありがと」


 きゅっ、と。


 繋がれた手は、少し汗ばんでいて、あたたかかった。


 二人は一歩ずつ踏みしめるように、木橋を渡りきった。





❆





 橋を越えてからが、本番だった。


 行く手を遮(さえぎ)るように突き出した大岩。

 地面を這い回る、太い木の根。

 丸太を並べただけの簡易な足場。


 難所が、次から次へと現れる。


「ハァ……ハァ……っ」


 息は、相変わらず上がりっぱなしだ。


 ――ところが。


「……よい、しょっ」


 不整地に足を踏み入れた瞬間、白雪姫(こゆき)の動きが変わった。


 岩の斜面に足をかけ、足首を絶妙な角度で捻って滑(すべ)りを殺す。


 バランスを崩しかければ、傍(かたわ)らの幹に手を伸ばし、それを支点にくるりと身体をひねる。


 ぬかるみを避け、根の隙間を選び、無駄なく身体を運んでいく。


(……体、覚えてるもんやね)


 行縢で育った十二年間。


 白雪姫(こゆき)にとっての遊び場は、整備された公園ではなかった。


 神社の境内。裏の森。川辺の岩場。


 友達のいない少女が、たった一人で走り回っていた場所は、いつだって自然の中だったのだ。


 息はヘトヘトで、今にも倒れそうなのに。


 足さばきと身のこなしだけが、異様に鋭い。


 ――後ろから、その背中を追いかけながら。


(……えっ、なにあれ)


 蒼(あお)波(ば)は、目を見張っていた。


(息、あんなに荒いのに……)


 岩を越えるときの体重移動。

 枝を掴む手の位置。

 一歩ごとの、迷いのなさ。


(……なんか、すごく綺麗)


 力任せではない。


 山の形そのものに、身体を合わせているような動き。


(この子……ほんとに、体力ないだけやっちゃね)


 蒼(あお)波(ば)は感心のため息をつきながら、そのしなやかな背中を追った。





❆





 ――登り始めて、小一時間。


 ふっと視界が開け、小さな木製の道(どう)標(ひょう)が現れた。


「はぁ……っ、はぁ……着いた……!」


 白雪姫(こゆき)が、膝に手をついて息を整える。


 道標には、二つの矢印が刻まれていた。


 左――〝行縢の滝 五百メートル〟。


 右――〝行縢山 山頂〟。


「左が、滝……」


 汗を拭いながら、蒼(あお)波(ば)が読み上げる。


「右が、山頂……」


 二人は、しばらく右の道を見つめた。


 鬱(うっ)蒼(そう)とした木々の奥へ、急な斜面が続いている。


「…………」


「…………」


「……左、行こっか」


「うん。左行こう」


 即決だった。


「山頂は、体力ついてからってことで」


「そうしよ。うん、そうしよ」





❆





 左のルートに入ると、道の雰囲気が変わった。


 傾斜が緩やかになり、代わりに――音が、近づいてきた。


 ゴォ……という、腹の底に響く低音。


 それに混じって、パチ、パチ、と水が岩を叩く音。


 風が、少しずつ湿り気を帯びていく。


「……なんか、涼しくなってきた」


「もうすぐだよ」


 歩を進めるごとに、音は轟(ごう)音(おん)へと変わっていく。


 そして――最後の大岩を回り込んだ、瞬間。


 視界が、一気に開けた。


「……わぁ……っ」


「……すご……」


 二人の口から、感嘆が漏れた。


 ――〝行縢の滝〟。日本の滝百選に選ばれた滝だ。


 断崖の頂から大量の水が垂直に落ちてくる。


 見上げなければ、頂上が見えない。


 そして、遠くからでは分からなかったが――近くで対峙すると、その幅の広さに圧倒される。


 岩肌を叩いた水が細かな飛沫(しぶき)となって舞い上がり、陽光を弾いてきらきらと輝いていた。


 周囲には、白い水(すい)霧(む)が漂っている。


「……久しぶりに見たけど」


 白雪姫(こゆき)は、呆然と見上げたまま呟(つぶや)いた。


「やっぱり、すごい」


 幼い頃に何度も見ているはずの自分ですら、言葉を失う。


 まして、初めて目にした蒼(あお)波(ば)は――


「…………」


 ただ、口を開けて見上げていた。


 自分という存在が、どれほど小さいか。


 それを突きつけられるような、圧倒的な光景だった。




 ――だが。


 二人が感じていたのは、視覚的な迫力だけではなかった。


(……なんやろ、これ)


 登り始めてからずっと。


 胸に支(つか)えていたものが、少しずつ洗い流されていくような。


 息を吸うたび、身体の内側が澄んでいくような。


 そんな、不思議な清涼感があった。


「……そういえば、蒼(あお)波(ば)さん」


「うん?」


「前に翠(み)織(おり)先生が言ってたんやけど」


 白雪姫(こゆき)は、滝を見上げたまま続けた。


「この行縢山って、昔から〝霊峰〟って呼ばれてるんやって。山全体に、清(きよ)らかな霊気が満ちてるって」


「霊峰……」


「だから、こんなに――なんていうか。気持ちいい、っていうか」


 ――その言葉を聞いた、瞬間。


「――っ」


 蒼(あお)波(ば)の身体に、変化が起きた。


(……え?)


 彼女は思わず、自分の胸元に右手を当てた。


 魂の奥。


 昨日の訓練でようやく明確に掴んだ、自分自身の〝霊力〟。


 それが。


 ――とくん。


 ――とくん、とくん。


 脈打っていた。


 激しく、それでいて、どこか愛おしそうに。


(……なに、これ)


 まるで、目の前で奔流となって落ちていく水に。


 山を満たす、膨大な自然の気配に。


 自分の内側が、呼応しているかのように。


(うちの霊力が……あの滝に、惹かれてる……?)


