序章:〝ふじわら〟紅葉
――千年前。
まだ、彼女が〝神〟ではなかった頃の話。
❆
その日の空は、不気味なほどに赤かった。
都の外れ、風に草の波が走る野の上で。
二人の少女がいた。
片方の少女は、もう片方の少女に背を向け、赤い空を見上げていた。
「行かないで」
黒い袿袴の――背を向けている少女を見つめる、もう片方の少女が、震える声でそう言った。
肩まで届く豊かな黒髪。
黒曜石のように深い、黒の瞳。
――彼女の名は、〝藤原紅葉〟。
「お願い、白櫻姫ちゃん。……行かないで」
その手が、目の前の少女の袖をきつく掴んでいる。
掴まれているのは、純白の袿袴に身を包んだ、小柄な少女だった。
雪のように白い長髪。
春の花を溶かしたような、桜色の瞳。
――その少女の名は、〝椿宮白櫻姫〟。
当時、都で〝才に溢れた神子〟と噂された、たった十二歳の少女である。
「紅葉」
白櫻姫は、静かに微笑んだ。
「わたくしが行かなければ、この世は滅ぶわ。だから――」
「そんなの、他の誰かがやればいいじゃない……! もっと強い神子だって、大人だって、いっぱいいるでしょ⁉」
「……ええ。たくさんおられるわ」
「なら――」
「けれど」
白櫻姫は、ゆっくりと首を横に振った。
「あの魔神に手が届くのは、わたくしだけだと……」
「…………」
紅葉は、言葉に詰まった。
――知っていた。
この友が、どれほど桁外れの存在なのかを。
生まれつきの白髪と桜色の瞳。
誰も真似できない、異次元の霊力。
だから彼女は、周囲から畏れられ、疎まれ、そして――〝道具〟のように、戦場へ送り出される。
「……ずるい」
紅葉の目に、涙が滲んだ。
「そんなの、ずるいよ……」
「ずるい……って?」
「白櫻姫ちゃんばっかり。……なんで、いつもあなたなの」
――紅葉もまた、神子だった。
由緒正しい神子の家系に生まれた娘。
――だが。
彼女の霊力は、十二年経っても、微塵も開花しなかった。
落ちこぼれ。
出来損ない。
神子の恥さらし。
そう呼ばれ続けてきた。
父にも、母にも、兄たちにも、姉にも、弟にすら。
家の中に、彼女の居場所はどこにもなかった。
――ただ一人。
この、白櫻姫を除いては。
彼女だけが、紅葉を〝落ちこぼれ〟として見なかった。
当たり前のように隣に座り、当たり前のように名を呼び、当たり前のように、笑ってくれた。
(この人だけは……この人だけは、失いたくない)
だから。
「私も行く」
紅葉は、そう言ってしまった。
「……――⁉」
「私も、一緒に行く! 力にはなれないかもしれないけど、それでも――」
「――紅葉」
いつも柔らかな声が、初めて、冷たく響いた。
「あなたは、ここにいなさい」
「っ……!」
「いいえ。ここも危なくなるだろうから……もっと、遠くへ」
「いやだ‼」
紅葉は叫んだ。
みっともないと分かっていた。
足手まといだと、自分が一番知っていた。
それでも。
「白櫻姫ちゃんがいなくなったら、私……っ、私、また独りに――」
――ふわり。
その時、風が吹いた。
春でもないのに、甘やかな花の香りを孕んだ風が。
「――え」
足元の草が、みるみる伸び上がった。
みずみずしい蔓が、紅葉の両手首に絡みつく。
「な……っ、白櫻姫ちゃん⁉」
「ごめんね」
白櫻姫は、ほんとうに申し訳なさそうに眉を下げた。
「けれど、あなたを連れて行くわけにはいかないから」
「離して……っ! 離してよぉっ‼」
もがく。
全身で暴れる。
――だが、しょせんは開花もしていない身だ。
優しく、しかし決して緩まない緑の腕は、紅葉の身体をふわりと抱え上げた。
「紅葉」
遠ざかっていく友の姿。
その唇が、静かに動いた。
「わたくしの友でいてくれて、ありがとう」
「――やだ‼」
草の腕に運ばれながら、紅葉は限界まで叫んだ。
「白櫻姫ちゃん‼ 白櫻姫ちゃんっ‼」
――白櫻姫は、振り返らなかった。
