第16話:新たな予感
――あたたかい。
白く霞んだ意識の底で、白雪姫が最初に感じたのは、そんな曖昧な感覚だった。
誰かの腕。
誰かの体温。
重い瞼を、ゆっくりと持ち上げる。
――そして、視界に飛び込んできたのは。
「……起きた?」
「……せん、せい」
自分を抱きかかえたまま、そっと覗き込んでくる翠織の顔だった。
包み込むような、穏やかな声。
(……あったかい)
張り詰めていたものが、するりと解けていく。
まるで――本当の親に抱かれているみたいだ。
そんなことを思って、白雪姫は少しだけ身を預けた。
――だが。
意識が鮮明になっていくにつれて。
途切れ途切れの記憶が、奔流となって押し寄せてきた。
黒い翼。
吹き飛ばされた先生。
地面に叩きつけられた、蒼波。
――そして、あの、絶望的な魔力。
「……っ‼」
白雪姫は、弾かれたように顔を上げた。
周囲を、必死に見回す。
抉れた地面。
砕けたベンチ。
焼け焦げた土の匂い。
――戦いの痕跡は、確かに残っている。
けれど。
(……いない)
どこを見ても、あの魔《じん》神の姿はなかった。
「あの……先生っ……」
尋ねようと、口を開きかけて。
――その、瞬間だった。
「――っ」
脳の奥底から。
うっすらとした記憶の断片が、ふわりと浮かび上がってきた。
――舞い上がる、無数の花びら。
――炎を斬り裂く、華の刃。
――夜空を駆ける、百メートルの、竜。
(……なに、これ)
覚えている。
自分は、この光景を知っている。
――だが、白雪姫を戦慄させたのは、その内容ではなかった。
〝視点〟だ。
(……私、見上げてない)
魔神を、見下ろしていた。
自分の目で。
自分の手を、振り下ろして。
まるで――自分自身が、あれをやったかのように。
(……そんなわけ、ない)
あんな力、自分にあるはずがない。
なのに、記憶の手触りは、あまりにも生々しい。
思わず、自分の胸に右手を置く。
(……もしかして)
胸の奥で、言葉にならない予感が渦を巻く。
夢の中の、桜の少女。
何度も聞こえた、あの声。
『――わかりました』
(…………)
白雪姫は、開きかけた唇をそっと閉じた。
訊いてはいけない気がした。
いや――今訊いても、きっと答えは返ってこない。
そんな予感が、確かにあった。
「……白雪姫ちゃん?」
「……いえ。なんでも、ないです」
そう答えた、その時。
視界の端に、横たわる小さな影を捉えた。
「――蒼波ちゃんっ‼」
白雪姫は翠織の腕から転がるように抜け出し、必死に駆け寄った。
膝をつき、顔を覗き込む。
「蒼波ちゃん、蒼波ちゃん……!」
――すぅ――すぅ。
「…………あ」
小さな呼吸音が、静かに聞こえた。
胸が、規則正しく上下している。
あれほど無惨に折れていたはずの手足は、まっすぐに伸びていて。
制服についていた血の跡すら、どこにもない。
「……よかった」
安堵が、一気に押し寄せてきた。
白雪姫はそっと蒼波の手を取り、両手で包み込むように握りしめる。
――あたたかい。
さっきは、あんなに冷たくなっていたのに。
「……っ、よかった……」
ぽたり、ぽたりと。
こらえきれなくなった涙が、蒼波の手の甲に落ちた。
「蒼波ちゃんが……無事で……ほんとに、よかった……っ」
何度も、何度も。
白雪姫は、そう呟き続けた。
――少し離れたところで。
翠織は、その背中を黙って見つめていた。
(……ええ。本当に、よかったわ)
夜風が、荒れ果てたグラウンドを吹き抜けていく。
やがて三人は、静まり返った桜ケ丘小中学校を、そっとあとにした。
❆
帰りの車内は、不思議な静けさに満ちていた。
後部座席。
白雪姫は、まだ目を覚まさない蒼波の頭を膝の上に乗せ、その黒髪を何度も撫でていた。
――けれど、視線は。
流れていく車窓の外へと、向けられている。
(……なんか、変)
世界の見え方が、まるで違っていた。
窓の外を過ぎていく杉林。
闇に沈む田んぼ。
通り抜けていく、夜の空気。
そのすべてに満ちている〝何か〟を。
――今の白雪姫は、はっきりと感じ取ることができた。
(これが……霊力)
あんなに苦労して、何時間座っても掴めなかったものが。
今は、呼吸するように分かる。
(……なんで、急に)
――そして。
それだけでは、なかった。
胸の奥。〝魂〟の、いちばん深いところ。
そこに。
――とくん。
あたたかい、脈動があった。
(……いる)
自分の心臓とは違う、もう一つの鼓動のような。
(……そこに、いる)
白雪姫は、そっと自分の胸元に手を当てた。
怖くはなかった。
不思議と、少しも。
むしろ――どこか、懐かしくて。
運転席の翠織にも、膝の上の蒼波にも聞こえない、微かな声で。
白雪姫は、ぽつりと呟いた。
