第12話:霊術【破魔矢・翡翠】
――熱風が、収まっていく。
夜の校庭に、じり、じりと焦げた土の匂いだけが残っていた。
「先生……!」
蒼波の前に立った翠織は、掲げていた手をゆっくりと下ろす。
(……この炎。込められているのは、間違いなく〝魔力〟)
焦げ茶色の瞳が、目の前の異形を鋭く射抜いた。
(ということは、こいつは――)
街灯の淡い光の中。
全身から黒い瘴気を立ち昇らせた人型が、ゆらりと佇んでいる。
落ち窪んだ眼窩の奥で、赤黒い光が爛々と蠢いていた。
「……せ、先生」
蒼波が、掠れた声を絞り出す。
「あれ……あれは、一体、何なんですか……」
いつもの穏やかさは、完全に消え失せていた。
二人を背に庇うように立った翠織は、夜風に黒髪をなびかせたまま、静かに答えた。
「――〝魔蝕者〟よ」
「ましょく、しゃ……?」
白雪姫が、その響きをなぞる。
胸の奥を、冷たい手で掴まれたような気がした。
「昔、魔物に殺された人間。……あるいは、志半ばで命を落とした神子――」
翠織の声には、憐れみのような色が混じっていた。
「――その魂が、魔力に蝕まれ、成り果てた存在よ。自我はほとんど残っていないわ」
「そんな……人が……?」
「ええ。……生きている者の霊力を貪ることしか考えられない、哀れな亡者」
翠織はすっと右足を引き、腰を落とした。
その全身から、澄んだ緑の霊力が立ち昇っていく。
「二人は下がっていなさい」
「で、でも先生――」
「――行くわよ!」
言い終わるより早く。
翠織の姿が、消えた。
「……えっ⁉」
白雪姫の目には、何も追えなかった。
――ドンッ‼
空気が爆ぜるような音。
気づいた時には、翠織は魔蝕者の懐に潜り込んでいた。
鋭い踏み込み。
――ゴォッ‼
霊力を乗せた右拳が、魔蝕者の腹部へ深々と突き刺さる。
鈍い衝撃音とともに、巨躯が数メートル後方へ吹き飛んだ。
両足が地面を削り、土煙が上がる。
(……っ、浅い⁉)
着地した翠織の背筋を、嫌な汗が伝った。
(今の一撃、並の魔物なら腹に穴が空いて消滅しているはずよ)
だが。
魔蝕者は、何事もなかったかのように体勢を立て直している。
(魔蝕者とは数度だけだけど拳を交えてきた……その中でもこいつは別格だわ)
硬さも。
纏う魔力の密度も。
これまでの個体とは、まるで違う。
――そして。
赤黒い眼が、ぎらりと光った。
「――っ‼」
魔蝕者の姿が、掻き消える。
(速い……‼)
先ほどの自分と同等――いや、それ以上の踏み込み。
黒い爪が、拳が、次々と繰り出される。
空気を裂く風圧そのものが、刃と化して襲いかかってきた。
だが。
「――ふっ」
翠織は、動じなかった。
首をわずかに傾げる。
半歩、身を引く。
それだけで、致命の一撃が空を切っていく。
長年、神子を指導してきた者の眼だ。攻撃の軌道など、すでに読み切っている。
――そして、胸元を狙って突き出された左拳。
翠織はそれを、跳躍して躱した。
宙で身体をひねり、その回転の勢いのまま。
「はぁッ‼」
――ドカァンッ‼
しなやかな右脚の蹴りが、魔蝕者の顔面左側を撃ち抜いた。
「――ッ‼」
巨体が横倒しに崩れ、地面に伏せる。
この戦いで、初めて。
「――まだよ!」
着地と同時に、翠織は地を蹴った。
立ち上がる隙など、与えない。
――だが、魔蝕者も同じことを考えていた。
倒れた姿勢のまま、手のひらをこちらへ向ける。
――ゴウッ‼
ドロリとした紫黒の炎が、真正面から迫った。
「くっ……!」
翠織は身を倒し込むようにして回避する。
火の粉が頬を掠め、熱で視界が歪んだ。
立ち上がった魔蝕者が、間髪入れずに拳を突き出す。
翠織もまた、霊力を込めた拳を真っ向から叩きつけた。
――ズドォンッ‼
二つの拳が、正面から噛み合う。
瞬間、同心円状に衝撃波が吹き荒れた。
「きゃああっ⁉」
「うわっ……!」
離れて見ていた白雪姫と蒼波が、腕で顔を庇う。
砂塵が渦を巻き、校庭のフェンスがガタガタと鳴った。
――その渦の中心。
(……硬い)
拳を押し合いながら、翠織の額を汗が滑り落ちる。
(身体強化だけじゃ、表面を削ることすらできない)
――結論は、一つだった。
(やっぱり、〝神器〟を使わないと無理か……!)
