第13話:魔神
――全身の毛が、逆立った。
翠織は、それを本能で理解した。
目の前の存在は、格が違う。
「――二人とも、逃げなさいっ‼」
叫び声が、夜のグラウンドに響き渡る。
「――えっ」
その悲鳴じみた声に、白雪姫の身体が固まった。
いつも余裕を崩さなかった翠織が。
あの翠織が、こんな声を出すなんて。
「あれは魔物でも、魔蝕者でもない……‼ もっと格上の――‼」
――バサ、と。
巨大な翼が空気を打った。
降りてくる。
悠然と、ゆっくりと。
やがて足が地面に触れると、漆黒の翼は音もなく背へ折り畳まれ、闇に溶けるように消えていった。
現れたのは――思いの外、細身の影だった。
先ほどの魔蝕者の巨躯に比べれば、ずっと小さい。
それでも、優に百八十センチはある。無駄のない筋肉に、外骨格じみた黒い甲殻。
――なのに。
立っているだけで、大気が軋んでいた。
「……あなたは」
翠織が、震える声で問う。
「いったい……何者なの」
その存在は、退屈そうに首を傾げた。
そして、酷薄に口の端を吊り上げる。
「何者、カ」
鼓膜を汚す、不快な低音。
「問ワレレバ、コウ答エルノガ道理カ」
――そして、告げた。
「我ハ――〝魔神〟ダ」
「…………」
一瞬、翠織は言葉の意味を理解できなかった。
「……ま、じん……?」
――魔神。
それは、かつて〝神〟と呼ばれた存在が、魔に堕ちた果ての名だ。
天使が堕ちれば、堕天使と呼ばれるように。
神が堕ちれば――魔神と、なる。
(そんな……そんなの、御伽話じゃない……!)
翠織の背筋を、氷の汗が伝った。
現代を生きる者にとって、魔神とは物語の中の存在でしかない。
――かつては、知る者もいた。
魔神を討ち果たし、神となって神界へ渡った神子の伝説。
だがそれも、千年という気の遠くなる歳月の中で風化し、今や記録すら残っていない。
(……でも)
目の前の重圧は、幻想などではない。
(立っているだけで、魂が軋む……‼)
「二人とも! 早く逃げなさい‼」
翠織は、残された霊力を強引に絞り出した。
「私が時間を稼ぐ‼」
「先生っ! だめ、もう霊力が――‼」
「――ハァッ‼」
地面が爆ぜた。
弾丸と化した翠織の身体が、一直線に魔神へと突き進む。
――先ほど、あの巨躯の魔蝕者を数メートル吹き飛ばした渾身の右拳。
残るすべてを注ぎ込んだ、必殺の一撃。
――ドゴォッ‼
それが、魔神の胸元に突き刺さった。
――しかし。
「…………え」
魔神は、ぴくりとも動かなかった。
衝撃波すら、起きない。
眉ひとつ動かさず、ただ冷ややかに翠織を見下ろしている。
「……嘘、でしょ」
「……ソノ程度カ」
魔神が、静かに右拳を握り込んだ。
凝縮されていく、濃密な魔力。
――回避する余裕など、与えられなかった。
――ドドォンッ‼
「ごふっ……⁉」
閃光じみた一撃が、翠織の腹部を穿つ。
その身体は宙で回転しながら吹き飛び、数十メートル後方の地面へ叩きつけられた。
土煙が、もうもうと上がる。
「せ、先生――っ⁉」
「翠織先生っ‼」
二人の悲鳴が重なった。
――信じられなかった。
あんなに強くて、凛としていた人が。
たった、一撃で。
「……に……げ……て……」
血に染まった顔を、翠織はわずかに持ち上げた。
「……二人、とも……はやく……っ」
それきり、動かなくなる。
――魔神は、その姿に一瞥すら与えなかった。
興味を失ったように踵を返し、まっすぐに二人のほうへ歩み出す。
ザッ、ザッ、と。
足音だけが、静かに近づいてくる。
「あ……あ……」
白雪姫の隣で、蒼波が膝をついたまま震えていた。
霊力を使い果たし、立ち上がることすらできない。
「……に、げて、白雪姫ちゃん……」
「――いやだ」
白雪姫は、蒼波の前に立った。
膝が笑っている。歯がガチガチと鳴っている。
(……守らなきゃ)
それでも。
(私が、蒼波ちゃんを守らなきゃ……‼)
両手を、前に突き出す。
――さっきの感覚を、必死に手繰り寄せる。
身体の奥底。あの、澄み切った冷たいもの。
「来ないでっ――‼」
――ゴォォッ‼
手のひらから、凍てつく冷気の奔流が噴き出した。
空間そのものを凍らせる、氷の嵐。
――だが。
フッ、と。
魔神が片手を軽く振っただけで。
――冷気は、煙のように霧散した。
「……えっ」
足取りは、一歩たりとも乱れていない。
――視界が、影に覆われた。
「あ――」
――ガシッ‼
伸びてきた手が、白雪姫の細い首を容赦なく掴み上げた。
「かっ……あ……っ⁉」
身体が浮く。
喉が万力で締め上げられ、空気が完全に断たれた。
視界が、ちかちかと明滅する。
白雪姫は両手で魔神の腕を掴み、必死に引き剥がそうとする。
――だが、岩のように硬い腕は、一ミリも動かない。
「白雪姫ちゃんっ……‼」
地面を這って、蒼波が近づいてきた。
顔面は蒼白で、腕はもう震えるばかり。
それでも彼女は、魔神の腕にすがりついた。
「離して……っ! 白雪姫ちゃんを、離してぇっ‼」
「…………鬱陶シイ」
――ガァンッ‼
「がっ……⁉」