「……そこにいるんだね」
街灯の光が、窓の外を流れていく。
「――私の、知らない、私……」
返事は、なかった。
けれど。
胸に当てた手のひらの奥で。
その脈動が、ほんの少しだけ強くなった気がした。
❆
車が国道を半分ほど走った頃。
「……ん……」
膝の上で、蒼波が身じろぎした。
「――蒼波ちゃん⁉」
「……ここ……どこ……?」
うっすらと開かれた琥珀色の瞳が、ぼんやりと白雪姫を映す。
「気が付いたの⁉ よかった……!」
「気分はどう、蒼波ちゃん?」
バックミラー越しに、翠織が声をかけた。
「どこか、痛むところはない?」
「あ……翠織先生……」
ゆっくりと身を起こしながら、蒼波は何度も瞬きを繰り返す。
そして――ふいに、その顔色が変わった。
「――っ‼ うち、グラウンドで……‼」
記憶が、一気に戻ってきたのだろう。
「魔神が……先生が吹き飛ばされて、白雪姫ちゃんが首を掴まれて、それでうち……っ」
言いながら、蒼波は自分の身体をさすった。
――止まる。
「……あれ?」
脇腹。腕。脚。
「痛くない……?」
あれほどの激痛があったはずの場所には、傷ひとつ残っていない。
「そんな……骨、絶対に折れとったのに……」
混乱した顔で、蒼波は二人を見た。
「あの、あの魔神は……⁉ どうなったんですか⁉」
――白雪姫と翠織は、一瞬だけ視線を交わした。
「……安心して、蒼波ちゃん」
ハンドルを握ったまま、翠織が静かに言う。
「あの魔神はね。……通りすがりの、強い神子の方が倒してくださったのよ」
「…………え?」
「怪我も、その方が治してくださったの」
「通りすがりの……強い、神子……?」
蒼波は、しばらく無言だった。
(……いや、いやいや)
どう考えても、都合が良すぎる。
漫画でももう少し捻るだろう、という話だ。
(絶対、なんか隠してる)
――だが。
隣を見る。
白い髪の少女が、心配そうにこちらを覗き込んでいる。
自分は、生きている。
彼女も、生きている。
――それが、すべてだった。
「…………はぁ」
蒼波は、大きく息を吐いて。
そして。
「――っ、ふぇ……」
ぼろり、と。
琥珀色の瞳から、大粒の涙が零れ落ちた。
「え、蒼波ちゃん⁉」
止める間もなかった。
蒼波は、隣に座る白雪姫に思い切り抱きついた。
「うわっ……⁉」
「よかったぁ……っ‼」
首元に顔を埋め、ぎゅう、と力を込めて。
「白雪姫ちゃんが、無事で……ほんとに、よかったぁ……っ!」
その声は、震えていた。
「……っ」
白雪姫は、目を丸くした。
――同じだ。
ついさっき、グラウンドで自分が言った言葉と、まったく同じ。
(……ふふ)
胸の奥から、あたたかいものが込み上げてくる。
白雪姫はそっと腕を回し、その背中を抱き返した。
「……うん」
小さく、けれどはっきりと。
「私の方こそ、ありがとう」
「……え?」
「あんなに怖かったのに。動けんかったのに。……それでも、私を助けようとしてくれたやん」
「…………」
「嬉しかった。……ほんとに、嬉しかったよ。蒼波ちゃん」
――しばらく、車内には啜り泣く音だけが響いていた。
バックミラー越しにその様子を見て、翠織はそっと目を細める。
窓の外では、細い月が、夜の山あいをどこまでも追いかけてきていた。
❆
――そして、同じ頃。
白雪姫たちのいる場所から、遥か遠く離れた土地で。
「…………」
一人の少女が、夜空を見上げていた。
風になびく、腰まで届く艶やかな黒髪。
黒曜石のように深い、静かな瞳。
――ふと、その瞳が揺れた。
遠く、遥か遠くから。
風に乗って届いた、微かな――それでいて、あまりにも濃密な霊力の残滓。
千年。
千年、忘れたことのない気配。
「……この霊力」
声が、震えた。
喉が、うまく動かない。
「……まさか」
少女は、胸元をぎゅっと握りしめた。
「――白櫻姫ちゃん……?」
その呟きは、誰に届くこともなく。
春の夜風に、溶けて消えた。
❆
――さらに、時を同じくして。
場所は変わり。
轟々と滝の音が響き渡る、薄暗い洞窟の奥。
濃密な霊気が満ちる、凍てついた静寂の中。
岩肌に寄りかかるようにして、一人の少女が眠っていた。
純白の、長い髪。
小花柄の着物。
――その瞼が。
――ぱちり、と。
開いた。
「――……っ⁉」
水色の瞳が、大きく見開かれる。
胸元を、両手で押さえた。
震えている。
喜びなのか、戦慄なのか、自分でも分からないまま。
「……これは……この、あったかい気配は……」
少女は、ゆらりと立ち上がった。
滝の轟音の中へ、ほとんど掻き消えそうな声で。
――呟く。
「……白櫻姫様……なの……?」
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