第14話:白櫻姫
――白く霞んでいた意識が、暖かな光に引き上げられていく。
(……私は……)
翠織は、重い瞼をゆっくりと持ち上げた。
視界に映るのは、夜の空。
――と、それを白く染めていく、霜の降りたグラウンド。
(……記憶が)
直前までのことが、一気に流れ込んでくる。
魔神。
全霊を込めた拳。
そして――何もできないまま、吹き飛ばされた自分。
(私……死んだんじゃ……)
恐る恐る、腹部に手を当てる。
「……え?」
――痛くない。
骨が砕けていたはずだ。血を吐いたはずだ。
それなのに、指先に触れるのは、傷ひとつない自分の身体だった。
それどころか。
(……霊力が、回復してる……?)
空になっていたはずの魂の器に、決して少なくない霊力が注がれている。
(何が……何が起きているの)
混乱したまま、翠織は上体を起こした。
そして――正面を見て、息が止まった。
「…………っ」
背を向けて、一人の少女が立っていた。
夜風になびく、雪のように白い長い髪。
――白雪姫だ。
だが。
(……なに、これ)
その背中から立ち昇る気配は、あの引っ込み思案な少女のものでは、断じてなかった。
清らかで。
気高くて。
――そして、圧倒的だった。
(こんな〝格〟……見たことがない)
そしてその正面には。
黒い翼を揺らめかせ、殺気を噴き上げる魔神が、対峙している。
「――白雪姫ちゃんっ⁉」
治ったばかりの喉を、翠織は必死に振り絞った。
「だめよ、逃げなさい‼ 相手は――‼」
――ふわり、と。
少女が、振り返った。
「大丈夫です、翠織様」
「…………え」
その瞳は、いつものような〝白〟ではなかった。
透き通るような――〝桜色〟。
そして、その唇に浮かんでいたのは。
恐怖も、不安も、微塵も感じさせない。
どこまでも穏やかで、揺るぎない笑顔だった。
「――って、さ、様……?」
翠織は、言葉を失った。
――何も言えなかった。
小さな背中が、再び魔神へと向き直る。
その背に感じたのは、庇われている安堵と――
まるで、雲の上の存在を目の当たりにしているような、根源的な畏れだった。
❆
――一方、その正面。
「……弱イ、ダト……?」
魔神の全身から、怨嗟が噴き出していた。
「コノ我ニ向カッテ……何ト言ッタ、神子ノ小娘ガアアアッ‼」
――弱い。
その一言が、かつて神として君臨し、魔に堕ちてなお絶対の強者であり続けた男の矜持を、根こそぎ砕いていた。
「ハアアアアアアッ――‼」
――ドォンッ‼
咆哮とともに、どす黒い魔力が暴風となって噴き上がる。
大気が震え、グラウンドの地面が放射状に罅割れた。
「……っ⁉」
翠織は、思わず腕で顔を庇う。
(な、なによこれ……‼)
密度が。量が。まるで違う。
(さっきの力ですら……この魔神の、ほんの一部だったっていうの……⁉)
立っているだけで皮膚が痺れる。呼吸すら、うまくできない。
魔神は狂気に歪んだ笑みを浮かべ、右の手のひらを天へと掲げた。
「滅ビヨ……‼」
その手のひらの上に、紫黒の火種が生まれる。
――ズズズ……ッ。
次の瞬間、それは爆発的に膨れ上がり始めた。
一メートル。
三メートル。
五メートル。
瞬く間に、校舎すら呑み込めるほどの巨大な炎球へと成長する。
大気が熱で歪み、周囲の木々が音もなく枯れていった。
「シネェッ‼」
――振り下ろされる腕。
破滅の塊が、流星のごとく白櫻姫へと殺到した。
「――危ないっっ‼」
翠織は、思わず立ち上がって叫んでいた。
あんなものを正面から受ければ、肉体ごと蒸発する。
――しかし。
「ふふっ」
白櫻姫の笑みは、微塵も崩れなかった。
彼女はゆっくりと、まるで舞のひと動作のような優雅さで。
そっと、右の手のひらを掲げた。
――ふわり。
