第02話:〝白い櫻〟と〝白い雪〟
――風が、渡る。
薄紅の花弁が、雪のように降り注いでいた。
どこまでも続く桜の下で、白雪姫は立ち尽くしていた。
目の前には、自分と同じ真っ白な髪の少女。
――けれど、その瞳だけが、桜の色をしている。
「…………」
声が、出なかった。
尋ねたいことは、山ほどあるはずなのに。
喉の奥に、言葉がつっかえて出てこない。
(……落ち着いて、私)
白雪姫は、そっと胸に手を当てた。
そして、ようやく。
「……あなたは、誰、ですか」
絞り出すように、そう問うた。
少女は――白櫻姫は、柔らかく目を細めた。
そして、袖を揃えるようにして、深く一礼する。
「はい。……改めまして」
鈴を転がすような、澄んだ声。
「わたくしは、〝椿宮白櫻姫〟と申します」
「椿宮……白櫻姫、さん」
「白櫻姫で構いません。……そして、少し長くなりますが」
白櫻姫は、舞い散る花弁を見上げた。
「わたくしのことを、お話しさせてください」
「……はい」
「わたくしはかつて、〝へいあんじだい〟という時代に生きておりました」
「平安時代……」
――社会の授業。
教科書の、あの挿絵。
あの時、身体の奥が疼いた理由が、今、はっきりと繋がった。
「そこで、神子として生きておりました。……あなたと、同じですね」
「私と……」
「ええ。そして、ある戦いの果てに、〝神〟と呼ばれる存在になりました」
「か、神様⁉」
思わず、声が裏返る。
「はい。神々の住まう地――〝神界〟という場所で、百年ほど過ごしました」
白櫻姫の声が、そこで少しだけ静かになった。
「……ですが、とある理由で。わたくしは神界で、処刑されたのです」
「――えっ」
「今から、千年ほど前のことになります」
「……せ、千年……⁉」
白雪姫は、思わず一歩後ずさった。
神。
神界。
処刑。
千年前。
――どれも、常識の外にある言葉ばかりだった。
「そして、命を落としたはずのわたくしは」
白櫻姫は、自分の手のひらを見下ろした。
「なぜか、あなたの身体の中に宿っておりました」
「…………」
「なぜそうなったのか。……わたくし自身にも、分かっておりません」
――しん、と。
桜の空間に、静寂が落ちた。
白雪姫は、ゆっくりと息を吐いた。
――不思議と、混乱はなかった。
(……それは、意味は分からんっちゃけど)
でも。
あの日、山道で自分の身体を動かした〝誰か〟。
夢の中で、手を握ってくれた声。
魔神の前に立って、みんなを守ってくれた、あの力。
――全部、この人だ。
(……それに、私)
もう、〝ありえない〟なんて言葉は使えない。
だって、この身体は。
(……とっくに、ありえんことばっかりやもん)
「……分かりました」
「……あら」
白櫻姫が、少し意外そうに瞬きをした。
「驚かれないのですね」
「い、いえ、驚いてますよ。すごく」
白雪姫は、正直に苦笑した。
「でも、私……たぶん、もう知ってたんだと思います」
「知っていた?」
「あなたがそこに――私の中にいることを」
❆
――しばらくの沈黙のあと。
「……ひとつ、お話ししておかなければならないことがございます」
白櫻姫は、俯きがちにそう切り出した。
「はい」
「あくまで、わたくしの推測に過ぎないのですが」
桜色の瞳が、白雪姫の白い髪へと向けられる。
「あなたの髪や、瞳の色が白くなったのは」
「…………」
「――おそらくわたくしが、あなたの身体に宿ったせいです」
「……あ」
白雪姫は、自分の髪の毛先を指ですくった。
真っ白な、雪の色。
目覚めたあの日、鏡を見て叫んだ、あの色。
「あなたが、人でありながら神子として目覚めてしまったことも」
「……それも?」
「はい。人として生まれた者が、途中から神子になることなど、本来ありえません」
白櫻姫の声が、少しずつ細くなっていく。
「わたくしという異物があなたの体に入り込んだせいで、あなたの魂は作り変えられてしまった。……そうとしか、考えられないのです」
「…………」
「あなたが施設で、白い髪を嗤われたことも」
「…………」
