第11話:迫る危機
――月曜日の朝。
車のシートに身を預けながら、白雪姫はぼんやりと窓の外を眺めていた。
昨日の登山の疲れが、まだ足の裏に残っている。
「白雪姫ちゃん、足だるくない?」
「ちょっとね。……蒼波ちゃんは?」
「うち、太腿がやばい」
「ふふっ」
隣の席で、蒼波が小さく欠伸を噛み殺す。
――むかばき青少年自然の家から学校までは、中学生の足でも自転車で通える距離だ。
実際、白雪姫の自転車はもう用意されている。
それなのに。
――今日は私が車で送るわ。
今朝、出がけに翠織はあっさりとそう言った。
(……先生、どうしたっちゃろ)
運転席の横顔を、白雪姫はちらりと窺う。
翠織は、いつも通りの落ち着いた表情でハンドルを握っている。
――当然、二人は知らない。
昨日、この学校の周辺で〝魔力の異常〟が観測されていたことなど。
「はい、着いたわよ」
校門の少し手前で、車が停まった。
「二人とも、気をつけていってらっしゃい」
「はい。行ってきます、先生」
「ありがとうございました、翠織先生」
――走り去る車を見送りながら。
翠織が、バックミラー越しに二人の背中を長く見つめていたことに。
やはり、二人は気づかなかった。
❆
朝の会が終わり、授業が始まる。
(……う)
ノートを前に、白雪姫は密かに冷や汗を流していた。
半年間、まるまる眠っていたのだ。
小学校六年生の後半――ちょうど、いちばん大事な部分が、ごっそり抜けている。
(……なんとか、ついてはいけてる……かな)
黒板の数式を必死に書き写す。
(うん。ついてはいけてる。……理解できてるかは、また別の話やけど)
隣の席では、蒼波がさらさらとペンを走らせていた。
(……蒼波ちゃん、勉強もできるっちゃね)
小さく溜息をつく。
――ノートの端に、後で聞こう、とだけ書き足しておいた。
❆
そして、午後。
五時間目は、社会だった。
「はい、それじゃあ今日から歴史に入るぞー。教科書、六十二ページ」
黒板に、大きな文字が書かれていく。
――〝平安時代〟。
「今から、だいたい千年くらい前だな。平安京を中心に栄えた時代で――」
教師の朗らかな声が、教室に響く。
白雪姫は、言われた通りに教科書をめくった。
――そして。
その文字を目にした瞬間。
(……え)
――ドクン。
「……っ」
心臓が、大きく脈打った。
いや、違う。
心臓ではない。
もっと、奥。
身体の内側の、さらに奥にある〝どこか〟が。
――疼いた。
(な、に……これ……)
全身の毛穴が、ざわりと開くような感覚。
熱い。
胸の内側が、じんわりと熱を持っている。
白雪姫は、教科書の挿絵をじっと見つめた。
十二単をまとった女性。
牛車。
寝殿造りの屋敷。
――知らない。
当たり前だ。千年前の話なんて、教科書の中の遠い昔話でしかない。
自分が生きてきたのは、たったの十二年。
(……なんで)
それなのに。
(なんで、懐かしいって、思うと……?)
