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白雪の神子  作者: 日影ヱト
第02章:不死の炎
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序章:〝ふじわら〟紅葉

 ――千年前。


 まだ、彼女が〝神〟ではなかった頃の話。





❆





 その日の空は、不気味なほどに赤かった。


 都(みやこ)の外(はず)れ、風に草の波が走る野の上で。


 二人の少女がいた。


 片方の少女は、もう片方の少女に背を向け、赤い空を見上げていた。


「行かないで」


 黒い袿(うちき)袴(ばかま)の――背を向けている少女を見つめる、もう片方の少女が、震える声でそう言った。


 肩まで届く豊かな黒髪。

 黒曜石のように深い、黒の瞳。


 ――彼女の名は、〝藤(ふじ)原(わら)紅葉(もみじ)〟。


「お願い、白櫻姫(こさき)ちゃん。……行かないで」


 その手が、目の前の少女の袖をきつく掴んでいる。


 掴まれているのは、純白の袿袴に身を包んだ、小柄な少女だった。


 雪のように白い長髪。

 春の花を溶かしたような、桜色の瞳。


 ――その少女の名は、〝椿(つばきの)宮(みや)白櫻姫(こさき)〟。


 当時、都で〝才に溢れた神(み)子(こ)〟と噂された、たった十二歳の少女である。


「紅葉(もみじ)」


 白櫻姫(こさき)は、静かに微(ほほ)笑(え)んだ。


「わたくしが行かなければ、この世は滅ぶわ。だから――」


「そんなの、他の誰かがやればいいじゃない……! もっと強い神子だって、大人だって、いっぱいいるでしょ⁉」


「……ええ。たくさんおられるわ」


「なら――」


「けれど」


 白櫻姫(こさき)は、ゆっくりと首を横に振った。


「あの魔神に手が届くのは、わたくしだけだと……」


「…………」


 紅葉(もみじ)は、言葉に詰まった。


 ――知っていた。


 この友が、どれほど桁外れの存在なのかを。


 生まれつきの白髪と桜色の瞳。

 誰も真似できない、異次元の霊力。


 だから彼女は、周囲から畏(おそ)れられ、疎(うと)まれ、そして――〝道具〟のように、戦場へ送り出される。


「……ずるい」


 紅葉(もみじ)の目に、涙が滲んだ。


「そんなの、ずるいよ……」


「ずるい……って?」


「白櫻姫(こさき)ちゃんばっかり。……なんで、いつもあなたなの」


 ――紅葉(もみじ)もまた、神子だった。


 由緒正しい神子の家系に生まれた娘。


 ――だが。


 彼女の霊力は、十二年経っても、微(み)塵(じん)も開花しなかった。


 落ちこぼれ。

 出来損ない。

 神子の恥さらし。


 そう呼ばれ続けてきた。


 父にも、母にも、兄たちにも、姉にも、弟にすら。


 家の中に、彼女の居場所はどこにもなかった。


 ――ただ一人。


 この、白櫻姫(こさき)を除いては。


 彼女だけが、紅葉(もみじ)を〝落ちこぼれ〟として見なかった。


 当たり前のように隣に座り、当たり前のように名を呼び、当たり前のように、笑ってくれた。


(この人だけは……この人だけは、失いたくない)


