第15話:戦いが終わって――
――静寂が、戻ってくる。
つい今し方まで世界を塗り潰していた、あの禍々しい魔力の渦。
その痕跡すら、もうどこにも残っていない。
聞こえるのは、行縢の森を渡ってくる夜風の音だけだった。
(……勝った、の……?)
翠織は、荒い息を吐きながら立ち尽くしていた。
全身を縛りつけていた緊張が解けていく。指先が、じん、と痺れていた。
――魔神。
自分が全霊を注いでも、傷ひとつ与えられなかった存在。
それを、目の前の少女は。
傷どころか、髪の一筋すら乱すことなく、葬り去ってしまった。
舞い落ちる花びらの中を、白櫻姫がゆっくりと歩いてくる。
白と桜の羽衣が、夜風に静かに揺れていた。
「……あなたは――」
声が、震えた。
姿かたちは、間違いなく白雪姫だ。
自分が引き取り、この数日、確かに見守ってきた少女のもの。
――なのに。
その瞳に宿る桜色の光も。
背筋の伸びた優雅な所作も。
魂の底から漂う、圧倒的な〝格〟も。
どれ一つとして、あの引っ込み思案な子のものではなかった。
(この子の中に……こんな存在が、いたっていうの……?)
――だが。
その問いに、少女はすぐには答えなかった。
薄紅の唇に柔らかな笑みを浮かべ、代わりに、こう尋ねてきた。
「……蒼波様は、ご無事でしょうか?」
「――あっ‼」
翠織の顔から、血の気が引いた。
(しまった……‼)
魔神との戦いに、意識を根こそぎ持っていかれていた。
――あの子は、蹴り飛ばされたのだ。
骨の砕ける音を、確かに聞いた。
(指導者失格じゃない、私……‼)
弾かれたように駆け出そうとした翠織を。
「大丈夫ですよ」
鈴のような声が、そっと引き留めた。
「え……?」
「焦る必要はございません。……参りましょう」
落ち着き払ったその声に、翠織は戸惑いながらも足を緩めた。
二人は並んで石段を上り、第一グラウンドへと戻る。
――そして、そこで。
「……これは」
翠織は、言葉を失った。
芝生の上に横たわる、蒼波。
その身体を包み込むように。
幾千、幾万もの花びらが――半球の天蓋を、形作っていたのだ。
淡い桜色の霊気を帯びた花びらが、滑らかに円を描いて旋回している。
美しく。
そして、隙がなかった。
外からのいかなる衝撃も通さない、完璧な防壁だった。
「先ほどの戦いの間、念のため守らせていただきました」
白櫻姫がそっと指先をかざす。
――ふわり。
ドームを成していた花びらが宙へ舞い上がり、光の粒となって夜空へ溶けていった。
現れた蒼波の顔には、傷ひとつない。
ただ、心地よさそうに寝息を立てているだけだった。
「…………」
翠織は、その場に膝をついた。
脈を確かめる。呼吸を確かめる。
(あの怪我が治ったなんて)
――どちらも、驚くほど安らかだった。
(……待って)
そして、改めて背筋が冷えた。
(あの戦いをしながら?)