まるで、身体の中の誰かが。
――呼ばれて、返事をしたような。
「……白雪姫ちゃん?」
「――っ、あ」
隣から囁かれ、白雪姫は飛び上がった。
「あ、蒼波ちゃん……」
「顔色、悪くない? 大丈夫?」
「あ……ううん、大丈夫。ちょっと、ぼーっとしとっただけ」
「そう? 無理せんでよ」
「……うん」
微笑んで見せながら、白雪姫はそっと自分の胸元を押さえた。
――熱は、まだ引いていなかった。
❆
放課後。
部活動のある生徒たちは、威勢よくグラウンドや体育館へ駆け出していく。
そうでない生徒たちは、雑談しながら昇降口へ。
部活に入っていない白雪姫と蒼波は、帰るだけ――のはずだった。
ガラガラ、と教室の扉が開く。
「あ、白雪姫さん。ちょっといいかしら」
「はい」
担任の女性教師だった。
「さっき八雲さんから連絡があってね。お迎えが遅くなりそうだって」
「あ……そうなんですか」
「うん。十九時過ぎくらいになるみたい」
「わかりました。……ありがとうございます」
――連絡は、白雪姫にだけ伝えられた。
白雪姫の身元保証人は翠織だが、蒼波はそうではない。
学校側から見れば、蒼波はあくまで〝親の許可を得て、知人宅に泊まっている生徒〟に過ぎないのだ。
担任が去ってから、白雪姫は隣を向いた。
「蒼波ちゃん。翠織先生のお迎え、十九時過ぎになるって」
「うわ、遅っ」
蒼波は肩を落とした。
「こういう時、携帯持ち込み禁止って不便やねぇ……。どうする?」
「うーん……」
「せっかくやし、宿題ここで終わらせちゃおっか」
「そうやね。そうしよ」
❆
カリカリ――と、誰もいなくなった教室に、シャープペンの音だけが響く。
窓の外の空が、少しずつ群青に沈んでいった。
「……ねえ、白雪姫ちゃん」
「うん?」
「こんな遅くなるなら、今日の訓練はお休みかな」
「どうやろ」
白雪姫はシャープペンを止めて、真顔で言った。
「翠織先生のことやから……〝夜の特別訓練よ!〟とか言い出すかもしれんよ?」
「……うわぁ」
蒼波が本気で嫌そうな顔をした。
「言いそう。めっちゃ言いそう」
「やろ?」
二人はくすくすと笑い合う。
――蛍光灯の白い光が、窓ガラスに二人の姿を映していた。
❆
時計の針が、十九時を回った頃。
コンコン、と扉が叩かれた。
「白雪姫さん。八雲さんから、もうすぐ着くって連絡があったわよ」
「あ、本当ですか。ありがとうございます」
「それとね……」
担任は、少し申し訳なさそうに眉を下げた。
「先生も用事があって、そろそろ帰らないといけなくて。他の生徒も先生も、みんな帰っちゃったの」
「あ……」
「教室の鍵を閉めたいから、出てもらえるかしら」
「はい、すみません。すぐ出ます」
鞄をまとめる二人。
――と、そこで担任が、ふと蒼波の方を見た。
「……あら? 蒼波さんは、どうしてまだ残ってるの?」
「――っ、あ」
一瞬、蒼波の肩が跳ねる。
だが、すぐに彼女は可憐な笑みを浮かべた。
「白雪姫ちゃんに、宿題を教えてあげてたんです。ちょっと夢中になっちゃって」
「はい! 教えてもらってました!」
白雪姫も、慌ててこくこくと頷く。
「……そう。仲がいいのね」
担任は納得したように微笑んでから、心配そうに二人を見た。
「本当は先生も一緒に待っててあげたいっちゃけど……どうしても外せない用事があってね」
「大丈夫です」
「外のベンチで待つことになるけど、平気? 暗いし……」
「はい、すぐ来ますから。お気になさらないでください」
「……そう? 気をつけてね」
――カチャリ。
校舎の鍵が閉まる音が、廊下に響いた。
❆
外へ出ると、空はすっかり黒く沈んでいた。
二人は、第一グラウンド脇の木製のベンチに並んで腰を下ろす。
昼間はあれほど賑やかだった学校が、嘘のように静まり返っていた。
街灯にたかる虫が、ジジ……と鳴いている。
遠くの木々が、風に葉を鳴らす。
――それだけ。
「…………」
「…………」
「……夜の学校って」
白雪姫がぽつりと呟いた。
「なんか、不気味やね」
