第07話:自然の家での初日
金曜日の夕暮れ。
車は市街地を抜け、山あいの一本道をゆっくりと登っていた。
窓の外の景色が、少しずつ緑を濃くしていく。
――明日は土曜日だ。
学校が休みなら、荷物の移動も、新しい環境に慣れるのも、今日のうちに済ませてしまうのが一番いい。
そういう話になって、白雪姫はそのまま車に乗せられていた。
(……ほんの二日前まで、想像もしちょらんかった)
膝の上のキャリーケースの持ち手を、ぎゅっと握る。
やがて視界がふっと開けて――
夕日を背負った、行縢山の巨大な影が現れた。
その麓に、静かに佇む白い建物。
――〝むかばき青少年自然の家〟。
一昨日、自分が魔物に襲われた場所であり。
十二年間、暮らしてきた故郷でもある。
「……着いたわよ」
翠織が、静かにエンジンを切った。
❆
夕方の館内は、しん、と静まり返っていた。
団体客がいないせいだろう。廊下の照明も、半分ほどしか点いていない。
カラカラとキャリーケースを引きながら、白雪姫は翠織の後について階段を上った。
三階の、宿泊エリア。
「ここが、今日から白雪姫ちゃんが使うお部屋よ」
鍵を差し込み、翠織が扉を開ける。
「……わ」
広い。
木製の二段ベッドが、整然と四台。
窓は大きく、奥には四畳ほどの畳の間まで設えてある。
――一昨日、目を覚ました部屋だ。
「あの、翠織さん」
「なあに?」
「ここ……私一人で使ってしまって、いいんですか?」
思わず、そう尋ねていた。
どう考えても、八人から十人が泊まるための部屋である。
「ええ、構わないわ」
翠織はあっさりと頷いた。
「ここは元々、大人数用の部屋しかないの。一人用の部屋なんて一つもないのよ。……だから、こうするしかないの」
「……なるほど」
「広いけど、遠慮なく使ってちょうだいね」
翠織は腕時計に目を落とした。
針は、そろそろ十八時を指そうとしている。
「もうすぐ夕食の時間ね。準備が終わったら、二階の食堂に来て。……食べながら、これからのことを話しましょう」
「はい」
「はい、これ。お部屋の鍵よ」
手渡された鍵は、ひんやりと冷たかった。
「なくさないようにね。それじゃ、また後で」
扉が閉まる。
――そして、静寂だけが残された。
「…………」
白雪姫はしばらく、部屋の真ん中に突っ立っていた。
二段ベッドが四台。
誰も座っていない椅子。
誰も使っていないロッカー。
自分の呼吸の音が、やけに大きく聞こえる。
「……よし」
気を取り直して、白雪姫は畳の間へキャリーケースを運んだ。
中身は、着替えと下着、教科書、そして――両親の写真立て。
(服とか、どこにしまえばいいっちゃろ)
部屋にタンスの類はない。研修施設なのだから当然だ。
(……あとで、翠織さんに相談しよう)
とりあえず、制服だけは脱いでハンガーにかけた。
部屋着に着替え、鍵を握って廊下へ出る。
カチャリ、と扉を閉める音が、無人の廊下に響いた。
❆
「食堂は……たしか、二階やったよね」
記憶を頼りに、階段を下りていく。
廊下の奥、突き当り。
〝食堂〟と書かれた大きな案内板を見つけて、白雪姫は扉を押した。
――ふわっ。
「……っ」
甘辛いタレの香りと、出汁の匂いが、一斉に押し寄せてきた。
(……この匂い)
一気に、記憶が呼び戻される。
小学生の頃、地域行事でここに泊まった夜。
同じこの匂いを嗅ぎながら、父と母と並んで、この広い食堂でご飯を食べた。
食堂は、やはり広かった。
何十人もの団体が一度に食事できるよう、長机と椅子がずらりと並んでいる。
その広大な空間の、たった一つの席に。
翠織が座っていて、こちらに気づくとひらひらと手を振った。
白雪姫はぺこりと会釈をして、配膳カウンターへ向かう。
今夜はバイキング形式ではなく、あらかじめ盛りつけられたトレーが用意されていた。
――団体客がいないのに、バイキングにする意味はない。
考えてみれば、当たり前のことだった。
「はい、どうぞ。たくさん食べてね」
「……あ、ありがとうございます」
厨房の女性から受け取ったトレーには、白いご飯と味噌汁、ハンバーグとサラダが載っていた。
湯気が、ゆらりと立ち上っている。
白雪姫はそれを大事に抱え、翠織の向かい側の席へ腰を下ろした。
「いただきます」