互いの威力が相殺され、二人は弾かれるように距離を取った。
先に動いたのは、魔蝕者。
両手をかざし、黒煙を上げる巨大な炎球を練り上げていく。
――だが。
「――神器顕現‼」
翠織の凛とした声が、夜を裂いた。
翠色の光が溢れ、その手に一張りの弓が現れる。
――神器〈翡翠・木漏日の破魔弓〉。
翠織の瞳が、鮮やかなエメラルドグリーンへと変わり、耳につけたピアスもまた、緑色に光り輝いている。
翠織は弦に指をかけ、引き絞る。
その指先に、圧倒的な密度の霊力が収束していく。
「――ふっ‼」
――ほぼ、同時だった。
放たれた炎球と、光の矢。
二つは空中で真正面から激突し、激しい爆発とともに互いを打ち消し合った。
「…………」
威力は、互角。
――そして、魔蝕者の赤黒い眼が細まった。
あの弓から放てる矢は、一度に一本きり。
ならば――手数で押し潰せばいい。
「――‼」
両手から、途切れることなく炎の弾丸が生成される。
雨あられと降り注ぐ、紫黒の弾幕。
(……甘いわ)
翠織の口元が、わずかに歪んだ。
(この弓を、ただの一本射ちだと思った?)
確かに、一度に引き放てる矢は一矢のみ。
――だが。
この神器から放たれた矢は、手を離れた後も、射手の意のままに動く。
軌道を変え、加速し、そして。
「穿ちなさい――‼」
――分裂する。
放たれた一筋の光が、空中で数十条の光条へと弾けた。
それらは弧を描き、迫り来る炎弾のことごとくを撃ち抜いていく。
――バババババッ‼
夜空に、光と炎の火花が咲き乱れた。
「……すごい」
白雪姫は、思わず呟いていた。
――だが。
当の翠織の表情は、まるで晴れていなかった。
(相殺はできる。……でも、それだけよ)
矢の制御に霊力を割いている限り、本命の一撃を撃ち込む隙が作れない。
(それに――仮に当てられたとして、この個体を倒し切れるかどうか)
じり、じりと。
霊力が削られていく。
――消耗戦になれば、負けるのは自分だ。
❆
その背中を、蒼波はじっと見つめていた。
(……先生の動き、さっきより落ちてる)
「白雪姫ちゃん」
「え……?」
「うちらも、先生を手伝おう」
「――っ」
白雪姫は、息を詰まらせた。
(私が……?)
まだ霊力の感知すらまともにできない、半人前以下の自分が。
足手まといになるだけではないのか。
(……でも)
視線の先。
一人で戦い続ける翠織の背中には、はっきりと疲労の色が滲んでいた。
(ほんの少しの足止めくらいなら……できるかもしれん)
白雪姫は、震える拳をぎゅっと握りしめた。
(大丈夫。……この前、ほんの一瞬だけど、感じ取れたやん)
顔を上げる。
(それに、あの日――一度は、出せたんやから)
「……うん」
「行こう、蒼波ちゃん」
二人は、声を張り上げた。
「先生‼」
「私たちも、手伝います‼」
――翠織が、弾かれたように振り返った。
「駄目よ‼」
その声は、切り裂くように鋭かった。
「下がっていなさいと言ったでしょう! 危険すぎるわ!」
――だが。
「――……っ」
二人の瞳を見て、翠織は言葉を失った。
足は震えている。顔は青褪めている。
それでも、その目は。
まっすぐに、自分を見ていた。
(…………ああ)
翠織は、奥歯を噛んだ。
(確かに、ここで戦えるのは私だけ。この子たちを守れるのも、私だけ……)
――けれど。
(それ以前に。……私は、この子たちの〝指導者〟でもある)
自分を信じて背中を預けようとしている教え子を。
信じ返さないで、何が指導者か。
「…………分かったわ‼」
翠織は、引き締まった笑みを浮かべた。
「一つだけ、あいつを一撃で仕留められる手がある! でも、そのためには――確実に動きを止める必要があるわ!」
「はい!」
「蒼波ちゃん! あなたは水で足止めを!」
「分かりました!」
「そして――白雪姫ちゃん」
翠織は、真っ白な瞳をまっすぐに見つめた。