魔神との、一瞬の油断も許されない死闘。
その最中に、数百メートル離れたこの場所へ意識を割き。
これほど緻密な霊力構造を、展開し続けていたというのか。
(並列制御……それも、この精度で)
一流の術者でも、まず不可能だ。
(……この方は、一体どこまで)
翠織は、ゆっくりと立ち上がった。
そして、焦げ茶色の瞳に決意を込めて、目の前の少女を見つめた。
「……蒼波ちゃんを守ってくださって、ありがとうございます」
「いいえ」
「その上で、改めてお尋ねします」
深く、息を吸う。
「あなたは――一体何者なのですか」
――風が、二人の間を吹き抜けた。
白い髪が、優雅に靡く。
少女は静かに目を伏せ、胸元にそっと手を添えると。
「……改めまして、お初にお目にかかります」
深く、礼を。
「わたくしは、〝椿宮白櫻姫〟と申します」
その声には、長い時を生きた者だけが持つ重みがあった。
「神名を――〝椿宮白櫻姫神〟」
「……しん、めい?」
翠織の声が裏返った。
「か、神の名前……⁉ それって、つまり……白櫻姫様は――」
「ああ、〝様〟などと呼んでくださらなくて結構です」
白櫻姫は、困ったように小さく首を振った。
「今のわたくしは、ただの魂の同居人に過ぎませんので」
そして、彼女は夜空を仰いだ。
「わたくしはかつて、神々の住まう地――〝神界〟におりました」
「神界……」
「ですが、とある罪により、罪人の丘で処刑されました。……命を落としたはずなのです」
「――処刑⁉」
「ええ。それなのに、目覚めてみれば」
白櫻姫は、自分の小さな手のひらを見下ろした。
「なぜか、この子の中に魂が宿っておりました」
「なぜ……そんなことが」
「それが、わたくしにも分からないのです」
少女は、正直に肩をすくめた。
「奇跡なのか、あるいは何者かの悪戯なのか。……未だに、見当もつきません」
「…………」
翠織は、返す言葉を失っていた。
神界。処刑。神の名。
どれもこれも、常人が聞けば戯言として切り捨てる類の話だ。
――だが。
たった今、目の前で見せつけられた光景が、それを真実だと告げていた。
「……あの子の記憶を、少しだけ覗かせていただきました」
白櫻姫は、懐かしむように目を細める。
「先日、学校とやらの授業で目にしたという――〝へいあんじだい〟という絵図と、その説明」
「……あ」
翠織の胸が、どくりと鳴った。
「あれを見て、確信いたしました。……わたくしが命を落としてから、この人間界では、すでに千年の歳月が流れていたのだと」
――千年。
「わたくしは、千年前に処刑された、過去の神に過ぎません」
「せん、ねん……」
掠れた声が漏れた。
あまりに、途方もない。
――半信半疑の思いが、胸をよぎるのは否定できなかった。
けれど。
「……驚かない、と言えば嘘になります」
翠織は、深く息を吐いた。
「ですが」
「ですが?」
「実は、前々から感じてはいたんです。あの子の中に――私たちの知る白雪姫ちゃんとは別の、もっと大きな〝何か〟がいるのではないか、と」
行縢の道路に残されていた、異常な戦闘痕。
訓練中に見せる、ちぐはぐな才能。
顕現もしていないのに、白いままの髪と瞳。
――ばらばらだったピースが、今、綺麗に嵌まった。
「だから、正直に申し上げると……納得した、というのが本音です」
「……さすがは、翠織様」
白櫻姫は、くすりと微笑んだ。
その笑みは、年相応の少女のようでもあり――どこか、母親のようでもあった。
❆
「……ひとつ、お聞きしても?」
「なんなりと」
「白雪姫ちゃん自身は、このことを知っているのですか」
白櫻姫は、静かに首を横に振った。
「いいえ。まだ、何も」
「……話していないのですね」
「ええ。……ですが、そう遠い話でもないと思っております」
「といいますと?」
「今日の戦いです」
白櫻姫は、指を一本立てた。
「魔蝕者との激闘。魔神の威圧。そして――わたくしが、この体で神器を顕現させたこと」
「……っ」
「それらによって、あの子の魂と霊力の〝感知〟は、急激に引き上げられました」
「急激に、って……」
「おそらく、もう」
白櫻姫は、こともなげに言った。
「あなたや、蒼波様よりも上かもしれません」
「――」
翠織は、二の句が継げなかった。
昨日まで、感知ひとつできずに肩を落としていた子が。
たった一晩で。
「そう遠くないうちに、あの子は意識の奥で、わたくしと直接言葉を交わせるようになるでしょう」