「これから、あの恐ろしいものたちに狙われ続ける運命も」
――そして。
白櫻姫は、深々と頭を下げた。
「――すべて、わたくしのせいです」
白い髪が、さらりと肩から零れ落ちる。
「本当に、申し訳ございませんでした」
「――ちょ、ちょっと待って!」
白雪姫は、慌てて両手を振った。
「や、やめてください、そんな……! 顔を上げてください!」
「ですが」
「それと、謝らないでください」
白雪姫は、はっきりと言った。
「私、あなたに謝ってほしいなんて……思ってないですから……」
「白雪姫……」
「むしろ」
――すう、と息を吸う。
「……ありがとう、って言いたかったんです」
「…………え?」
白櫻姫が、呆けたように顔を上げた。
「だって」
白雪姫は、少しだけ俯いた。
「あなたがいなかったら、私……事故で、死んでたと思うんです」
「…………」
「お父さんとお母さんが、その事故で亡くなって。……私だけ、半年も眠って、それでも目が覚めた」
「……ええ」
「そんなの、普通じゃないですよね。お医者さんもずっと〝医学的に説明がつかない〟って言ってましたし」
白い瞳が、まっすぐに白櫻姫を捉える。
「私が生きてるのは、たぶん――あなたが、私の中にいてくれたからです」
「…………」
白櫻姫は、静かに首を横に振った。
「……いいえ」
「白櫻姫さん?」
「それは、感謝されることではございません」
その声には、苦渋が滲んでいた。
「わたくしがいなければ、あなたは……ご両親と一緒に、逝けたはずなのです」
「…………」
「本来、あなたはあの日、ご両親のもとへ行くはずでした。それを、わたくしが引き止めてしまった」
白櫻姫の唇が、震える。
「その結果、あなたは一人だけ生き残り。……たった十二歳で、天涯孤独になってしまった」
「……白櫻姫さん」
「わたくしは、あなたを助けたのではありません」
――ぽつり、と。
「あなたを、この世に取り残してしまっただけなのです」
――舞い散る桜が、二人の間を通り過ぎていく。
白雪姫は、しばらく黙っていた。
――そして。
「……たしかに、私」
ゆっくりと、口を開いた。
「〝独り〟に、なりました」
「……はい」
「病院で、お父さんとお母さんが死んだって聞いた時。……頭が真っ白になって、何も考えられなくなって」
思い出すのは、あの真っ白な天井。
機械みたいに食べたご飯。
閉ざした、心の扉。
「しばらく、ずっと泣くこともできなかった。……ほんとに、辛かった……それは事実です」
「…………」
「でも」
白雪姫は、顔を上げた。
「――死にたい、とは。一度も、思わなかったんです」
「……え」
「不思議ですけど。ほんとに、一度も」
自分でも、少し驚くくらいに。
「――なんで私だけ生き残ったんだろ――とは思いました。――どうやって生きていけばいいんだろ――とも思いました」
「ええ」
「でも、――死にたい――と思うことは、一度たりともなかったんです」
――そこで、白雪姫はふっと微笑んだ。
「今は……すごく思ってるんです。……お父さんとお母さんの分まで、ちゃんと生きたいって」
「……っ」
「二人がくれた命だから。私が投げ出したら、二人が悲しむ――って」
白雪姫は、胸に手を当てた。
「だから――あなたが私の中に宿ってくれて、よかったです」
「…………」
「それに」
白い瞳に、確かな光が宿る。
「あなたがくれた力があったから」
「……力」
「私、蒼波ちゃんを守れたんです」
――あの夜。
黒い炎から、震える身体で友を突き飛ばした。
あの時、自分の中に力がなかったら。
「そうやって、大事な人を守れるようになったのも――全部、あなたのおかげです」
白櫻姫は、何も言えずにいた。
ただ、桜色の瞳を大きく見開いて。
「……それと」
白雪姫は、そこで居住まいを正した。
「まだ、ちゃんと言えてなかったので」
そして、深く頭を下げる。
「――翠織先生と、蒼波ちゃんを助けてくれて、ありがとうございました」
「…………」
「私、あの時、なにもできなくて。蒼波ちゃんが動かなくなって……先生も倒れて」
声が、少し詰まる。