白い髪をなびかせ、赤い空の下を、たった一人で歩いていった。
❆
――そして、戦いは終わった。
どれほど時間が経ったのか、紅葉には分からない。
拘束が解けた瞬間、彼女は転げるように走り出していた。
草を踏み、石に躓き、爪を割りながら。
やがて辿り着いたそこは――地獄のような光景だった。
抉れ、焼き尽くされ、焦土化した大地。
なぎ倒された森。
灰が漂っている空気。
それに加え黒い霧が、まだ薄く漂っている。
その中央に。
「……白櫻姫……ちゃん……?」
白い人型が、倒れていた。
「――白櫻姫ちゃんっ‼」
紅葉は、駆け寄って膝をついた。
純白だったはずの袿袴は、見紛うほどに赤く染まっている。
「白櫻姫ちゃん、白櫻姫ちゃん……! 起きて、お願い、起きてよ……!」
何度も、何度も、その名を呼んだ。
――やがて。
「…………ん」
薄く。
桜色の瞳が、開いた。
「……紅葉」
「白櫻姫ちゃん……‼」
「……来てしまったのね。……いけない子」
紅葉は、涙でぐしゃぐしゃになった顔を必死に拭った。
「勝ったの……⁉ あの魔神は……」
「ええ。……ちゃんと、倒したよ」
「そう……そっか、よかった……!」
安堵で、腰が抜けそうになる。
――そうだ。
この子なら、大丈夫。
「早く傷、治して? 白櫻姫ちゃんなら、こんな怪我すぐに――」
「…………ふふ」
「……え?」
「……もう、霊力が」
白櫻姫は、力なく微笑んだ。
「全く、残っていないの」
「…………ぇ」
世界の音が、遠のいた。
「うそ……そんな……っ」
傷口を押さえようと手を伸ばす。
だが、溢れる血は指の間から零れるばかりだった。
(――なんで)
(なんで、私は)
少しの霊力も操れない。
霊術一つ使えない。
傷一つ塞げない。
一番大切な友が、目の前で消えていくというのに。
(なんで、私は――こんなに、無力なの……‼)
「紅葉」
白櫻姫の声は、驚くほど穏やかだった。
「大丈夫だよ」
「なにが……なにが、大丈夫なの……っ」
「……向こうで、待っているから」
――別れの、言葉だった。
「いやだ‼」
紅葉は、その手を両手で掴んだ。
「いやだよ、白櫻姫ちゃん……! 置いていかないで……っ! 一緒にいてよ……ずっと、一緒にいてよぉ……‼」
「…………」
白櫻姫の腕が、震えながら持ち上がる。
血に濡れた指先が、紅葉の頬にそっと触れた。
――あたたかい。
まだ、あたたかい。
「紅葉」
その唇が、優しく綻んだ。
「あなたが友で――わたくしは、幸せだったわ」
「――っ、あ」
――ぱたり。
頬に添えられていた手が、力を失い。
乾いた大地へ、落ちた。
「…………ぇ」
紅葉は、しばらく動けなかった。
「……ねえ」
肩を、揺する。
「白櫻姫ちゃん。……ねえってば」
揺すっても、揺すっても。
「起きてよ。……起きてってば……!」
――返事は、なかった。
やがて。
その小さな身体が、淡い光の粒となって、天へと昇り始めた。
「……え?」
――それは、〝神界〟への引き上げだった。
魔神を討ち果たした者に与えられる、神への昇格。
――だが、そんなことを紅葉が知る由もない。
彼女の目には、ただ。
友の身体が、跡形もなく消えていくようにしか、見えなかった。
「……いや」
伸ばした手が、光を掴み損ねる。
「いやだ……いや……」
空っぽになった腕の中を、見つめて。
「――いやだあああああああああああっ‼」
紅葉は、絶叫した。
――その、瞬間だった。
――ゴォッ‼
紅の炎が、大地から噴き上がった。
「……っ⁉」
少女を中心に、業火が渦を巻く。
草が焼け、風が渦巻き、赤い空をさらに赤く染め上げていく。
そして――背に。
燃え盛る炎が、大きく、大きく広がった。
鳥の、翼のように。
「あ……ああ……」
流れ落ちる涙を映す瞳は。
もはや、黒ではなかった。
――紅。
燃え尽きる寸前の紅葉のような、鮮烈な紅。