手を合わせて、箸を取る。
――ふわりと崩れる、肉の食感。
(……おいしい)
張り詰めていた身体の力が、じわじわと抜けていくのが分かった。
「さて。食べながら、これからのことを少し話しましょうか」
先に食べ始めていた翠織が、静かに切り出した。
「はい」
「まず、明日は学校がお休みでしょう? 午前中のうちに、蒼波ちゃんがここに来ることになっているわ」
「……蒼波さんが」
箸が、少しだけ止まった。
「ええ。彼女、今日は実家の準備があるみたいでね。……それで、部屋のことなんだけど」
「部屋、ですか?」
「あなたと同じ部屋にするかどうかは、蒼波ちゃん本人に決めてもらうつもりよ」
翠織は味噌汁の椀を置いた。
「一人が落ち着く子もいるし、誰かと一緒がいい子もいる。……こういうのは、押しつけるものじゃないもの」
「……はい」
(蒼波さんは、どっちを選ぶっちゃろう)
考えかけて、白雪姫は少しだけ気まずくなった。
「それから――明日からは、神子としての訓練も本格的に始めるわ」
「くん、れん……」
「ええ。覚悟しておいてね」
「は、はい。よろしくお願いします、翠織さん」
翠織は小さく頷いて、それから少しだけ姿勢を正した。
「それと。……ひとつ、大事な話があるの」
「……はい」
「ここはね、白雪姫ちゃん。裏の顔は神子の拠点だけれど、表向きはあくまで〝研修施設〟……というのは前に話した通り」
「……あ」
「本来なら、中学生が一人で長期滞在して生活するなんて、できるはずのない場所よ」
その言葉に、白雪姫は箸を止めた。
――言われてみれば、そうだ。
ここは家でも、寮でもない。
自分は今日から、どういう立場でここにいるのだろう。
「あの……それって、私、いていいんですか……?」
不安が、そのまま声になった。
「大丈夫よ」
翠織は、ふっと表情を緩めた。
「そこはもう、手続きを済ませてあるから」
「手続き……?」
「ええ。あなたが児童養護施設を出て、ここで暮らせるようにね」
そして、翠織はなんでもないことのように言った。
「――私が、あなたの〝養母〟になったの」
「…………え?」
箸から、ミニトマトがころんと落ちた。
「よ、養母……? それって……」
「引き取り人、ってこと。手続き上は、義理の母親ね」
「ぎ、義理の……お母さん……⁉」
「費用の面も、公的な条件も、全部クリアしてあるわ。……だから今のあなたは、〝身元保証人である八雲翠織と同伴で、この施設に滞在している中学生〟という扱いになるの」
――そういえば。
昨日の応接室で、翠織は分厚い書類を出していた。
難しい言葉ばかりで、白雪姫にはほとんど理解できていなかったけれど。
(……あれ、そういうことやったっちゃ)
顔も知らなかった大人が、たった二日で、自分の〝家族〟になってくれた。
その事実を、白雪姫は真正面から受け止めて――
そして、ごく真面目に、こう尋ねた。
「……あの。それじゃあ、これからは翠織さんのこと」
「ええ」
「〝お母さん〟って、呼んだほうがいいですか?」
――ガシャン。
翠織の手から、箸が滑り落ちた。
「っ――‼」
「み、翠織さん?」
「ま、待って。待ってちょうだい」
みるみるうちに、翠織の耳が赤くなっていく。
「は、恥ずかしいから、それは絶対にやめて……っ‼」
「え……だ、駄目、ですか?」
「駄目というか……っ、その……! は、恥ずかしいというか……!」
両手をぶんぶんと振る翠織。
いつも落ち着き払っている大人の女性の、思いがけない狼狽ぶりだった。
(……あ)
でも、と白雪姫は思う。
その顔は、決して迷惑そうではなかった。
むしろ――嬉しさを、必死に照れくささで押し隠しているような。
「……ふふっ」
思わず、笑みが零れた。
「な、なによ、白雪姫ちゃん」
「いえ。……わかりました」
白雪姫は箸を置き、少しだけ姿勢を正した。
「それなら――これから神子のことをたくさん教えてもらうので。〝先生〟って、呼んでもいいですか?」
「…………」
翠織は数秒、じっと白雪姫を見つめて。
それから、ほっとしたように息を吐いた。
「……ええ。それなら、大歓迎よ」
「はい。よろしくお願いします、翠織先生」
「よろしくね、白雪姫ちゃん」
――そう言った翠織の耳は、まだほんのり赤いままだった。