 だから。


「私も行く」


 紅葉(もみじ)は、そう言ってしまった。


「……――⁉」


「私も、一緒に行く! 力にはなれないかもしれないけど、それでも――」


「――紅葉(もみじ)」


 いつも柔らかな声が、初めて、冷たく響いた。


「あなたは、ここにいなさい」


「っ……!」


「いいえ。ここも危なくなるだろうから……もっと、遠くへ」


「いやだ‼」


 紅葉(もみじ)は叫んだ。


 みっともないと分かっていた。

 足手まといだと、自分が一番知っていた。


 それでも。


「白櫻姫(こさき)ちゃんがいなくなったら、私……っ、私、また独(ひと)りに――」


 ――ふわり。


 その時、風が吹いた。


 春でもないのに、甘(あま)やかな花の香りを孕んだ風が。


「――え」


 足元の草が、みるみる伸び上がった。


 みずみずしい蔓(つる)が、紅葉(もみじ)の両手首に絡みつく。


「な……っ、白櫻姫(こさき)ちゃん⁉」


「ごめんね」


 白櫻姫(こさき)は、ほんとうに申し訳なさそうに眉を下げた。


「けれど、あなたを連れて行くわけにはいかないから」


「離して……っ! 離してよぉっ‼」


 もがく。

 全身で暴れる。


 ――だが、しょせんは開花もしていない身だ。


 優しく、しかし決して緩まない緑の腕は、紅葉(もみじ)の身体をふわりと抱え上げた。


「紅葉(もみじ)」


 遠ざかっていく友の姿。


 その唇が、静かに動いた。


「わたくしの友でいてくれて、ありがとう」


「――やだ‼」


 草の腕に運ばれながら、紅葉(もみじ)は限界まで叫んだ。


「白櫻姫(こさき)ちゃん‼ 白櫻姫(こさき)ちゃんっ‼」


 ――白櫻姫(こさき)は、振り返らなかった。


 白い髪をなびかせ、赤い空の下を、たった一人で歩いていった。





❆





 ――そして、戦いは終わった。




 どれほど時間が経ったのか、紅葉(もみじ)には分からない。


 拘束が解けた瞬間、彼女は転げるように走り出していた。


 草を踏み、石に躓(つまず)き、爪を割りながら。


 やがて辿り着いたそこは――地(じ)獄(ごく)のような光景だった。


 抉れ、焼き尽くされ、焦土化した大地。

 なぎ倒された森。

 灰が漂っている空気。

 それに加え黒い霧が、まだ薄く漂っている。


 その中央に。


「……白櫻姫(こさき)……ちゃん……?」


 白い人型が、倒れていた。


「――白櫻姫(こさき)ちゃんっ‼」


 紅葉(もみじ)は、駆け寄って膝をついた。


 純白だったはずの袿袴は、見(み)紛(まが)うほどに赤く染まっている。


「白櫻姫(こさき)ちゃん、白櫻姫(こさき)ちゃん……! 起きて、お願い、起きてよ……!」


 何度も、何度も、その名を呼んだ。


 ――やがて。


「…………ん」


 薄く。


 桜色の瞳が、開いた。


「……紅葉(もみじ)」


「白櫻姫(こさき)ちゃん……‼」


「……来てしまったのね。……いけない子」


 紅葉(もみじ)は、涙でぐしゃぐしゃになった顔を必死に拭(ぬぐ)った。


「勝ったの……⁉ あの魔神は……」


「ええ。……ちゃんと、倒したよ」


「そう……そっか、よかった……!」


 安堵で、腰が抜けそうになる。


 ――そうだ。


 この子なら、大丈夫。


「早く傷、治して? 白櫻姫(こさき)ちゃんなら、こんな怪我すぐに――」


「…………ふふ」


「……え?」


「……もう、霊力が」


 白櫻姫(こさき)は、力なく微笑んだ。


「全く、残っていないの」


「…………ぇ」


 世界の音が、遠のいた。


「うそ……そんな……っ」


 傷口を押さえようと手を伸ばす。

 だが、溢れる血は指の間から零れるばかりだった。


(――なんで)


(なんで、私は)


 少しの霊力も操れない。

 霊術一つ使えない。

 傷一つ塞げない。


 一番大切な友が、目の前で消えていくというのに。


(なんで、私は――こんなに、無力なの……‼)