空気が、甘い花の香りで満たされる。
風が、吹いた。
さくらがおかの丘から。
校庭の桜や梅の木から。
周囲に広がる森の、あらゆる木々と草花から。
――無数の花びらが、意志を持ったかのように一斉に舞い上がった。
桜色。白色。萌黄色。
数千、数万――いや、数え切れないほどのそれらが、一筋の帯となって収束していく。
そして白櫻姫の手のひらの前で渦を巻き、密度を高め――華の盾となった。
――ゴォオオオオオオンッッ‼
紫黒の炎球と、花びらの盾が、真正面から激突する。
天地を揺るがす轟音。
吹き荒れる狂風。
「――嘘でしょう⁉」
翠織は、自分の目を疑った。
(花びらで……あの炎を、受け止めた……⁉)
あり得ない。
あれは山ひとつを吹き飛ばしかねない威力を持つ、魔力の塊だ。
花びらなど、触れた瞬間に灰も残さず消し飛ぶ。それが世界の理のはずだった。
――だが。
その一枚一枚には、白櫻姫の霊力によって、無制限の生命力が注がれている。
枯れない。
燃えない。
崩れない。
邪悪な炎は、火の粉の一つすら彼女に届かせることができなかった。
「ナ、何……ッ⁉」
驚愕する魔神へ。
鈴を転がすような声が、静かに響いた。
「――わたくしの力は、命を育み、護るための力です」
白櫻姫は、掲げた手のひらを、ふわりと押し出した。
「命を奪うことしか知らないあなたでは……この盾ひとつ、破れませんよ」
――ズバアアンッッ‼
次の瞬間、翠織は信じがたいものを見た。
防いでいたはずの花吹雪が。
――押し返した。
幾重にも重なった花の刃が、巨大な炎球を真っ向から切り裂いていく。
魔神の放った破滅の一撃は、木っ端微塵に砕かれ、紫黒の粒子となって虚空へ散った。
「バカナッ⁉ 我ガ魔炎ガ……花ビラ如キニ、斬リ裂カレタダト……⁉」
舞い散る花の中で。
白櫻姫は、静かに桜色の瞳を細めた。
❆
「アリエナイ……! アリエルモノカアアアアアァァァァ‼」
矜持を粉々にされた魔神が、激昂の咆哮を上げる。
漆黒の魔力を全身の筋肉へ叩き込み、過剰なまでの身体強化を施し――
――ドンッ‼
地面を砕いて、跳躍した。
(――速……っ⁉)
翠織の動体視力では、もはや捉えることすらできなかった。
(さっきの戦い……あれでも、本気じゃなかったの⁉)
一瞬にして間合いを詰めた魔神が、魔力を削り出した拳を振り下ろす。
――が。
「…………」
白櫻姫は、それを完全に見切っていた。
頭を、わずか数センチ滑らせるだけ。
――それだけで、音速の拳が空を切る。
突風が、白い髪を巻き上げた。
そして。
空振りの隙へ、白櫻姫は滑るように潜り込んだ。
「――ふっ」
澄んだ呼気とともに。
濃密な霊力を纏った掌底が、無防備な腹部へ叩き込まれる。
――ドカァァァァンッ‼
「ガ、ハッ――‼」
魔神の口から、大量の血が噴き出した。
巨躯がくの字に折れ曲がり、凄まじい衝撃波とともに後方へ吹き飛ぶ。
第一グラウンドの土を深く抉り、傾斜を越え――そのまま、下の第二グラウンドまで転がり落ちていった。
「……嘘、でしょう」
翠織の喉から、掠れた声が漏れた。
自分が全霊を込めて放った拳では、傷ひとつ、怯みひとつ与えられなかった相手だ。
それを。
(掌底、一発で……⁉)
❆
「グオオオオォォォ……ッ」
第二グラウンドで、魔神が呻いていた。
白櫻姫は、髪一筋乱すことなく歩き出す。
第一グラウンドから続く、石造りの階段。
その一段一段を、まるで散策でも楽しむかのような優美な所作で下りていく。
「あっ……待って……!」
我に返った翠織が、慌てて後を追おうと駆け出す。
――と、そこで足が止まった。
(……本当に、痛くない)
改めて、自分の腹に触れる。
皮膚にも、骨にも、何ひとつ異常がない。
(あの傷が……綺麗さっぱり……?)