❆
先に食べ終えた翠織が、トレーを持って立ち上がる。
食堂を出る間際、彼女は振り返った。
「そうだ。何か困ったことや、聞きたいことがあったら、二階の第一研修室に来てちょうだい。あそこが私の部屋だから」
「わかりました」
翠織を見送り、白雪姫も残りを綺麗に平らげた。
「ごちそうさまでした。……美味しかったです」
厨房に声をかけると、中から「はぁい」と気さくな返事が返ってきた。
❆
部屋に戻る前に、白雪姫は二階の第一研修室へ足を向けた。
この施設には何度も来たことがあるが、研修室に入った記憶はない。
トントン、と扉をノックする。
「先生。白雪姫です」
「どうぞ」
引き戸を開けて――白雪姫は、少しだけ意表を突かれた。
(……和室だ)
畳敷きの広い部屋だった。
隅には布団と着替えが畳まれていて、生活感がある。
――だが、それ以上に目を引くものがあった。
文机の上に整然と並べられた、いくつもの数珠。
壁際に立てかけられた、見たこともない文字の書かれたお札の束。
そして部屋全体に漂う、ぴん、と張り詰めたような空気。
(……ここは、そういう場所やっちゃ)
改めて、実感が湧いた。
「どうしたの? 何か困ったことでもあった?」
翠織が畳に座ったまま、こちらを見上げる。
「あ、はい。……あの、服の収納って、どうすればいいでしょうか」
「ああ、それね」
翠織はあっさりと答えた。
「もうタンスを発注してあるわ。早ければ明日には届くはずよ」
「え……タンスまで、ですか⁉」
「当たり前でしょう。服をキャリーケースに入れっぱなしで生活させるわけにはいかないもの」
「あ、ありがとうございます……! 何から何まで……」
「私が誘ったんだから、気にしないの」
白雪姫はぺこりと頭を下げて、それから次の質問をした。
「あと……シーツのことなんですけど」
「シーツ?」
「はい。小学生の頃に泊まったときは、寝る前に自分で指定の棚まで取りに行って、自分で布団や枕にかけて。起きたら外して、また指定の場所に持っていくルールでした」
「よく覚えているのね」
「今も、同じ手順で大丈夫ですか?」
「ええ、それで大丈夫。基本的なルールは昔と変わっていないわ」
「わかりました。……それと、お風呂のことなんですけど」
「大浴場ね」
翠織は指を一本立てた。
「団体のお客様がいる時は利用時間が細かく区切られるけれど、今夜みたいに貸し切り状態の時は、十六時三十分以降ならいつでも入っていいわ」
「そうなんですね。じゃあ、これから……あ」
「どうしたの?」
「……すみません。シャンプーとか、石鹸を持ってくるのを忘れてしまって」
しゅん、と肩を落とす白雪姫に、翠織はくすりと笑った。
「そんなこと。任せなさい」
彼女は立ち上がり、棚から小ぶりのバスケットを取り出してきた。
「余分に持っているから、これを使ってちょうだい。シャンプーとボディソープ、それから洗顔料と……はい、スキンケア用品一式ね」
「すきん、けあ……?」
受け取ったバスケットの中には、見慣れないボトルがいくつも入っていた。
「あの、先生。……これ、どうやって使うんでしょうか」
「あら、そうよね」
翠織は目を瞬かせ、それから優しく笑った。
「まだ中学生になったばかりだものね。……いい? お風呂から上がったら、まず化粧水を手に取って、肌になじませるの」
「化粧水」
「その次に美容液。最後に乳液の順番で、重ねて塗っていくのよ。お肌の水分が逃げないようにするためね」
「化粧水、美容液、乳液……」
白雪姫は指を折りながら、真剣に復唱した。
「ええ、その順番。……ただし、こういうものは人によって合う合わないがあるから」
「はい」
「使ってみて肌がピリピリしたり、赤くなったりしたら、すぐに言うこと。約束よ」
「……はい。ありがとうございます、先生」
バスケットを大事に抱えて、白雪姫は研修室を後にした。
❆
三階の大浴場。
脱衣所は、団体利用を想定して広々と作られていた。
ずらりと並んだ脱衣カゴ。
壁際には、洗濯乾燥機が一台。
誰もいない。
あまりに静かで、白雪姫は少しだけ落ち着かなかった。
手早く服を脱ぎ、重い扉を開ける。
――もわっ。
白い湯気が、一斉に押し寄せてきた。
広い浴室に、洗い場がずらりと並んでいる。