「絶対に、二人とも死んだと思ったんです。……なのに、二人とも生きてる」
胸元に両手を持ってくる。
「生きてくれてる」
顔を上げて、白雪姫は笑った。
「あなたが、助けてくれたから」
「…………」
――白櫻姫の視界が、ゆらりと歪んだ。
(……ああ)
胸の奥。
ずっと、ずっと沈んでいた重たいものが。
するり、と解けていく。
(わたくしは、ずっと)
この身体に宿ってから、ずっと。
――引け目を、感じていた。
自分がここにいるせいで、この子の人生は狂った。
自分がここにいるせいで、この子は魔物に狙われる。
自分がここにいるせいで、この子は普通の少女ではいられなくなった。
この子は、いつか自分を恨むだろう。
――そう、思っていたのに。
「…………ふふ」
零れそうになる何かを、白櫻姫はそっと堪えた。
「……本当に」
「はい?」
「あなたは、優しい子ですね」
「……そ、そうですか? 普通だと思いますけど――」
――その瞬間の、白櫻姫の表情を。
白雪姫は、見逃さなかった。
(……あ)
肩から、力が抜けている。
ずっと張り詰めていたものが、ほどけたような顔。
(……この人)
白雪姫は、遠慮ばかりして生きてきた。
だからこそ、人の顔色を読むことだけは、誰よりも得意だった。
(……ずっと、気にしちょったっちゃ)
千年も生きた神様が。
(自分のせいで、私が不幸になったっちゃって。……ずっと、ずっと)
――だったら。
白雪姫は、ふわりと歩み寄って。
その手を、両手でそっと握った。
「――っ」
「白櫻姫さん」
「……はい」
少し冷たくて、けれど確かに脈のある手だった。
「だから、これからも」
白雪姫は、まっすぐに彼女を見上げる。
「私の中に、いてもいいですよ。……ああいや、これだと偉そうですよね……」
――言い直す。
「――えっと――いてほしいです」
――白櫻姫の唇が、わずかに震えた。
「…………」
「だめ、ですか?」
「……いいえ」
握られた手を、白櫻姫はそっと握り返した。
「――いいえ、白雪姫」
その瞳に、静かな決意が灯る。
(……ああ、なんという子でしょう)
千年生きて。
神にまでなって。
それでも、こんなにも澄んだ心には、出逢ったことがなかった。
(決めました)
この、静謐で穢れのない小さなお姫様を。
(この命が――いえ、この魂が尽きるまで)
例え尽きたとしても。
(わたくしが、見守りましょう)
見守るだけではない。
(そして、何かあれば――わたくしが、必ず守ります)
「ありがとうございます」
白櫻姫は、深く頭を下げた。
――今度は、謝罪ではなく。
「これから、どうぞよろしくお願いいたします」
「……はいっ」
❆
「――さて。それでは」
顔を上げた白櫻姫は、ぱん、と小さく手を打った。
「そういうことでしたら、ひとつご提案がございます」
「提案、ですか?」
「はい。今後は、こうして夢の中でお会いする度に」
――にっこり。
「あなたを、鍛えて差し上げましょう」
「…………え」
白雪姫の笑顔が、ぴしりと固まった。
「き、鍛える……?」
「ええ。わたくしは仮にも、魔神を討ち果たした身。……多少は、ものを教えられるかと」
「あ、あの。ちょっと待ってください」
白雪姫は、恐る恐る片手を挙げた。
「その……鍛えるって、どのくらいまで、ですか」
「どのくらい、とは?」
「い、いや。さすがに――あの魔神を倒せるくらい強くなれ、とかは……言わないですよね?」
――ははは、と乾いた笑い。
冗談のつもりだった。
あんな怪物と一人で戦うなんて、想像するだけで足が震える。
――だが。
「あら」
白櫻姫は、心底不思議そうに小首を傾げた。
「何をおっしゃいますか」
「……え」
「あの程度の魔神であれば」
――さらり、と。
「身体強化だけで倒していただかないと、困ります」
「…………はい?」
「神器の顕現も、霊術も使わずに、ですね。……あれは、魔神としてはかなり若い個体でしたから。そもそもあの程度を魔神と呼ぶのは他の魔神に対して失礼というもの――」
「ちょ、ちょ、ちょっと待って⁉ 待ってください⁉」