白櫻姫は、自分の手をそっと握りしめた。
愛おしむように。
「その時が来ましたら、わたくし自身の口から、すべてを打ち明けるつもりです」
「……ええ」
「ですので――翠織様」
桜色の瞳が、まっすぐに向けられる。
「それまでは、どうか。このことを、あの子には黙っていていただけませんか」
翠織は、迷わなかった。
「――分かりました」
深く、頷く。
「私からは、何も言いません。……あなたの口から伝えるのが、きっと一番でしょうから」
「感謝いたします」
白櫻姫は、ほっとしたように胸を撫で下ろした。
――そこで、翠織は足元へ視線を落とした。
静かに眠り続けている、蒼波。
「……この子には、どうするおつもりですか」
「蒼波様、ですか」
「ええ。彼女もまた、白雪姫ちゃんと共に歩み始めた、彼女の仲間ですから」
白櫻姫の表情が、少しだけ真剣なものに変わった。
「蒼波様は、白雪姫にとって、かけがえのないご友人です」
「……はい」
「ですから、それを打ち明けるかどうかは――わたくしではなく、あの子自身が決めるべきことだと考えております」
迷いのない答えだった。
「あの子が話したいと望むなら、それが正解なのでしょう」
「…………」
――と。
そこで白櫻姫は、ふっと視線を逸らした。
そして、少しだけ困ったような苦笑を浮かべる。
「……ただ、わたくし個人の本心を申し上げるなら」
「はい?」
「先に知っておいていただいたほうが、後々の混乱が少なくて済むのではないか、とも」
「……ふふっ」
思わず、翠織は吹き出してしまった。
「なんですか、それ。案外ちゃっかりしていらっしゃるのね」
「あら。神とて、面倒事は避けたいものです」
――張り詰めていた空気が、ふっと緩んだ。
千年前の神と、現代の神子。
その間に、ほんの一瞬だけ、あたたかいものが流れる。
「……友とは、大事なものですから」
ぽつり、と白櫻姫が呟いた。
その脳裏に浮かんでいたのは、遠い日の――黒髪の、一人の少女だった。
圧倒的な才を持つゆえに孤立していた自分の隣に、いつもいてくれた、たった一人の友。
「――もっとも」
白櫻姫は、目を細めて微笑む。
「それは、白雪姫が一番よく分かっていることでしょうけれど」
❆
――と、その時。
「……っ」
白櫻姫が、ふと自分の身体を見下ろした。
桜色の瞳の光が、ゆらり、と揺らぎ始めている。
「……そろそろ、限界のようですね」
「え……」
「白雪姫の意識が、浮上してきております」
白櫻姫は、名残惜しそうに――けれど穏やかに、微笑んだ。
「後は、お任せいたしますね、翠織様」
「あ……」
「あの子を、どうか」
深く、頭を下げる。
「よろしくお願いいたします」
――祈るような言葉を残して。
少女は、静かに瞼を閉じた。
次の瞬間。
全身を包んでいた神聖な気配が、引き潮のように退いていく。
桜色の瞳が、白へと戻る。
纏っていた〈千年霞の羽衣〉が光の粒に解け――現れたのは、見慣れた濃紺のセーラー服だった。
「……っ」
支えを失った小さな身体が、ぐらりと前に傾ぐ。
「――っと」
翠織は素早く一歩踏み込み、その華奢な身体を抱きとめた。
――軽い。
腕の中に収まったそれは、驚くほど軽く、小さく、そして温かかった。
ついさっきまで魔神を圧倒していた威厳など、どこにもない。
ただ、疲れ果てて眠る、十二歳の女の子がいるだけだった。
「……本当に。無茶ばっかりして」
翠織はそっと手を添え、雪のように白い髪を撫でた。
――千年前の神を宿した少女。
これから彼女を待ち受けるであろう、あまりに過酷な運命。
守り切れるだろうか。
導いてやれるだろうか。
「……はぁ」
深い溜息が漏れた。
――けれど。
その溜息とは裏腹に、白雪姫を見つめる翠織の顔には。
穏やかな笑みが、浮かんでいた。
(大丈夫。……何が来ようと、私が全力で守るわ。それに、この子の中には――あの方がいる)
夜風が、二人の髪を撫でていく。
空を見上げれば、雲の切れ間から、細い月が覗いていた。
腕の中の寝顔を見つめて、翠織は静かに唇を開く。
「――ありがとう」
風に溶けて消えた、その一言。
それが、命を懸けて自分たちを守ってくれた〝白雪姫〟へ向けたものなのか。
それとも、千年の時を越えて奇跡を起こした〝白櫻姫〟へ向けたものなのか。
――それを知る者は、この夜空の下に、ただ一人しかいなかった。
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