無造作に振り抜かれた脚が、蒼波の身体を蹴り上げた。
小さな身体が、夜空へ舞う。
――そして、数秒後。
――ぐしゃっ。
地面に、叩きつけられた。
「……っ、あ」
嫌な音がした。
骨の砕ける、鈍い音が。
蒼波は、ぴくりとも動かなくなった。
黒い髪が土に散らばり、その下から赤黒いものが、じわりと地面に広がっていく。
「あ……あお、ば……ちゃ……」
声が、出ない。
魔神は掴んでいた白雪姫を、ゴミでも捨てるように放り投げた。
――ドサッ。
「げほっ……! ごほっ、げほっ……!」
喉に空気が流れ込み、白雪姫は激しく咳き込む。
それでも。
「……蒼波……ちゃん……っ」
地面を、這った。
指が土にめり込む。爪が割れる。
構わなかった。
「蒼波ちゃん……‼」
やっとの思いでたどり着き、白雪姫はその身体を抱き起こす。
――魔神に、背を向けたまま。
震える右手で頭を支え、左手で蒼波の左手を握りしめた。
「蒼波ちゃん、蒼波ちゃんっ……!」
――反応が、ない。
「起きて……お願い、目ぇ開けて……っ」
握った手が、少しずつ冷たくなっていく。
胸が、上下していない。
「いやだ……いやだよ……」
ぼたり、ぼたりと。
大粒の涙が、蒼波の頬に落ちた。
――一昨日、一緒に山を登った。
――昨日、一緒にカレーを作った。
――〝白雪姫ちゃん〟と、呼んでくれた。
たった数日。
たった数日の、はじめての友達。
「……なんで」
背後で、空気が軋む音がした。
「終ワリダ」
魔神の手のひらに、紫黒の炎が膨れ上がっていく。
(……いやだ)
胸が、引き裂かれそうだった。
守れなかった。
(誰か)
何ひとつ、守れなかった。
(誰か、助けて……!)
白雪姫は、心の底から叫んだ。
(私はどうなってもいい……!)
「死ネ」
(私の大切な友達を――先生を――)
――そして。
(――助けてよぉっ‼)
その、瞬間だった。
『――わかりました』
「……っ」
声が、聞こえた。
何度も聞いた、あの声。
あたたかくて、凛とした、鈴のような。
――ゴウッ‼
どこからともなく、旋風が巻き起こった。
「何ッ……⁉」
放たれかけた魔の炎が、掻き消える。
白雪姫の身体を中心に、眩い桜色の光が溢れ出した。
夜の闇を押し返す、極彩の輝き。
そして――ひらり、ひらりと。
どこからともなく、無数の花びらが舞い降りてくる。
桜色の、花びらが。
(……あっ)
涙で歪んだ視界の中、白雪姫はそれを見上げた。
(これ……あの時と、同じ)
行縢の道路。
命を落としかけた、あの瞬間と。
――そして。
少女の白い瞳が、ゆっくりと。
透き通るような、桜色へと変わっていった。
唇が、静かに開かれる。
「……あとは、お任せください」
声も。
抑揚も。
立ち昇る気配も。
――すべてが、変わった。
雪から、桜へ。
白雪姫から――白櫻姫へ。
それと、同時に。
腕の中の蒼波の身体が、優しい光に包まれた。
カチリ、と。
まるで、世界の理が巻き戻るように。
砕けていた骨が繋がる。
止まっていた呼吸が、深く整っていく。
擦り傷も、内臓の損傷も――何もかもが、跡形もなく消えていった。
――これが、白櫻姫の宿す霊力――〝生命〟。
それは、行縢で見せたような、草木を芽吹かせるだけの力ではない。
傷ついた人体の細胞すらも無制限に活性化させ、完全に修復してしまう――そういう、奇跡だった。
ふわり、と。
舞い散る花びらの群れが、遠くで倒れていた翠織の身体を包み込む。
そっと宙に浮かべ、静かに運び、蒼波のすぐ隣へと並べた。
「――ありがとうございます」
白櫻姫は、花びらたちに柔らかく礼を告げる。
そして、意識を失ったままの翠織へと視線を落とした。
「ありがとうございます、翠織様」
深く、静かに。
「白雪姫を、ここまで導いてくださって」
――その一部始終を見ていた魔神の顔から。
余裕の笑みが、消えていた。
(……何ダ)
ぞわり、と。
背骨の芯を、悪寒が這い上がる。
(何ダ、コノ女ハ……⁉)
立ち昇る霊力の、質。
一切の無駄がない、完璧な制御。
そして何より――
(完全ニ背ヲ向ケテイル。ダガ)
どこにも、隙がない。
斬りかかる場所が、見つからない。
(只者デハナイ……! 我ノ本能ガ……危険ダト叫ンデイル……⁉)
――そこで、ようやく。
白櫻姫が、振り返った。
桜色の瞳が、冷ややかなまでに澄んでいる。
「……あら」
小首を傾げる。
「〝魔禍人〟ですか? ――ああ」
言ってから、彼女は小さく頷く。
この身体に刻まれた知識と記憶を、そっと読み取った。
「――いえ。今は、〝魔蝕者〟と呼ぶのでしたね」
「――魔蝕者ダト……⁉」
魔神の顔が、憤りに歪んだ。
「フザケルナ‼ 我ハ魔神ダ‼」
――しかし。
白櫻姫は、微塵も動じなかった。
それどころか。
その唇に、可憐で優美な笑みを浮かべたのだ。
「御冗談を」
鈴を転がすような、澄んだ声で。
「――魔神は、あなたみたいに弱くありませんよ?」
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