白雪姫は白櫻姫の言葉を遮り、真っ青になって首を振った。
「む、無理です! 絶対無理! あんなの、素手でなんて……!」
「大丈夫ですよ」
「なにがですか⁉」
「あなたには、それだけの素質がございますから」
――にこにこ。
白櫻姫の笑顔は、あくまで穏やかだった。
穏やかなのに、微塵も譲る気配がない。
(……この人)
白雪姫は、遅まきながら悟った。
(……もしかして、けっこう鬼なんじゃ)
――だが。
同時に、思うのだ。
(……でも)
あの夜のことを、思い出す。
地面に叩きつけられた蒼波。
吹き飛ばされた、翠織。
何もできずに、ただ泣いていた自分。
――もう、あんな思いはしたくない。
「…………」
白雪姫は、ぎゅっと拳を握った。
「……分かりました」
「あら」
「やります。……お願いします、白櫻姫さん」
「よろしいのですか?」
「はい」
顔を上げて、白雪姫は言った。
「私、強くなりたいです。……蒼波ちゃんと先生を、守れるように」
――その答えに。
白櫻姫は、満足そうに微笑んだ。
「――承りました」
そして、少しだけ意地悪く付け加える。
「では、明日から。……覚悟なさってくださいね?」
「……や、やっぱりちょっと怖いんですけど」
――と、その時だった。
「……ふぁ」
白雪姫の口から、大きな欠伸が漏れた。
「……あれ?」
まぶたが、急に重い。
「な、なんで……ここ、夢の中なのに、眠い……?」
白櫻姫は、その様子を見て静かに空を仰いだ。
降り注ぐ花弁の勢いが、少しずつ緩やかになっている。
「……ああ。そろそろ、朝のようですね」
「朝……」
「目覚めの時です。……今日はここまでに致しましょう」
「あ……」
名残惜しさが、胸に滲んだ。
もっと、話していたかった。
この人のことを、もっと知りたかった。
「そんな顔をなさらないでください」
その心を読んだように、白櫻姫はくすりと笑った。
「これからは、こうして眠らずとも――起きている間も、あなたに話しかけることができますから」
「え、そうなんですか……⁉」
「ええ。あなたの感知が高まりましたので」
白櫻姫は、こともなげに言った。
「わたくし、ずっと暇なのです。……ですから、たくさん話しかけてしまうかもしれません」
「ふふ、それはちょっと嬉しいかも」
「本当ですか? ……後悔なさっても知りませんよ」
「あはは……」
視界が、ゆっくりと白んでいく。
桜の輪郭が、少しずつ溶けていった。
――と。
「白雪姫。最後に、ひとつだけ」
「……はい?」
薄れゆく意識の中で、白雪姫は顔を上げた。
白櫻姫の表情から、笑みが消えている。
「昨日、あなたが授業中に感じ取った、あの気配」
「……あ」
――旧校舎。
「あなたの学校の、使われなくなって、それでも取り壊されずに残っているという校舎」
「……はい」
「あれを」
白櫻姫は、静かに目を細めた。
「――可能であれば、見に行ってはいただけませんか」
「……っ」
「無理はなさらないでください。危険を感じたら、すぐに離れて構いません」
「あの、あそこに……何かあるんですか?」
白櫻姫は、答えなかった。
ただ、遠くを見るような目をして。
「…………分かりません」
そう、静かに呟いた。
「ただ――懐かしい、気がしたのです」
「懐かしい……?」
問い返そうとした、その瞬間。
――光が、視界を包み込んだ。
❆
「――っ、は」
白雪姫は、ぱちりと目を開けた。
二段ベッドの、板の裏。
カーテンの隙間から差し込む、朝の光。
隣のベッドからは、蒼波の穏やかな寝息が聞こえてくる。
「…………夢」
――いや。
白雪姫は、ゆっくりと身体を起こした。
そして、そっと胸に手を当てる。
――とくん。
自分の鼓動とは違う、もうひとつの脈動。
それが、確かに、そこにあった。
「……おはようございます、白櫻姫さん」
小さく囁いてみる。
――返事はない。
けれど。
春の朝の光の中で。
ほんの微かに、桜の香りがした気がした。
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