「やめてよ、それ言うの」
「だって」
「そこの旧校舎とか、絶対おるやん。……幽霊」
「あ、それ」
白雪姫は思い出したように顔を上げた。
「昔、旧校舎で肝試ししちょったって聞いたことある」
「聞きたくなかった、その話……!」
――くだらない雑談を交わす。
それは、少しずつ這い寄ってくる暗闇への、ささやかな抵抗だった。
――ザアアァ……。
その時。
グラウンドの奥に立つイチイガシの大木が、大きくざわめいた。
風が吹いたわけでもないのに。
「――っ」
ぞくり、と。
背筋を、氷の刃で撫でられたような悪寒が走った。
「…………え」
空気が、重い。
まるで、大気そのものが粘つく液体に変わってしまったかのように。
息が、うまく吸えない。
――そして。
夜の闇とは違う、どす黒い靄が、じわりと視界を侵食し始めた。
(……この、感じ)
白雪姫の心臓が、警鐘を打ち鳴らす。
知っている。
この空気を、この匂いを、この重さを。
(……あの日と、同じ)
行縢の道路。
白目を剥いた獣。
胸を貫いた、爪。
「白雪姫……ちゃん……?」
隣で、蒼波の声が震えていた。
「なんか……変だよ、これ……」
――ぞろり、と。
校庭の闇の奥で、何かが動いた。
「……っ!」
二人は、同時にそちらを見た。
――そして、息を呑んだ。
(違う……四つ足じゃ、ない……⁉)
闇の中から、ゆらりと。
〝それ〟は、二本の足で歩み出てきた。
――人型だった。
全身から、どす黒い瘴気を噴き上げている。
体格は、あの日のオオカミのボスと遜色ないほどに巨大だ。
岩のように隆起した黒い筋肉。
異様に長い腕。
顔と思しき部分には、感情の読めない光が、二つ。
人の形をしているからこそ――余計に、悍ましい。
「あ……あ……」
蒼波の唇から、掠れた声が漏れた。
ガチガチと、歯が鳴っている。
白雪姫も同じだった。
膝が笑い、足の裏から力が抜けていく。
――圧倒的な、魔力の波動。
空気が震えるたび、身体の芯まで恐怖が染み込んでくる。
異形は、二人を見据えたまま。
ゆっくりと、右の手のひらを持ち上げた。
――スゥゥッ。
その中心に、黒混じりの紫色のオーラが集束していく。
渦を巻き、圧縮され、やがて。
――ゴウッ。
禍々しい〝炎〟が、燃え上がった。
(――まずい‼)
本能が、絶叫した。
直後。
紫黒の炎が、二人めがけて射出される。
「――危ないっ‼」
白雪姫は、震える身体を無理やりねじ伏せ。
蒼波の身体に、真横から飛びついた。
――ドォォンッ‼
二人が座っていたベンチが、爆ぜた。
木片が飛び散り、熱風と土煙が舞い上がる。
「けほっ……! 蒼波ちゃん、大丈夫⁉」
地面に転がりながら、白雪姫は必死に身を起こした。
「――ひ、ぁ……」
だが。
蒼波は、地面に伏せたまま動けずにいた。
両手で頭を抱え、全身を激しく震わせている。
「……あ、あぁ……っ」
(――そっか)
白雪姫は、はっとした。
(蒼波ちゃん、初めてやっちゃ……!)
訓練は積んできた。
知識も持っている。
だが――こんな怪物と、実際に向き合うのは。
殺意を向けられるのは、生まれて初めてなのだ。
一度〝死〟を経験している自分ですら、膝が震えて止まらないというのに。
(蒼波ちゃんの怖さは、私よりずっと……っ)
白雪姫は、拳を握りしめた。
(――守らないと)
その瞬間、恐怖よりも大きな何かが、胸の奥で弾けた。
(大丈夫。あと少し。……あと少し待てば、絶対に翠織先生が来る)
迎えは、もうすぐ着くと言っていた。
(それまで、私が――時間を稼ぐ)
白雪姫は、ゆっくりと立ち上がった。
そして、あろうことか。
異形のほうへ、数歩、踏み出した。
「――こっち!」
声が、裏返る。
「こっちだよ……! 私を、見て……っ!」
――賭けだった。
もしこの怪物が自分を無視して蒼波を狙えば、それで終わりだ。
だが。
――ぎょろり、と。
異形の光が、白雪姫を捉えた。
白い髪が、闇の中でよく目立ったのかもしれない。
(――かかった……!)
