第01話:いつもの日常?
春の朝の空気は、山の匂いがする。
まだ人の気配のない〝つどいの広場〟に、白雪姫はぽつんと一人で立っていた。
朝の集いや夕べの集いが行われる、石段状に組まれた広場。
今はただ、鳥の声と葉擦れの音だけが満ちている。
「…………よし」
小さく息を吐いて、白雪姫は両手を前に突き出した。
――昨夜のことが、まだ夢のようだった。
魔蝕者。
魔神。
そして、自分の中の〝誰か〟。
(ちょっとだけ……確かめたい)
目を閉じる。
身体の内側へ、意識を落としていく。
――途端に。
(……ある)
あっけないほど、すぐに見つかった。
冷たく、澄んだ、大きなうねり。
昨日まで、何時間座っても掴めなかったもの。
それが今は、呼吸をするように、そこにある。
(……いく、よ……っ)
霊力を、手のひらへ。
――ゴォッ‼
「わっ⁉」
――猛烈な突風だった。
雪の粒を巻き込んだ白い奔流が、広場を吹き抜けていく。
完全に気を抜いていた下半身が、反動に負けた。
「うわ、わ――っ、きゃっ!」
――どすん。
尻もちを、ついた。
「……いった……」
しばらく、白雪姫はぺたんと座り込んだまま、自分の手のひらを見つめていた。
(……こんなに、簡単に?)
魔蝕者に放った時。
魔神に放った時。
あの時は、全身を捻じ切るような思いで、必死に絞り出したのだ。
それが今は――蛇口をひねるように、するりと出た。
(これが、〝制御〟が上がったってこと……?)
立ち上がり、スカートの土を払う。
次に目についたのは、広場の隅に据えられた大きめの岩だった。
装飾用に置かれているものだろう。
「……ん、しょ……っ」
両腕を回し、持ち上げようとする。
――びくともしない。
「……やっぱり」
当然だ。自分は十二歳の、しかも小柄な女子である。
――だが。
(……たしか、翠織先生は)
――これくらいなら霊力を使えば朝飯前よ。
あの日、片手でタンスを持ち上げた細腕を思い出す。
(体に、纏わせる感じ……かな)
目を閉じ、身体の中を巡るものを、腕と脚へ意識して流し込む。
――じん、と。
指先が、熱を持った。
「……もう一回」
岩に手をかける。
力を込めた、その瞬間。
――ぬるり。
「……えっ」
持ち上がった。
あまりにも、あっさりと。
まるで、発泡スチロールの塊でも抱えているような手応えのなさ。
「わ、わ、わっ⁉」
さすがに怖くなって、数センチ浮かせたところで、白雪姫は慌てて岩を下ろした。
――ゴトン。
朝の広場に、鈍い音が響く。
「…………すごい」
自分の手のひらを、まじまじと見つめる。
昨日までは、第一段階の〝感知〟すら怪しかった。
蒼波がすぐにできることを、何時間かけてもできなくて。
――足を引っ張るんじゃないかと、あんなに俯いていたのに。
(それが今は……第二段階も、第三段階も)
考えるより先に、身体が勝手にやってしまう。
(……なんで、急に?)
答えは、出ない。
――だが。
「……ふふっ」
思わず、笑みが零れた。
嬉しかったのだ。
できなかったことが、できるようになる。
たったそれだけのことが、こんなにも。
――と。
その時、施設の窓に朝日が反射した。
「……あ。もうこんな時間」
もう少し練習したいところだが、そろそろ出発しなければ遅刻してしまう。
白雪姫は広場に向かって小さくお辞儀をすると、小走りで宿泊棟へ戻っていった。
❆
「――今日から自転車通学、で合ってる?」
玄関先で自転車のスタンドを蹴り上げながら、蒼波が首を傾げた。
「うん。翠織先生がそう言っちょった」
昨日は、車での送迎だった。
あの時は理由を知らされなかったが――今なら分かる。
学校の周辺で観測されていた、魔力の異常。
――それも、昨夜で消えた。
「魔蝕者も魔神も倒したから、もう反応はないって」
「……なるほどね」
「だから、今日から普通に通っていいって」
「よし。じゃあ、行こっか」
二人はヘルメットを被り、ペダルに足をかけた。
❆
――行縢からの道は、まず長い下り坂で始まる。
「うわ、はやっ……!」
「白雪姫ちゃん、ブレーキ! ブレーキ!」
春の風が、ごうごうと耳元を鳴らしていく。
少し冷たくて、でも心地よくて。
白い髪が、ヘルメットの下から後ろへ長くたなびいた。
「気持ちいいねぇ……!」
「たしかに気持ちいいっちゃけど」
蒼波が、げんなりした声で言った。
「……帰り、これ上るとよね?」
「…………」
「……ねえ、白雪姫ちゃん?」
