第10話:行縢の滝へ
――日曜日。
朝の光が、ラウンジの大きな窓から差し込んでいた。
「今日は訓練は休みにするわ」
昨夜、翠織はそう言った。
昨日が訓練の初日で、明日からはまた平日。学校の授業も本格的に始まる。
その上、週末の宿題だって残っているだろう――というのが、表向きの理由だった。
もっとも。
(……昨日のあの子、明らかに気負いすぎていたものね)
書類を眺めながら、翠織はちらりとソファのほうへ視線を送る。
感知ひとつできずに肩を落としていた背中。
あのまま詰め込んでも、白雪姫は空回りするだけだ。
休ませて、身体を動かして、頭を切り替えさせる。
それが本当の狙いだった。
――そして当の二人はというと。
「……宿題、どのくらい残ってる?」
「数学のプリントが半分。あとは英宅一ページだけやけど、英単語書きまくるだけやからそんな時間はかからないかな」
「あ、私も似たような感じ」
「夜にやれば余裕やね」
揃って真面目な二人は、既に大半を片付けてしまっていた。
冷たい麦茶のグラスを両手で包みながら、白雪姫はふと顔を上げた。
「そういえば、蒼波さん」
「うん?」
「昨日の様子を見てて思ったっちゃけど……もしかして、ここに来るの初めてやった?」
配膳カウンターの前できょろきょろしていた姿を思い出す。
「うん、初めて」
蒼波はあっさりと頷いた。
「そもそも、行縢の辺りに来ること自体が初めてだよ。うちは川島町やから」
「……そっか」
――と、そこで。
白雪姫の中に、小さな思いつきが芽生えた。
「ねえ、蒼波さん」
「うん?」
「今日、行縢山に登ってみん?」
「…………え?」
蒼波の動きが止まった。
「登るって……あの山を?」
「うん」
「あの、角みたいなのが二本生えてる、あれ?」
「そう、あれ」
「……登れると⁉」
「登れるよ。登山道あるもん」
あっけらかんと言う白雪姫に、蒼波は目を白黒させている。
「あら。いいじゃない、それ」
と、そこへ。
書類を小脇に抱えた翠織が、優雅な足取りで近づいてきた。
「先生」
「どうせいつかは、体力づくりのために登山を訓練へ組み込もうと思っていたのよ。ちょうどいい下見になるわ」
「ほら、蒼波さん。先生もこう言ってるし……」
白雪姫が、きらきらした白い瞳で見つめてくる。
「……うぅ」
蒼波は、あっさり陥落した。
「そんな顔されたら、断れんやん……。でもうち、生まれてこの方、山登りなんてしたことないよ? 足引っ張るかも」
「大丈夫。私も小学生の時以来やし、半年寝ちょったから体力ないもん」
「……それ、大丈夫って言う?」
「だから、今日は頂上までは行かずに――」
白雪姫は指を一本立てた。
「――途中に〝行縢の滝〟っていうのがあってね。そこまで登ろ?」
「行縢の滝……」
「うん。すごいんよ、あれ」
「……分かった。行こっか」
「やった!」
――こうして、二人の行縢山登山が決まった。
❆
動きやすい服である学校指定のジャージに着替え、それぞれのリュックに荷物を詰める。
水筒。タオル。行動食。それから、絆創膏。
「はい、これも持っていきなさい」
出発前、翠織が渡してきたのは、小さな鈴だった。
「熊とか、出るんですか……?」
「一応、九州地方は熊はいないって言われてるんだけど、まあ、念のためよ」
自然の家を出て、隣接する行縢神社の境内へ。
鳥居をくぐると、空気が変わった。
しん、と背筋の伸びるような静寂。
苔むした石畳。頭上を覆う、深い緑。
「……なんか、涼しいね」
「ここ、夏でも涼しいんよ。私、小さい頃よくここで遊んでたの」
拝殿の前で二人並んで手を合わせ、それから右手側へ回り込む。
「ここが登山口」
木製の古びた標識と、山へ吸い込まれていく細い道。
「へえ……。神社の中に登山口があるって、なんか不思議やね」
白雪姫にとっても、この道は小学生以来だった。
あの時は地域の行事で、インストラクターの人が先導してくれていた。だから、ただ後ろをついていくだけでよかった。
(記憶……あんまり残っちょらんなぁ)
それでも幸いなことに、道は一本。整備もされている。
迷う心配はなさそうだった。
「よし。行こう、蒼波さん」
「うん。よろしくね、ガイドさん」
❆
――最初のうちは、よかった。
「そういえば、蒼波さんの好きな食べ物って何?」
「うーん……うちのお母さんが作る筑前煮かな」
「渋い……!」
「渋いって言わんで。白雪姫さんは?」
「チキン南蛮」
「即答やん」
他愛のないお喋りが、木々の間にこだまする。
――だが。
傾斜がきつくなるにつれて。
二人の口数は、露骨に減っていった。
「…………」
「…………」
(ハァ……ッ、ハァ……ッ)
白雪姫は、心の中で悲鳴を上げていた。
(き、きつい……っ。体が、重い……!)
