第06話:〝白〟と〝蒼〟
朝の教室というものは、独特の音がする。
椅子を引く音。
鞄のファスナー。
誰かの笑い声。
白雪姫は、一年一組の扉の前で、その音にしばらく耳を澄ませていた。
(……昨日は、あんなに怖かったのにね)
今朝は、少しだけ手が震えなかった。
すう、と息を吸って、扉を横に滑らせる。
「――あ、白雪姫さん、おはよう!」
「おはよー。今日から授業やねー、だるー」
「宿題も今日からやろ? 面倒やわ……」
朝の光が差し込む教室から、いくつかの声が飛んできた。
「……っ、あ。おはよう……」
白雪姫は、まだ慣れない気恥ずかしさを噛み殺しながら、小さく頭を下げた。
――こんな朝が、あるなんて。
小学部の頃には、考えられなかった光景だ。
あの頃の自分は、誰にも声をかけられないまま席につき、誰にも声をかけないまま帰っていた。
昨日は入学式だったから、実質、今日が中学部での初めての授業になる。
窓際から二列目、一番後ろ。
まだ席替えはしていないので、名前順で決まった席だ。
鞄から筆箱と教科書を取り出し、机の中に押し込む。
(……鞄は、後ろのロッカーやったよね)
ランドセルではなくなったことが、まだどこか不思議だった。
(こ、これでいいんよね?)
他の人の入れ方を真似するが、少し不安げだ。
そして自分の席に座り、白雪姫はぼんやりと教室を眺める。
中学部一年生は、白雪姫を含めて二十名。
小学部からそのまま上がってきた顔ぶれだから、誰も彼も見知った顔だ。
朝の会が始まるまでの短い時間、みんなそれぞれのグループで談笑している。
(……よかった)
白雪姫は、そっと胸を撫で下ろした。
(昨日のことは、誰も知らんみたい)
昨日の夕方、あの山道で起きたこと。
黒い獣。
手のひらから溢れた冷気。
自分の身体が、自分のものでなくなったような感覚。
そして――〝神子〟や〝魔物〟という、荒唐無稽な言葉。
あんな騒ぎがあったなら、田舎町のことだ、噂の一つも流れていそうなものなのに。
教室の空気は、あまりにも普通だった。
――と、その時。
「――おはよう、白雪姫さん」
「……っ」
真上から降ってきた声に、白雪姫は弾かれたように顔を上げた。
机の前に、一人の女子が立っていた。
艶のある黒髪。
光の加減で、わずかに青みを帯びて見える。
全体的に少し癖がかった髪で、後頭部の左寄りに、青い花飾りのついたシュシュを使って髪の一部を小さなお団子にまとめたハーフアップ。
大きな琥珀に煌めいた焦げ茶色の瞳が、まっすぐこちらを見下ろしていた。
「……蒼波さん?」
――古閑蒼波。
小学部からのクラスメイトだ。
だが、白雪姫との接点は、ほとんどなかった。
明るく、誰にでも笑顔で接する少女。
お寺の子だからか、所作にどこか品がある。
――けれど。
白雪姫は、彼女のある癖に気づいていた。
昼休みの遊びの誘い。
放課後、一緒に帰ろうという誘い。
そういうものを、蒼波はいつも、柔らかい笑顔で断っていたのだ。
――誰とでも卒なく話せるけれど、誰とも友達にはならない。
そういう距離を、彼女は意図して保ち続けていた。
だから。
そんな彼女が、自分から誰かの席に来るというだけで、白雪姫には十分に異様だった。
「ねえ、もしよかったらやっちゃけど……」
蒼波は、いつもの穏やかな笑みのまま、少しだけ身を屈めた。
「今日の昼休み、一緒に遊ばん?」
「……えっ」
「あと……今日、途中まで一緒に帰ったりできんかな?」
思わず、白雪姫は目を丸くした。
(……蒼波さんが、そんなこと言う?)