髪と身体を丁寧に洗い、白雪姫は湯船へと足を入れた。
ざぶん、と。
お湯が音を立てて溢れる。
「……ふぁ……」
肩まで浸かった瞬間、思わず変な声が出た。
一日分の疲れが、じんわりと溶け出していく。
(……ひろい)
貸し切りの大浴場。
贅沢というより、ちょっと怖いくらいだ。
濡れた白い髪を後ろへ撫でつけながら、白雪姫はぼんやりと天井を見上げた。
――そして、考えるのはやはり、明日のことだった。
(蒼波さん……)
昼休みの、あの木陰。
――同じ神子やし……仲良く、してくれんかな。
嬉しかった。
あの言葉は、間違いなく嬉しかった。
でも。
(あれは……翠織先生に、頼まれちょったからやもんね)
もちろん、蒼波の優しさが嘘だったとは思わない。
髪を綺麗だと言ってくれたときの声も、給食を食べる時の丁寧な所作も、全部本物だった。
――けれど、きっかけは、大人の都合だ。
そして、それを白雪姫が知っていることを、蒼波はまだ知らない。
(明日……どんな顔して、会えばいいっちゃろう)
知らないふりをするべきだろうか。
それとも、正直に話すべきだろうか。
気を遣いすぎたら、蒼波を傷つけてしまうかもしれない。
でも、何も考えずに接するのも、なんだか不誠実な気がする。
(……こういう時に、分からなくなるんよね)
友達のいなかった十二年間が、こういうところで顔を出す。
普通の子なら、きっと悩まないのだろう。
「……はぁ」
息を吐いた瞬間、頬が熱いことに気づいた。
(……のぼせる)
白雪姫は慌てて湯船から上がった。
❆
教わった通り、洗顔料を泡立てて顔を洗う。
脱衣所に出て、タオルで身体を拭き――鏡の前に立った。
映っているのは、真っ白な髪と、真っ白な瞳の少女。
もう何度も見たはずなのに、まだ〝自分〟だと思いきれない姿。
「…………」
白雪姫は、慣れない手つきでボトルのキャップを開けた。
まず、化粧水。
手のひらに取って、少し温めてから、そっと頬に押し当てる。
(……ひんやりする)
次に、美容液。
最後に、乳液。
肌の上を滑っていく、とろりとした感触。
初めての感覚に、白雪姫は目を白黒させながらも、教わった順番を一つずつ確かめるようにこなしていった。
(……これ、毎日するっちゃろか。大人って、大変やね)
❆
部屋に戻り、ドライヤーで髪を乾かす。
ゴォォ、という温風の音だけが、部屋を満たしていた。
やがてスイッチを切ると――
部屋に、静寂が戻ってきた。
「…………」
白雪姫は、ぐるりと部屋を見回した。
本来なら、八人から十人の子どもたちが、消灯後もこっそり喋って先生に怒られる部屋。
そこに今あるのは、キャリーケースが一つと、自分だけ。
「……シーツ、取りに行かんと」
廊下に出て、指定の棚からシーツと枕カバーを抱えて戻る。
入り口に一番近い二段ベッドの、下の段。
――一昨日、目を覚ました場所だ。
なんとなく、そこを選んだ。
パン、パン、とシーツを広げて、マットレスに敷き込んでいく。
枕カバーをつけて、布団を整えて。
それだけの作業なのに、ずいぶん時間がかかった気がした。
「……ふぅ。久しぶりやから時間かかっちゃった――よいしょっと……」
電気を消す。
――暗闇。
窓の外では、行縢の森が、真っ黒な塊になって沈んでいる。
風が木々を揺らす音だけが、遠くから聞こえてきた。
(……広いなあ)
布団を鼻の下まで引き上げて、白雪姫は天井を見つめた。
二段ベッドの、板の裏。
誰も寝ていない上の段。
(この生活に、慣れていくんかな)
児童養護施設では、隣の部屋から子どもたちの声が聞こえていた。
病院では、ナースステーションの物音がした。
こんなに静かな夜は、久しぶりだった。
(それとも……やっぱり寂しくなって)
まぶたが、重くなっていく。
(蒼波さんとか、先生を……呼んじゃうっちゃろか)
自分の中に生まれた小さな弱音を、そっと胸の中に抱きしめて。
白雪姫は、静かに眠りに落ちていった。
――行縢の夜は、深く、そして穏やかだった。
ここまで読んでいただきありがとうございます!
面白い・続きが気になると思っていただけたら、ページ下部の【ブックマーク登録】や【評価】を押していただけると、執筆の大きな励みになります!