 涼しくて。

 澄んでいて。


 どこか、懐かしいような感覚。


 蒼(あお)波(ば)は、静かに目を閉じてその余韻を噛み締めた。


(……なんやろ、この感じ)


 その意味を知るのは、まだ少し先の話である。





❆





 二人は、河原に転がる大岩のうち、座りやすそうな平らな一つを選んで並んで腰を下ろした。


 ひんやりとした岩の感触。

 顔にかかる、細かな水飛沫。


 滝の白い筋を、ぼんやりと眺めながら。


「……本当に、来てよかった」


 ぽつり、と蒼(あお)波(ば)が言った。


「白雪姫(こゆき)さん、誘ってくれてありがとね」


「ううん」


 白雪姫(こゆき)は、膝を抱えた。


「私こそ、ありがとう」


「え?」


「私、半年間ずっと病室で動けんかったから。……こうやって、誰かと一緒に山に登って、綺麗なもの見て」


 言葉を探しながら、白雪姫(こゆき)は続ける。


「……こういうの、もう二度とないと思ってたから」


「…………」


 しばらく、滝の音だけが響いた。


「……ねえ、白雪姫(こゆき)さん」


「うん?」


 蒼(あお)波(ば)は膝の上で手を重ね、少しだけ照れくさそうに、こちらへ顔を向けた。


「あの……ひとつ、お願いがあるっちゃけど」


「お願い? なに?」


「……これからは、白雪姫(こゆき)〝ちゃん〟って呼んでもいい?」


「……え?」


 白雪姫(こゆき)は、目を丸くした。


 ――そういえば。


 蒼(あお)波(ば)はいつも、〝白雪姫(こゆき)さん〟と呼んでいた。


 丁寧で、どこか他人行儀な、その距離。


「うち、今まで人と深く関わらないようにしてきたんよ。神子やし、巻き込みたくなかったし」


「うん」


「でも、白雪姫(こゆき)ちゃんとこうやって一緒におって、話して……その」


 蒼(あお)波(ば)の頬が、ほんのり赤くなる。


「もっと、仲良くなりたいなって……思って。……だめ、かな?」


 上目遣いで、そう尋ねてくる。


 ――その瞬間。


 白雪姫(こゆき)の胸に、じんわりと温かいものが広がった。


「ううん!」


 ぶんぶん、と首を横に振る。


「だめじゃない! ……すごく、嬉しい」


「ほんと?」


「うん! ……あの、じゃあ」


 白雪姫(こゆき)は、少しだけもじもじしてから言った。


「私も、蒼(あお)波(ば)〝ちゃん〟って呼んでいい?」


「――っ」


 蒼(あお)波(ば)の琥珀色の瞳が、ぱっと輝いた。


「うん。もちろん」


 そして、ふわりと笑う。


「これからもよろしくね、白雪姫(こゆき)ちゃん」


「うん! 蒼(あお)波(ば)ちゃん!」


 ――二人の笑い声が、滝の轟音の中に溶けていった。


 澄んだ霊気と、圧倒的な自然の景色を存分に味わって。


 やがて二人は岩から立ち上がり、顔を見合わせて頷き合うと、満足感を胸に下山の途についた。





❆





 ――ちょうど、同じ頃。




 むかばき青少年自然の家、二階の第一研修室。


「――もう一度、言ってちょうだい」


 翠(み)織(おり)の声が、低(ひく)く沈んだ。


 スマートフォンを耳に当てたまま、彼女は眉間に深い皺(しわ)を寄せている。


『ですから、八(や)雲(くも)様』


 通話口の向こうから、事務的な声が返ってくる。


『本日正午前、延岡市内――〝桜(さくら)ケ(が)丘(おか)小中学校〟周辺のエリアにおいて、突発的かつ大規模な魔力異常を観測いたしました』


「……桜ケ丘」


『現時点で、魔物の実体化までは確認されておりません。ですが、いつ発生してもおかしくない濃度です』


 翠(み)織(おり)の指が、机の上でとん、と一度鳴った。


『警戒態勢の維持と、即応可能な準備をお願いいたします。以上です』


「……分かったわ。連絡、感謝します」


 通話を切る。


 ――ことり、と。


 スマートフォンを机に置いて、翠(み)織(おり)は深い溜息を吐いた。


「……よりによって、あそこなの」


 桜ケ丘小中学校。


 白雪姫(こゆき)と蒼(あお)波(ば)が通っている学校だ。


 窓の外へ目をやる。


 午後の光を浴びた行縢山が、静かに聳(そび)えていた。


 あの山のどこかで、今頃あの二人は笑っているのだろう。


「……今日、訓練を休みにしたのは失敗だったかしらね」


 ――いや。


 仮に訓練をしていたところで、何が変わるわけでもない。


 まだ感知すら覚(おぼ)束(つか)ない白雪姫(こゆき)。

 ようやく制御の入り口に立った蒼(あお)波(ば)。


 実戦に出せる段階では、到底ない。


「…………」


 翠(み)織(おり)は立ち上がり、深(ふか)緑(みどり)の袖をきゅっと引き締めた。


 焦げ茶色の瞳に、静かな炎が宿る。


「いいわ。……いざとなったら」


 窓ガラスに映る自分に向かって、彼女は小さく呟いた。


「――私が直接、叩き潰すまでよ」





ここまで読んでいただきありがとうございます!

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