半年間、ベッドの上で眠り続けていたツケは大きい。
筋力低下こそ奇跡的になかったが、心肺機能はまるで別問題だった。
額から汗が滴り落ち、肺が焼けるように痛む。
ちらりと隣を見れば、蒼波もまた、額に汗を浮かべて黙々と足を動かしていた。
登山未経験の彼女にとっても、この道は決して優しくないらしい。
――無言のまま、十数分。
やがて、水のせせらぎが聞こえてきた。
「……あ」
木々の間に、古い木製の橋が架かっている。
「はぁ……はぁ……橋、やね」
追いついてきた蒼波が、その橋を見て足を止めた。
長年の雨風に晒され、うっすらと苔むした木の橋。
その先は、ごつごつとした岩場に続いている。
「……ねえ、白雪姫さん」
「うん?」
「これ、渡って大丈夫と……? なんか、ギシギシいいそうやけど」
眉を寄せる蒼波。
その顔がおかしくて、白雪姫はふふっと笑ってしまった。
「大丈夫。見た目は古いけど、ちゃんとしてるよ。……ほら」
トン、トン、と足で軽く踏んでみせる。
橋は、びくともしない。
――それでも、蒼波はまだ渋い顔をしていた。
「……じゃあ」
白雪姫は、そっと右手を差し出した。
「一緒に行こ?」
「…………」
蒼波は、差し出された小さな手をじっと見つめ。
それから、ふわりと頬を緩めた。
「……ありがと」
きゅっ、と。
繋がれた手は、少し汗ばんでいて、あたたかかった。
二人は一歩ずつ踏みしめるように、木橋を渡りきった。
❆
橋を越えてからが、本番だった。
行く手を遮るように突き出した大岩。
地面を這い回る、太い木の根。
丸太を並べただけの簡易な足場。
難所が、次から次へと現れる。
「ハァ……ハァ……っ」
息は、相変わらず上がりっぱなしだ。
――ところが。
「……よい、しょっ」
不整地に足を踏み入れた瞬間、白雪姫の動きが変わった。
岩の斜面に足をかけ、足首を絶妙な角度で捻って滑りを殺す。
バランスを崩しかければ、傍らの幹に手を伸ばし、それを支点にくるりと身体をひねる。
ぬかるみを避け、根の隙間を選び、無駄なく身体を運んでいく。
(……体、覚えてるもんやね)
行縢で育った十二年間。
白雪姫にとっての遊び場は、整備された公園ではなかった。
神社の境内。裏の森。川辺の岩場。
友達のいない少女が、たった一人で走り回っていた場所は、いつだって自然の中だったのだ。
息はヘトヘトで、今にも倒れそうなのに。
足さばきと身のこなしだけが、異様に鋭い。
――後ろから、その背中を追いかけながら。
(……えっ、なにあれ)
蒼波は、目を見張っていた。
(息、あんなに荒いのに……)
岩を越えるときの体重移動。
枝を掴む手の位置。
一歩ごとの、迷いのなさ。
(……なんか、すごく綺麗)
力任せではない。
山の形そのものに、身体を合わせているような動き。
(この子……ほんとに、体力ないだけやっちゃね)
蒼波は感心のため息をつきながら、そのしなやかな背中を追った。
❆
――登り始めて、小一時間。
ふっと視界が開け、小さな木製の道標が現れた。
「はぁ……っ、はぁ……着いた……!」