「……その話は、帰りにしよ」
二人は、そろって遠い目になった。
坂を下りきると、道はゆるやかな平地へと変わる。
右手に見えてきたのは、木の看板を掲げた小さな喫茶店。
――〝しふぉんかふぇ早春〟。
「あ、ここ。ケーキ屋さん……?」
「和食のお店だったかな。私がちっちゃい頃からあるよ」
「へえ。……今度、行ってみたいな」
「うん、行こ行こ」
しばらく行くと、行縢公民館の前を通り過ぎた。
そこから先は、どこまでも広がる田園地帯だ。
水を張ったばかりの田んぼが、朝日を受けて鏡のように光っている。
あぜ道には、名も知らぬ小さな花。
電線には、並んだ燕。
(……こんなに、綺麗やったんや)
白雪姫は、ペダルを踏みながら思った。
小学生の頃、この道は基本的に車で通っていた。
窓の外を流れていくだけだった景色。
それが今は、風の匂いも、鳥の声も、土の湿り気も、全部が肌に届く。
(……いつも通ってた道なのに)
新鮮だった。
まるで、初めて訪れる場所のように。
やがて、下舞野橋を渡る。
橋の下を流れる川が、朝日をきらきらと弾いていた。
橋を越えると――ぱっと、視界が黄色に染まった。
「……わあ」
下舞野神社の前に広がる、菜の花畑。
一面の黄色が、風にゆっくりと波打っている。
「白雪姫ちゃん、すごいねこれ」
「うん。この時期だけなんよ」
春だった。
どこを切り取っても、疑いようもなく、春だった。
❆
やがて二人は、小学部の通学路に差しかかった。
小学部の生徒は、入学式や運動会などの行事を除いて、車での送迎はここまでと決められている。
――もっとも、体調が悪い時などは、その限りではないが。
だから、ここから先の道には。
黄色い帽子とランドセルが、ずらりと連なっていた。
「あ」
「……見られちょんね」
ヘルメットは被っている。
それでも、その下から溢れて風にたなびく、腰までの白い髪は。
――どうしようもなく、目立った。
「ねえ、あの人……」
「入学式のときの、白いお姉ちゃんや!」
「うわ、ほんとに真っ白」
ひそひそと、声が届いてくる。
(……うん。まあ、そうなるよね)
白雪姫は、心の中で小さく苦笑した。
――前ほど、怖くはない。
ある程度は、慣れた。
それでも、気にならないと言えば、やっぱり嘘になる。
「……大丈夫?」
前を走る蒼波が、ちらりとこちらを振り向いた。
「うん。……ありがと」
――と。
「白雪姫おねえちゃーん!」
「……え?」
沿道の列の中から、小さな手がぶんぶんと振られていた。
ランドセルが歩いているような、小さな女の子。
――入学式で、手を繋いだあの子だった。
「あ……!」
白雪姫の顔が、ぱっと明るくなる。
「おはよう! 気をつけて行くとよ!」
「はーい!」
手を振り返して、二人はその横を走り抜けていった。
「……ふふ」
「なに?」
「なんでもない」
蒼波は前を向いたまま、ちょっとだけ笑った。
❆
学校に着いて――白雪姫が最初に驚いたのは、校庭だった。
「……え、うそ」
自転車を停めて、思わず立ち尽くす。
第一グラウンド。
あれほど抉れていた地面が、綺麗に均されている。
炎で焼け焦げた土も。
砕け散ったベンチも。
一面に降りていた霜も。
――何ひとつ、残っていなかった。
「……ほんとに、跡形もないね」
隣で、蒼波も目を丸くしている。
昨夜のあれが、まるごと夢だったと言われても信じてしまいそうだ。
――今朝、出がけに翠織はこう言っていた。
――学校みたいな公共施設や、人目につく場所の戦闘痕はね。組織が可能な限り消してしまうのよ。
――そうしないと、私たちの存在そのものが表に出てしまうから。
(……組織の人たちが、夜のうちに)
自分たちが眠っている間に、誰かがここへ来て、これを直したのだ。
(……すごい。というか)
白雪姫は、そっとグラウンドを見渡した。
(そこまでして、隠さんといかん世界なんやね)
新しい日常が始まる場所で。
昨夜の非日常だけが、綺麗に拭い去られていた。
❆
そして――いつも通りの授業が始まった。
一時間目。国語。
教科書を朗読する声。
黒板にチョークが走る音。
誰かがくしゃみをして、小さく笑いが起きる。
昨日の夜、あんなことがあったなんて。
この教室の誰も知らない。
(……なんか、不思議な感じ)
ノートに文字を書きながら、白雪姫はぼんやりとそう思った。
――その、時だった。
――とくん。
「……っ」
背筋を、微かな漣が撫でた。
(え……?)