まるで、最初から殴られてなどいなかったかのように。
(いつの間に。……一体、誰が)
理解を超えた現象の連続に、頭が破裂しそうだった。
――だが、今は考えている場合ではない。
翠織は頭を振り、階段を駆け下りた。
❆
「オ……オオオオッ……‼」
地面に這いつくばっていた魔神が、地の底から響くような声を上げて立ち上がる。
「許サン……許サンゾ‼ 人間ノ分際デェェッ‼」
解き放たれた魔力が、第二グラウンドを爆風となって薙いだ。
周囲の木々が、ちぎれんばかりに揺れる。
――その暴風の中心で。
白櫻姫は、静かに目を閉じていた。
「……許さない?」
ゆっくりと、桜色の瞳が開かれる。
「――許さないのは、こちらの方です」
凍てついた声だった。
怒鳴ってなどいない。声を荒らげてもいない。
――だからこそ。
その静けさが、翠織の背筋を凍らせた。
「あの子は、両親を亡くしました」
「……ナ、ニ……?」
「たった一人になって。それでも、震えながら学校へ行って」
白櫻姫は、一歩を踏み出す。
「……そしてやっと、友ができたのです」
もう一歩。
「……その友を、あなたは殺した」
――ゾクリ、と。
魔神の全身に、悪寒が走った。
「再びこの子に、失う悲しみを与えようとした」
魔神は、動けない。
「この子は先ほど、――自分はどうなってもいいから助けて――と、そう願っていたのです」
「――‼」
白櫻姫の内から、清廉な霊力が吹き荒れる。
彼女の怒りを体現するかのように。
「そんな優しい子に対し、あなたがしようとした仕打ちを、許すわけには参りません。……あなたが魔神であろうと、なかろうと」
白櫻姫は、胸の前で静かに両手を合わせた。
「――最早、どちらでも構いません」
そして。
「神器顕現」
――世界が、変わった。
旋風が巻き起こり、数千の花びらが怒涛となって彼女を包み込む。
視界を覆い尽くす、桜色の光の繭。
――そして、一斉に弾けた。
「…………っ⁉」
翠織は、息を呑んだ。
そこに立っていたのは、セーラー服の少女ではなかった。
白を基調とした、和装の上衣。
袖の内側と縁取りは、濃い桜色。肩と袖口には、淡い花の紋様。
襟元には黒いハイネックが覗き、胸元には桜色の組紐で結ばれた飾り結びとタッセル。
下半身には、漆黒の袴。
――白と桜と、黒。
その対比が、彼女の姿を峻厳なまでに美しく際立たせていた。
〈千年霞の羽衣〉。
――それが、彼女の魂に刻まれた神器の名。
その瞬間、白櫻姫を中心に霊力の領域が爆発的に拡張し、第二グラウンドを囲む草木が一斉に、力強く葉を広げた。
――そして。
「カハッ……ア、アガ……っ⁉」
その姿を見た魔神の顔が、恐怖に引き攣った。
「ソ、ソノ姿……ソノ霊力ノ質……ッ‼」
記憶の底から、忌まわしい光景が掘り起こされる。
――神界。罪人の丘。
人間界で強大な魔神をたった一人で討ち果たし、神の座へ昇り。
そして、処刑された、あの少女。
「キサマ……〝白櫻姫〟……ッ‼」
魔神が、絶叫した。
「ナゼダ‼ ナゼ生キテイル‼」
――対する白櫻姫は。
くすり、と可憐に微笑んだ。
「あら。……あの場を見ていらしたのですね」
「……ッ」
「ということは。あなたが元は神であったことは、間違いないようですね」