「言っていたわね。手のひらから冷たい風と雪が飛び出して、獣を吹き飛ばしたって」
「……はい」
「難しいことは考えなくていいわ。あの時の感覚と――自分の中にある熱や衝動を、外へぶつけることだけに集中しなさい」
「…………」
白雪姫の指先が、細かく震えている。
それを見た翠織は、ふわりと表情を緩めた。
「大丈夫。あなたならできるわ」
「先生……」
「――自分を信じて」
「……っ、はい‼」
「行くわよ‼」
❆
――翠織の矢が、放たれた。
空中で幾重にも分裂し、光の幕となって魔蝕者の視界を埋め尽くす。
「――‼」
魔蝕者の意識が、その眩さに奪われた。
その隙に。
白雪姫と蒼波は、翠織の左右へと走り出していた。
挟み込むように位置取り、互いに手のひらを敵へと向ける。
「……来て」
蒼波が、目を閉じた。
「――うちの、水……っ‼」
――ゴボッ。
彼女の手のひらに、瑞々しい霊力が凝縮していく。
渦を巻き、膨れ上がり、やがて――今の彼女に出せる最大の水球が形作られた。
――一方。
(……出て)
白雪姫は、必死に念じていた。
(出て。……お願い、出て……!)
だが。
手のひらからは、何も生まれない。
感じるのは、ただの夜風の冷たさだけだった。
(――やっぱり)
視界が、じわりと滲む。
(感知もできてない私じゃ、やっぱり無理なんや……!)
焦りが、胸を締め上げる。
――その、瞬間だった。
『……大丈夫』
「……え?」
声が、聞こえた。
耳ではない。
もっと奥――魂の、深いところから。
『どうか、ご自分を信じてください』
鈴を鳴らすような、澄んだ声。
どこか懐かしく、限りなく優しい――誰かの、声。
(……この、声……)
昨日の朝、思い出せなかった夢の欠片が。
桜色の花びらとともに、ふわりと蘇る。
そして同時に、翠織の言葉が重なった。
――大丈夫。あなたならできるわ。
――自分を信じて。
(……そうだ)
白雪姫は、ぐっと歯を噛みしめた。
(先生も、あの声も、私を信じてくれてる)
守りたい。
(なら――私が、私を信じんで、どうすると‼)
助けてくれた先生を。
友達になってくれた、蒼波を。
その一心が、魂の奥に眠るものを激しく揺さぶった。
――ドクンッ‼
「――っ、あ」
跳ね上がる鼓動。
身体の底から、何かが噴き上がってくる。
澄み切っていて。
どこまでも冷たくて。
――そして、恐ろしいほどに、美しいもの。
「……あ、あぁ――」
白い髪が、ぶわりと舞い上がった。
「あああああッ――‼」
――ゴォォォォッ‼
白雪姫の手のひらから、猛烈な吹雪が爆発的に噴出した。
「――っ、冷たっ⁉」
「さ、寒い……⁉」
数メートル離れた蒼波と翠織の口から、白い息が漏れる。
それもそのはずだった。
白雪姫の放つ冷気は、すでに第一グラウンド全体を呑み込みつつあった。
地面に、みるみる霜が降りていく。
――四月の夜が、真冬へと塗り替えられていく。
「――蒼波ちゃん、今ッ‼」
「――いっけぇぇっ‼」
解き放たれた特大の水球が、魔蝕者へと直撃した。
――バシャァッ‼
全身を包み込む、大量の水。
そこへ。
白雪姫の極寒の奔流が、襲いかかった。
――バリバリバリバリッ‼
水が、凍る。
足元から腰へ。腰から胸へ。
みるみるうちに分厚い氷が這い上がり、魔蝕者の巨躯を完全に封じ込めた。
「――ッ‼」
魔蝕者が咆哮を上げ、魔力を破裂させて氷を砕こうとする。
――だが、微動だにしない。
「……なんて、冷気なの」
翠織は、思わず息を呑んでいた。
これまで数えきれないほどの神子を見てきた。
――こんな出力は、見たことがない。
(……いいえ。感動している場合じゃないわ)
「――よくやったわ、二人とも‼」
千載一遇の好機。
翠織は、破魔弓を極限まで引き絞った。
――集うのは、持てる全霊力。
その矢は、これまでとは明らかに違っていた。
「……え」