「紅葉(もみじ)」


 白櫻姫(こさき)の声は、驚くほど穏やかだった。


「大丈夫だよ」


「なにが……なにが、大丈夫なの……っ」


「……向こうで、待っているから」


 ――別れの、言葉だった。


「いやだ‼」


 紅葉(もみじ)は、その手を両手で掴んだ。


「いやだよ、白櫻姫(こさき)ちゃん……! 置いていかないで……っ! 一緒にいてよ……ずっと、一緒にいてよぉ……‼」


「…………」


 白櫻姫(こさき)の腕が、震えながら持ち上がる。


 血に濡れた指先が、紅葉(もみじ)の頬にそっと触れた。


 ――あたたかい。


 まだ、あたたかい。


「紅葉(もみじ)」


 その唇が、優しく綻(ほころ)んだ。


「あなたが友で――わたくしは、幸せだったわ」


「――っ、あ」


 ――ぱたり。


 頬に添えられていた手が、力を失い。


 乾いた大地へ、落ちた。


「…………ぇ」


 紅葉(もみじ)は、しばらく動けなかった。


「……ねえ」


 肩を、揺する。


「白櫻姫(こさき)ちゃん。……ねえってば」


 揺すっても、揺すっても。


「起きてよ。……起きてってば……!」


 ――返事は、なかった。


 やがて。


 その小さな身体が、淡い光の粒となって、天へと昇り始めた。


「……え?」


 ――それは、〝神界〟への引き上げだった。


 魔神を討ち果たした者に与えられる、神への昇格。


 ――だが、そんなことを紅葉(もみじ)が知る由(よし)もない。


 彼女の目には、ただ。


 友の身体が、跡形もなく消えていくようにしか、見えなかった。


「……いや」


 伸ばした手が、光を掴み損ねる。


「いやだ……いや……」


 空っぽになった腕の中を、見つめて。


「――いやだあああああああああああっ‼」


 紅葉(もみじ)は、絶叫した。




 ――その、瞬間だった。




 ――ゴォッ‼


 紅(くれない)の炎が、大地から噴き上がった。


「……っ⁉」


 少女を中心に、業火が渦を巻く。


 草が焼け、風が渦巻き、赤い空をさらに赤く染め上げていく。


 そして――背に。


 燃え盛る炎が、大きく、大きく広がった。


 鳥の、翼のように。


「あ……ああ……」


 流れ落ちる涙を映す瞳は。


 もはや、黒ではなかった。


 ――紅(くれない)。


 燃え尽きる寸前の紅(こう)葉(よう)のような、鮮烈な紅。


 その右手には、いつの間にか。


 柄に青い宝玉を嵌(は)め込んだ、炎(ほのお)を纏(まと)う刀(とう)身(しん)の剣が握られていた。


 ――皮肉な話だった。


 十二年、どんな祈りにも、どんな修練にも応えなかった魂(たましい)。


 それが。


 〝友を失った〟という、たった一つの絶望によって。


 命ごと燃やし尽くすほどの霊力を――咲かせてしまったのだ。


「……こさ、き……ちゃん……」


 誰もいない焦土の真ん中で。


 少女は、炎の翼を広げたまま、いつまでも泣いていた。


 ――それが。


 彼女が〝不死〟となった、始まりの日だった。





❆





 ――そして、千(せん)年(ねん)の時が流れる。





❆





 ――ガタン、ゴトン。


 バスが、小さく揺れた。


「…………」


 窓際の席で、一人の少女が頬杖をついていた。


 腰まで届く、艶やかな黒髪。

 深い黒の瞳。


 どこにでもいる、中学生くらいの少女に見える。


 ――誰も、彼女が千年を生きているとは思わないだろう。


 名を、〝不(ふ)死(じ)原(わら)紅葉(もみじ)〟という。


 ――かつての姓は、藤(ふじ)原(わら)。


 霊力が開花し、老いも死も失った日から、彼女は自らその字を書き換えた。


 あの家に、もう未練などなかったから。


 かつては肩までの長さだった髪は、腰まで伸びたことで、雰囲気は大人びている。


「――次は、貝(かい)の畑(はた)。貝の畑――」


 車内アナウンスが、静かに響く。


 窓の外を、見慣れない景色が流れていく。


 青々とした山。

 どこまでも続く田畑。

 角のような岩壁を持つ、大きな山。


(……宮(みや)崎(ざき)なんて。初めて来たかも)


 紅葉(もみじ)は、ガラスに額を寄せた。


 ――昨夜。


 遥か遠くの空から、それは届いた。


 微(かす)かで、けれど確かな、あの霊力。


 千年間、ただの一度も忘れたことのない、あたたかい気配。


 ――桜の、匂い。


(……見間違いなんかじゃない)


 彼女の霊術【永遠記憶(えいえんきおく)】。


 それは、一度見たもの、聞いたもの、触れたものを決して忘れさせない。


 千年もの記憶を保持することができ、長く生きる紅葉(もみじ)が認知症などにならない力でもある。


 千年前のあの日の、彼女の霊力の質を。

 声を。

 最後に頬に触れた、指先の温度を。


 ――何ひとつ、色褪せさせないまま抱えて生きてきた。


 だからこそ、断言できる。


(あれは、白櫻姫(こさき)ちゃんの霊力)


 ――だが。


(……でも、おかしい)


 紅葉(もみじ)の眉が、微(かす)かに寄る。


 あの子は、死んだ。


 自分の腕の中で、確かに息絶えた。


 千年もの間、あらゆる土地を巡り、あらゆる神子に尋ね、あらゆる文献を漁ってきたが。


 ――一度たりとも、その気配を感じたことはなかった。


 それが、なぜ今になって。


 しかも、この九州の片隅で。


(……分からない)


 膝の上で、指をきゅっと握りしめる。


(分からないけど)


 窓ガラスに映る、自分の顔。


 十二歳のまま、時を止めた顔。


(――行かなきゃ)


 もしも。


 万にひとつ、あの子がまだ、どこかで生きているのなら。


(今度こそ)


 千年前、動けなかった手を。


(今度こそ、私が――)


 ――プシュウ、と。


 空気の抜ける音を立てて、バスが停まった。


「貝の畑。お降りの方は――」


「…………」


 紅葉(もみじ)は、静かに立ち上がった。


 小さなボストンバッグを肩にかけ、ステップを降りる。


 ――ふわ、と。


 春の風が、黒髪を大きく巻き上げた。


 顔を上げる。


「……一番近いのがここだったけど、それでも少し歩くのよね」


 バスから降りた紅葉(もみじ)は、そのまま目的地へ歩を進める。


 ――そして、辿り着いた。


 目の前には、緑に囲まれた、こぢんまりとした学校。


 その背後には、〝さくらがおか〟と呼ばれる小高い丘。

 そして、校舎を見下ろす巨大なイチイガシの大木。


 ――そして、この地に、まだ濃く残る霊力の残り香。


「…………ここ、だ」


 紅葉(もみじ)は、ぽつりと呟いた。


 千年ぶりに。


 その黒い瞳の奥に、微(かす)かな熱が灯る。


「……待っててね、白櫻姫(こさき)ちゃん」


 ――少女は、校門をくぐった。





ここまで読んでいただきありがとうございます!

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