再び、手のひらに炎が集まっていく。
――シュパァンッ‼
「くっ……!」
白雪姫は横っ飛びに転がって、それをかわした。
着地と同時に、走り出す。
止まってはいけない。
直線に逃げてもいけない。
――円を描くように、異形の周囲を走る。
――ドンッ! ドォンッ!
地面が次々と爆ぜる。
熱気が頬を焼き、土くれが背中に降り注いだ。
「はぁっ……はぁっ……!」
(息が……っ、苦し……!)
――体力が、もたない。
半年寝たきりだった身体だ。昨日の登山の疲れも残っている。
視界が明滅し、足がどんどん重くなっていく。
(まだ……まだ、走らんと……っ)
――その、矢先だった。
ぐきり、と。
「――っ、あ」
地面の窪みに、足を取られた。
「うぐっ⁉」
派手に転倒し、白雪姫は地面に叩きつけられる。
膝に、鋭い痛みが走った。
(――しま……っ)
顔を上げる。
――目の前に、影が立っていた。
異形が、こちらを見下ろしている。
(……あ)
その手のひらでは、これまでで最大の紫黒の炎が、膨れ上がっていた。
(避けられん……!)
走ろうにも、足に力が入らない。
これだけの至近距離では、転がってもかわせない。
(……ごめん、蒼波ちゃん)
白雪姫は、ぎゅっと目を瞑った。
――その、瞬間。
「――白雪姫ちゃんっ‼」
夜の校庭を、裂くような叫び声が響いた。
「……え」
目を開ける。
地面に倒れていたはずの蒼波が。
顔中を涙と土で汚しながら、それでも――
まっすぐに、異形へと手を突き出していた。
「――っ、あぁぁぁっ‼」
――ズワッ‼
その手のひらから。
澄み切った、巨大な〝水の玉〟が、噴き出した。
夜気を裂いて飛翔したそれは。
白雪姫へと向けられていた異形の右腕に――
ドガンッ‼
――まともに、直撃した。
「ガアッ⁉」
衝撃で、腕が跳ね上がる。
放たれた紫黒の炎は大きく軌道を逸れ、夜空へと吸い込まれて――遥か上空で、雲を赤く染めて散った。
「……っ、はぁ……っ、はぁ……っ」
白雪姫の身体には、掠り傷ひとつなかった。
「……水……?」
呆然と、白雪姫は呟く。
――霊力を体外へ放出し、己の属性に応じた現象へと変える。
訓練の、第三段階。
それを蒼波は、この極限の土壇場で、成し遂げてみせたのだ。
「蒼波ちゃん……すごい……!」
――だが。
喜んでいる時間は、一秒たりとも与えられなかった。
「グ……ルァァッ‼」
異形が、吠えた。
邪魔をされた。
その事実に、はっきりとした苛立ちを見せて。
――巨躯が、翻る。
狙いが、切り替わった。
「――っ」
異形の左手が、蒼波へと向けられる。
そこにはすでに、先ほどを上回る密度の炎が練り上げられていた。
「あ――」
蒼波は、動けなかった。
たった今、自分が起こした奇跡に呆然としていた彼女には。
迫り来る死を、ただ見開いた目で映すことしかできない。
「蒼波ちゃんっ‼」
白雪姫の悲鳴が響く。
――ゴオオオォォッ‼
紫黒の炎が、解き放たれた。
小さな身体を、呑み込もうと。
――直撃した。
と、思った。
しかし。
――ドォンッ‼
激しい衝撃音と、巻き起こる熱風。
その渦の中に。
――立っていた。
深緑の衣を夜風になびかせ。
片手を、静かに前へ掲げた、一人の女性が。
放たれた炎は、彼女の手のひらの前に展開された見えない壁に阻まれ。
火の粉ひとつ、蒼波に届かせることなく、霧散していた。
「……せ、先生……」
凛と伸びた背中。
揺るぎない、圧倒的な強者の佇まい。
八雲翠織は、ゆっくりと首を巡らせ。
恐怖に目を見張る二人の教え子へ向けて、不敵に笑ってみせた。
「――待たせたわね」
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