感知すらままならない白雪姫にすら、分かった。
密度が、違う。
白かった光が、じわじわと翡翠色へと染まっていく。
――それは、ただ霊力を込めただけの矢ではない。
翠織の持つ属性――〝木〟の気を、極限まで凝縮した一矢だった。
正月に飾られる〝破魔弓〟。
そこに五本の矢を配置すると、それは五行を表すという。
そのうち、〝木〟を司る矢。
――それを持つのが、八雲翠織である。
「これで――果てなさいッ‼」
弦が、限界まで軋む。
「霊術【破魔矢・翡翠】‼」
――ズドォォォンッ‼
解き放たれた一矢は、光の濁流となって夜を裂いた。
完全に凍りついた魔蝕者の、胸の中心へ。
――貫通。
「――――ッ‼」
声にならない絶叫。
翡翠色の光が、内側から巨躯を満たしていく。
分厚い氷ごと、その身体は光の粒へと崩れ――
やがて、紫黒の霧となって。
夜風の中へ、跡形もなく散っていった。
❆
静寂が、戻ってきた。
「……はぁ……はぁ……っ」
弓を光へと還した翠織が、肩で息をする。
「……倒した」
そう呟いた瞬間、糸が切れたように。
――どさり。
翠織は、仰向けに倒れ込んだ。
「せ、先生‼」
白雪姫は慌てて駆け寄り、膝をついて顔を覗き込んだ。
「大丈夫ですか⁉ どこか怪我を――」
「大丈夫よ……ただの、霊力切れ」
翠織は、力なく手をひらひらと振った。
「……あー……もう、無理……」
少し離れたところでは、蒼波がぺたんと座り込んでいる。
肩を大きく上下させ、地面に手をついたまま動けずにいた。
「蒼波ちゃんも大丈夫⁉」
「うん……大丈夫。……一歩も動けんけど」
「ふふっ」
安堵が、じわじわと胸に広がっていく。
――倒せた。
みんな、生きている。
「よかった……ほんとに、よかった……!」
白雪姫は両手を胸の前で握りしめ、白い瞳を潤ませた。
――その姿を、翠織は仰向けのまま見上げていた。
(……あれだけの冷気を撒き散らしておいて、息一つ乱してないなんて……とんでもない霊力量ね……)
呆れと感嘆が、同時に込み上げてくる。
――そして、その時。
ふと、翠織の脳裏に、ひとつの可能性が閃いた。
(……待って)
ずっと疑問だったのだ。
(もしかして――今まで感知や制御ができていなかったのは――)
これほどの資質と出力を持ちながら、なぜこの子は第一段階の〝感知〟にあれほど苦戦するのか。
(霊力量が、大きすぎるから……?)
体内に満ちる霊力があまりにも膨大すぎて。
外気に漂う微かな霊気との〝差〟を、感じ取れずにいるのではないか。
大海に浸かっている者が、落ちた一滴の波紋に気づけないように。
(……だとすれば)
訓練の方法を、根本から見直す必要がある。
(面白いわね。……本当に、とんでもない子を拾ったものだわ)
翠織は、夜空を見上げてふっと笑った。
――これで、終わった。
誰もが、そう思った。
――その、瞬間だった。
――ズヂィン……ッ‼
「――っ⁉」
空間そのものを押し潰すような重圧が、真上から降り注いだ。
脱力していたはずの翠織が、跳ね起きる。
「……ぁ」
白雪姫の背筋を、氷水が伝った。
感知の浅い自分にすら分かる。
――さっきのとは、比べ物にならない。
三人は、ゆっくりと空を仰いだ。
――星空を、黒い影が横切っていた。
背から広がるのは、蝙蝠を思わせる巨大な皮膜の翼。
人型に近い輪郭。
全身を覆う、禍々しい外骨格。
そして、そこから溢れ出す漆黒のオーラ。
魔物とも。
魔蝕者とも。
――明らかに、〝格〟が違う。
「……そんな」
翠織の声が、初めて震えた。
空に佇む異形は、眼下の三人をゆっくりと見下ろすと。
裂けた口元を、歪めた。
「……フム」
鼓膜を直接汚すような、不快な重低音。
「強イ霊力ヲ辿ッテミレバ――ココダッタカ」
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