思わず、白雪姫は顔を上げた。
教室は、何も変わっていない。
先生の声も、隣の席のペンの音も、いつも通り。
――だが。
(……なにか、ある)
窓の外。
校舎の裏手。
――かつて〝桜ケ丘中学校〟が建っていた場所に、今も一部だけ取り残されている、あの旧校舎。
あの方角から。
澄んだ、けれど確かに濃い〝霊力〟が、じわりと漂ってきていた。
(……昨日の、あれとは違う)
魔物や魔神が纏っていた、あの粘着く重さはない。
どちらかといえば、清らかな気配。
(……だったら、危なくは、ないんかな)
少しだけ肩の力を抜いて、それでも白雪姫は窓の外を見つめ続けた。
――と。
(……あれ?)
妙なことに、気がついた。
(……気になっちょっと、私……?)
胸の奥。
自分の意思とは別のところが、その気配へ引き寄せられている。
まるで、内側からそっと袖を引かれているような。
(……この感じ)
昨日、車の中で感じたのと同じだ。
自分の中にいる――〝もう一人の私〟。
(……あなたが、気にしちょっと?)
答えはない。
ただ、脈動が少しだけ強くなった気がした。
白雪姫は、そっと右隣を窺った。
蒼波は、真面目な顔で板書を写している。
――気づいて、いない。
(……そっか)
昨日までは、逆だった。
感知でも制御でも、蒼波のほうがずっと先を歩いていたのに。
(今は、私のほうが……感じ取れてる)
それに、使われなくなった校舎や建物というのは、そもそも霊力が溜まりやすい。
だから多少の反応くらいでは、蒼波も気に留めないのだろう。
(……確かめに、行ってみたいな)
――だが。
旧校舎の周りは、立入禁止のロープで囲まれている。
老朽化した建物だ。当たり前の話である。
(そもそも、どこから入るんかも分からんし……)
結局、白雪姫はノートに視線を戻した。
――胸の内の、小さな疼きを抱えたまま。
❆
放課後。
――そして。
「……し、しんど……っ」
「蒼波ちゃん、あとちょっと……!」
「あとちょっとが、一番、しんどい……っ」
噂の、帰りの坂道である。
朝あれほど快適に下ってきた勾配は、上りになった瞬間、ただの拷問装置と化した。
ペダルが、重い。
太腿が、悲鳴を上げる。
結局、二人は途中から自転車を降りて、押して歩くことになった。
「……ねえ、蒼波ちゃん」
「なあに」
「これ、霊力で身体強化したら、楽になるっちゃない?」
「…………」
蒼波が、ぴたりと足を止めた。
「……天才かも、白雪姫ちゃん」
「でしょ?」
「明日、やってみよ。絶対」
「うん、やってみよ」
――ちなみに後日、これを翠織に話したところ。
「日常生活で霊力を無駄遣いしないの」
と、まっとうに叱られることになるのだが。
それは、また別の話である。
❆
自然の家に帰り着いた後は、いつも通りの夜だった。
食堂で夕食を食べて。
大浴場で汗を流して。
部屋に戻って、二人並んで宿題を広げて。
「……ここ、どうやって解くと?」
「あ、それはね――」
消灯の時間になると、二人はそれぞれのベッドに潜り込む。
「おやすみ、白雪姫ちゃん」
「おやすみ、蒼波ちゃん」
電気が消える。
――窓の外では、行縢の森が静かに揺れていた。
❆
――ひらり。
頬を、何かが撫でた。
「…………ん」
目を開ける。
――そこは、ベッドの上ではなかった。
「…………え」
視界いっぱいに、桜が咲いていた。
どこまでも。
どこまでも。
空の色さえ見えないほどに枝が広がり、風が渡るたび、薄紅の花弁が雪のように降り注いでいる。
足元にも、花びらが厚く積もっていた。
踏むと、さくり、と柔らかい音がする。
(……ここ)
知っている。
前にも、来たことがある。
あの夜――行縢で、初めて霊力の気配を掴んだ、あの朝の前に。
(……でも)
あの時とは、違う。
あの時は、すべてが霞のようにぼやけていた。
目が覚めた瞬間、輪郭ごと溶けて、桜の匂いしか残らなかった。
――なのに、今は。
(……はっきり、見える)
花びらの一枚一枚の筋まで。
風の温度まで。
まるで、現実そのもののように。
白雪姫は、ゆっくりと顔を上げた。
――そして。
「…………あ」
息を、呑んだ。
舞い狂う桜吹雪の、中央。
――一人の少女が、静かに佇んでいた。
光を弾くような、真っ白な髪。
自分と同じ、雪の色。
――けれど。
その瞳は、白くなかった。
透き通るように澄んだ、桜色の瞳。
穏やかで、儚げで。
それでいて、どこまでも気高い。
白雪姫は、動けなかった。
怖くはない。
(……あなたが)
なのに、胸がどうしようもなく震えていた。
(……あなたが、私の中に――)
少女が、ふわりと微笑む。
薄紅の唇が、静かに開かれた。
「――ようやく、お会いできました」
鈴を転がすような、澄んだ声で。
「白雪姫」
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