白雪姫が、膝に手をついて息を整える。
道標には、二つの矢印が刻まれていた。
左――〝行縢の滝 五百メートル〟。
右――〝行縢山 山頂〟。
「左が、滝……」
汗を拭いながら、蒼波が読み上げる。
「右が、山頂……」
二人は、しばらく右の道を見つめた。
鬱蒼とした木々の奥へ、急な斜面が続いている。
「…………」
「…………」
「……左、行こっか」
「うん。左行こう」
即決だった。
「山頂は、体力ついてからってことで」
「そうしよ。うん、そうしよ」
❆
左のルートに入ると、道の雰囲気が変わった。
傾斜が緩やかになり、代わりに――音が、近づいてきた。
ゴォ……という、腹の底に響く低音。
それに混じって、パチ、パチ、と水が岩を叩く音。
風が、少しずつ湿り気を帯びていく。
「……なんか、涼しくなってきた」
「もうすぐだよ」
歩を進めるごとに、音は轟音へと変わっていく。
そして――最後の大岩を回り込んだ、瞬間。
視界が、一気に開けた。
「……わぁ……っ」
「……すご……」
二人の口から、感嘆が漏れた。
――〝行縢の滝〟。日本の滝百選に選ばれた滝だ。
断崖の頂から大量の水が垂直に落ちてくる。
見上げなければ、頂上が見えない。
そして、遠くからでは分からなかったが――近くで対峙すると、その幅の広さに圧倒される。
岩肌を叩いた水が細かな飛沫となって舞い上がり、陽光を弾いてきらきらと輝いていた。
周囲には、白い水霧が漂っている。
「……久しぶりに見たけど」
白雪姫は、呆然と見上げたまま呟いた。
「やっぱり、すごい」
幼い頃に何度も見ているはずの自分ですら、言葉を失う。
まして、初めて目にした蒼波は――
「…………」
ただ、口を開けて見上げていた。
自分という存在が、どれほど小さいか。
それを突きつけられるような、圧倒的な光景だった。
――だが。
二人が感じていたのは、視覚的な迫力だけではなかった。
(……なんやろ、これ)
登り始めてからずっと。
胸に支えていたものが、少しずつ洗い流されていくような。
息を吸うたび、身体の内側が澄んでいくような。
そんな、不思議な清涼感があった。
「……そういえば、蒼波さん」
「うん?」
「前に翠織先生が言ってたんやけど」
白雪姫は、滝を見上げたまま続けた。
「この行縢山って、昔から〝霊峰〟って呼ばれてるんやって。山全体に、清らかな霊気が満ちてるって」
「霊峰……」
「だから、こんなに――なんていうか。気持ちいい、っていうか」
――その言葉を聞いた、瞬間。
「――っ」
蒼波の身体に、変化が起きた。
(……え?)
彼女は思わず、自分の胸元に右手を当てた。
魂の奥。
昨日の訓練でようやく明確に掴んだ、自分自身の〝霊力〟。
それが。
――とくん。
――とくん、とくん。
脈打っていた。
激しく、それでいて、どこか愛おしそうに。
(……なに、これ)
まるで、目の前で奔流となって落ちていく水に。
山を満たす、膨大な自然の気配に。
自分の内側が、呼応しているかのように。
(うちの霊力が……あの滝に、惹かれてる……?)