――静謐な、宣告だった。
自らの正体を確かめられ、逆に相手の正体を暴き返す。
魔神の顔から、完全に血の気が引いた。
――かつて最強と謳われた魔神を、たった一人で葬った怪物。
それが今、目の前に立っている。
「グゥ……ッ‼ 死ネぇぇぇぇッ‼」
恐怖を怒りで塗り潰し、魔神が地面を叩いた。
――ゴォオオッ‼
白櫻姫の足元から、巨大な火柱が噴き上がる。
先ほどの比ではない、焦熱の奔流。
その身体が、完全に炎に呑み込まれた。
「……っ、白雪姫ちゃん――‼」
翠織が叫ぶ。
――だが。
やがて炎が晴れたとき。
「…………」
白櫻姫は、そこに立っていた。
羽衣の端一枚、焦げてすらいない。
〈千年霞の羽衣〉が備えるのは、完璧な耐熱。
――太陽の熱にすら耐えるその衣の前では、並の魔炎など、そもそも意味を成さない。
「……その程度ですか」
白櫻姫は、心底失望したように息を吐いた。
「やはり、〝魔神〟を名乗るには――若すぎますね」
そして。
静かに、右手を上空へと掲げた。
❆
――そこから先の光景を、翠織は生涯忘れることはないだろう。
周囲の桜の木々から、無数の花びらが、彼女の手のひらへと吸い上げられていく。
花を失った木々は、一瞬枯れかけたように見え――
だが次の瞬間、白櫻姫の霊力を浴びて、瞬時に蕾をつけ、再び満開に咲き誇った。
そしてその新しい花びらもまた、歓喜するように彼女のもとへ飛んでいく。
――幾千。
――幾万。
どこから舞ってきたのか、夜空に集った花びらが、渦を巻き、うねり、形を成していく。
鋭い角。
力強い四肢。
天を覆う、長大な胴。
――それは、竜だった。
桜の花びらだけで組み上げられた、絢爛たる巨竜。
全長、五十メートル――いや。
優に、百メートルを超えている。
「あ……ああ……」
翠織は、その場に立ち尽くしていた。
恐怖も、戦慄も忘れて。
ただ、見惚れていた。
――霊術【竜桜】。
「ゆきなさい」
白櫻姫が、静かに手を振り下ろす。
――ゴオオオオオオッ‼
咆哮とともに、百メートルの巨竜が夜空を疾走した。
「ヤ、ヤメロォォォッ‼」
死を悟った魔神が、残る全ての魔力を解き放つ。
炎。
雷。
濁流。
――山ひとつを容易に消し飛ばす、絶望的な規模の魔術群。
だが。
それらは【竜桜】に触れた瞬間。
――余波の一つすら残さず、呑み込まれ、消滅した。
周囲の地形に、被害は一切ない。
それは破壊ではなく――完全な支配と、統御だった。
「グウウオオオオオォォォォォ‼」
そして。
巨竜は、逃げ惑う魔神を丸ごと呑み込んだ。
――光が、弾けた。
咆哮も。
叫びも。
魔力も。
すべてが花の光の中に溶け、消えていく。
やがて光が収まったとき、第二グラウンドに残っていたのは。
静寂と、降り注ぐ花吹雪だけだった。
「…………」
翠織は、動けなかった。
言葉も出なかった。
――ふっと。
舞い散る花の中で、白櫻姫がゆっくりと振り返る。
千年の時を纏った、その神器姿のまま。
呆然と立ち尽くす翠織に向かって。
彼女は、あたたかく微笑んだ。
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