その右手には、いつの間にか。
柄に青い宝玉を嵌め込んだ、炎を纏う刀身の剣が握られていた。
――皮肉な話だった。
十二年、どんな祈りにも、どんな修練にも応えなかった魂。
それが。
〝友を失った〟という、たった一つの絶望によって。
命ごと燃やし尽くすほどの霊力を――咲かせてしまったのだ。
「……こさ、き……ちゃん……」
誰もいない焦土の真ん中で。
少女は、炎の翼を広げたまま、いつまでも泣いていた。
――それが。
彼女が〝不死〟となった、始まりの日だった。
❆
――そして、千年の時が流れる。
❆
――ガタン、ゴトン。
バスが、小さく揺れた。
「…………」
窓際の席で、一人の少女が頬杖をついていた。
腰まで届く、艶やかな黒髪。
深い黒の瞳。
どこにでもいる、中学生くらいの少女に見える。
――誰も、彼女が千年を生きているとは思わないだろう。
名を、〝不死原紅葉〟という。
――かつての姓は、藤原。
霊力が開花し、老いも死も失った日から、彼女は自らその字を書き換えた。
あの家に、もう未練などなかったから。
かつては肩までの長さだった髪は、腰まで伸びたことで、雰囲気は大人びている。
「――次は、貝の畑。貝の畑――」
車内アナウンスが、静かに響く。
窓の外を、見慣れない景色が流れていく。
青々とした山。
どこまでも続く田畑。
角のような岩壁を持つ、大きな山。
(……宮崎なんて。初めて来たかも)
紅葉は、ガラスに額を寄せた。
――昨夜。
遥か遠くの空から、それは届いた。
微かで、けれど確かな、あの霊力。
千年間、ただの一度も忘れたことのない、あたたかい気配。
――桜の、匂い。
(……見間違いなんかじゃない)
彼女の霊術【永遠記憶】。
それは、一度見たもの、聞いたもの、触れたものを決して忘れさせない。
千年もの記憶を保持することができ、長く生きる紅葉が認知症などにならない力でもある。
千年前のあの日の、彼女の霊力の質を。
声を。
最後に頬に触れた、指先の温度を。
――何ひとつ、色褪せさせないまま抱えて生きてきた。
だからこそ、断言できる。
(あれは、白櫻姫ちゃんの霊力)
――だが。
(……でも、おかしい)
紅葉の眉が、微かに寄る。
あの子は、死んだ。
自分の腕の中で、確かに息絶えた。
千年もの間、あらゆる土地を巡り、あらゆる神子に尋ね、あらゆる文献を漁ってきたが。
――一度たりとも、その気配を感じたことはなかった。
それが、なぜ今になって。
しかも、この九州の片隅で。
(……分からない)
膝の上で、指をきゅっと握りしめる。
(分からないけど)
窓ガラスに映る、自分の顔。
十二歳のまま、時を止めた顔。
(――行かなきゃ)
もしも。
万にひとつ、あの子がまだ、どこかで生きているのなら。
(今度こそ)
千年前、動けなかった手を。
(今度こそ、私が――)
――プシュウ、と。
空気の抜ける音を立てて、バスが停まった。
「貝の畑。お降りの方は――」
「…………」
紅葉は、静かに立ち上がった。
小さなボストンバッグを肩にかけ、ステップを降りる。
――ふわ、と。
春の風が、黒髪を大きく巻き上げた。
顔を上げる。
「……一番近いのがここだったけど、それでも少し歩くのよね」
バスから降りた紅葉は、そのまま目的地へ歩を進める。
――そして、辿り着いた。
目の前には、緑に囲まれた、こぢんまりとした学校。
その背後には、〝さくらがおか〟と呼ばれる小高い丘。
そして、校舎を見下ろす巨大なイチイガシの大木。
――そして、この地に、まだ濃く残る霊力の残り香。
「…………ここ、だ」
紅葉は、ぽつりと呟いた。
千年ぶりに。
その黒い瞳の奥に、微かな熱が灯る。
「……待っててね、白櫻姫ちゃん」
――少女は、校門をくぐった。
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