涼しくて。
澄んでいて。
どこか、懐かしいような感覚。
蒼波は、静かに目を閉じてその余韻を噛み締めた。
(……なんやろ、この感じ)
その意味を知るのは、まだ少し先の話である。
❆
二人は、河原に転がる大岩のうち、座りやすそうな平らな一つを選んで並んで腰を下ろした。
ひんやりとした岩の感触。
顔にかかる、細かな水飛沫。
滝の白い筋を、ぼんやりと眺めながら。
「……本当に、来てよかった」
ぽつり、と蒼波が言った。
「白雪姫さん、誘ってくれてありがとね」
「ううん」
白雪姫は、膝を抱えた。
「私こそ、ありがとう」
「え?」
「私、半年間ずっと病室で動けんかったから。……こうやって、誰かと一緒に山に登って、綺麗なもの見て」
言葉を探しながら、白雪姫は続ける。
「……こういうの、もう二度とないと思ってたから」
「…………」
しばらく、滝の音だけが響いた。
「……ねえ、白雪姫さん」
「うん?」
蒼波は膝の上で手を重ね、少しだけ照れくさそうに、こちらへ顔を向けた。
「あの……ひとつ、お願いがあるっちゃけど」
「お願い? なに?」
「……これからは、白雪姫〝ちゃん〟って呼んでもいい?」
「……え?」
白雪姫は、目を丸くした。
――そういえば。
蒼波はいつも、〝白雪姫さん〟と呼んでいた。
丁寧で、どこか他人行儀な、その距離。
「うち、今まで人と深く関わらないようにしてきたんよ。神子やし、巻き込みたくなかったし」
「うん」
「でも、白雪姫ちゃんとこうやって一緒におって、話して……その」
蒼波の頬が、ほんのり赤くなる。
「もっと、仲良くなりたいなって……思って。……だめ、かな?」
上目遣いで、そう尋ねてくる。
――その瞬間。
白雪姫の胸に、じんわりと温かいものが広がった。
「ううん!」
ぶんぶん、と首を横に振る。
「だめじゃない! ……すごく、嬉しい」
「ほんと?」
「うん! ……あの、じゃあ」
白雪姫は、少しだけもじもじしてから言った。
「私も、蒼波〝ちゃん〟って呼んでいい?」
「――っ」
蒼波の琥珀色の瞳が、ぱっと輝いた。
「うん。もちろん」
そして、ふわりと笑う。
「これからもよろしくね、白雪姫ちゃん」
「うん! 蒼波ちゃん!」
――二人の笑い声が、滝の轟音の中に溶けていった。
澄んだ霊気と、圧倒的な自然の景色を存分に味わって。
やがて二人は岩から立ち上がり、顔を見合わせて頷き合うと、満足感を胸に下山の途についた。
❆
――ちょうど、同じ頃。
むかばき青少年自然の家、二階の第一研修室。
「――もう一度、言ってちょうだい」
翠織の声が、低く沈んだ。
スマートフォンを耳に当てたまま、彼女は眉間に深い皺を寄せている。
『ですから、八雲様』
通話口の向こうから、事務的な声が返ってくる。
『本日正午前、延岡市内――〝桜ケ丘小中学校〟周辺のエリアにおいて、突発的かつ大規模な魔力異常を観測いたしました』
「……桜ケ丘」
『現時点で、魔物の実体化までは確認されておりません。ですが、いつ発生してもおかしくない濃度です』
翠織の指が、机の上でとん、と一度鳴った。
『警戒態勢の維持と、即応可能な準備をお願いいたします。以上です』
「……分かったわ。連絡、感謝します」
通話を切る。
――ことり、と。
スマートフォンを机に置いて、翠織は深い溜息を吐いた。
「……よりによって、あそこなの」
桜ケ丘小中学校。
白雪姫と蒼波が通っている学校だ。
窓の外へ目をやる。
午後の光を浴びた行縢山が、静かに聳えていた。
あの山のどこかで、今頃あの二人は笑っているのだろう。
「……今日、訓練を休みにしたのは失敗だったかしらね」
――いや。
仮に訓練をしていたところで、何が変わるわけでもない。
まだ感知すら覚束ない白雪姫。
ようやく制御の入り口に立った蒼波。
実戦に出せる段階では、到底ない。
「…………」
翠織は立ち上がり、深緑の袖をきゅっと引き締めた。
焦げ茶色の瞳に、静かな炎が宿る。
「いいわ。……いざとなったら」
窓ガラスに映る自分に向かって、彼女は小さく呟いた。
「――私が直接、叩き潰すまでよ」
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