誘いを断り続けていた人が、誘う側に回っている。
違和感が、ちりりと胸を刺した。
それでも――嬉しくないわけがなかった。
「昼休みは……うん、大丈夫。だけど、帰りはごめん」
「あ、そうやと?」
「私、施設の車が迎えに来ることになっとって……」
「……そっか。ううん、こっちこそ急にごめんね」
蒼波は小さく肩をすくめた。
「ちょっと残念」
――そう言った声には、たしかに落胆が滲んでいた。
けれど。
(……なんやろ)
その顔は、あまり残念そうには、見えなかった。
ガラリ、と前の扉が開く。
担任の先生が入ってきて、朝の会のチャイムが鳴り響いた。
「じゃ、また昼休みにね」
「う、うん」
蒼波は軽く手を振って、自分の席へ戻っていく。
――といっても、彼女の席は、白雪姫のすぐ右隣なのだが。
❆
中学部で初めての授業は、拍子抜けするほど穏やかに過ぎていった。
どの教科も、初日は先生の自己紹介と、年間の授業の進め方の説明。それに、生徒たちの自己紹介。
小学部と違って、中学部は教科ごとに先生が変わる。
つまり、その分だけ自己紹介の回数も増えるということだ。
「柊野……白雪姫です。……よろしくお願いします」
何度目かの自己紹介で、白雪姫は小さく頭を下げた。
どの先生も、白雪姫の髪や瞳について触れる者はいなかった。
驚いた顔をする人すら、いない。
(……先生たちも、聞いてくれてるんやね)
誰かが、自分の見えないところで、ちゃんと道を作ってくれている。
その事実が、じんわりと胸に染みた。
❆
午前の授業が終わると、給食の時間がやってきた。
「はーい、机くっつけてー」
号令とともに、ガタガタと机が動き出す。
白雪姫が自分の机を寄せようとしたとき――すっ、と横から机が押しつけられた。
「同じ班やね。よろしく」
「あ……うん、よろしく」
右隣にいたはずの蒼波が、わざわざ机を回り込ませて、白雪姫の左隣にくっつけていた。
二人は、それぞれのナフキンを机に広げる。
給食当番の生徒たちが白い給食着を身につけ、帽子に髪を押し込んで給食室へ向かっていった。
今日は当番ではないので、二人は静かに待つ。
やがて、廊下から重たそうな足音が近づいてきて――教室の中に、ふわりと甘い匂いが広がった。
「わ、シチューや」
「今日パンやろ? 最高やん」
運び込まれたのは、コッペパン、牛乳、そして具材のごろごろ入ったホワイトシチュー。
手際よく配膳が進み、全員が席に着く。
「――合掌! ……いただきます!」
「「「いただきます!」」」
日直の号令に、教室中の声が重なった。
一斉にパンをちぎる音、スプーンが器に触れる音。
白雪姫もスプーンを取り、シチューをそっと一口すくった。
(……おいしい)
ミルクのやさしいコクと、じっくり煮込まれた野菜の甘み。
特別な料理ではない。
どこの学校にもある、ただの給食だ。
それでも。
あの病室で、味のしない食事を一人で口に運んでいた半年を思えば。
(……みんなと食べるごはんって、こんなに、おいしかったっちゃね)
瞳を伏せて、白雪姫はゆっくりと噛みしめた。
ふと、左隣に目をやる。
蒼波は、黙々と食べていた。
それも、驚くほど整った所作で。
背筋は伸び、肘は張らず、パンをちぎる指先まで丁寧だ。
「昨日のドラマ見た?」
「部活、何入ると?」
周りが賑やかに騒ぐ中で、彼女だけが、静かだった。
(……やっぱり、ちょっと浮いてる)
朝の言葉が、頭の中で繰り返される。
――今日の昼休み、一緒に遊ばん?
――途中まで一緒に帰ったりできんかな?
誰にでも笑うのに、誰にも近づかなかった人。
(なんで、私に……)
じっとその横顔を見つめていると。
――ふ、と。
蒼波が顔を上げた。
「……どうしたの?」
少し首を傾げて、悪戯っぽく笑う。
「っ、な、なんでもない! なんでもないよ!」
慌てて首を横に振る白雪姫に、蒼波は小さく吹き出した。
「ふふっ。変なの」
その笑顔は、あまりにも自然で、可愛らしくて。
――だからこそ、白雪姫の中の違和感は、消えてくれなかった。
❆
片付けと短い清掃を終えると、昼休みがやってきた。
「白雪姫さん、行こ」
席を立った蒼波が、白雪姫の机の横に立つ。
「うん」
二人は並んで教室を出た。
昇降口で靴を履き替え、外へ出る。
――ふわ、と。
春の陽射しと、やわらかい風が頬を撫でた。
運動場では、小学部の子どもたちが元気に走り回っている。
鬼ごっこ。サッカー。一輪車。
昔と、何ひとつ変わらない光景だ。
「あ、白い髪のお姉ちゃんや!」
「入学式のときの人やろ?」
小学部の子たちの視線が、ちらちらとこちらを向く。
(……見られてるなぁ)
気にならないと言えば、嘘になる。
けれど、一昨日ほどには、足がすくまなかった。
運動場の奥。
どっしりと根を張ったイチイガシの大木が、大きな木陰を落としている。
さらに奥には、〝さくらがおか〟と呼ばれる小高い丘。緑の芝が、風にさわさわと揺れていた。
二人は、その木の根元まで歩いていった。
「……ここ、涼しいね」
「うん。夏は特に、ここが一番」
蒼波は目を細めて、遠くを見上げた。
その視線の先には――行縢山の、角のような岩壁がそびえている。
白雪姫も同じように、空を仰いだ。
「……白雪姫さん、身体はもう大丈夫と?」
「うん、平気。……まあ、髪と目はこんなんなっちゃったけど」
白雪姫は、白い髪を一房つまんで苦笑した。
「入学式で一年生の子も言っちょったやん。綺麗やって」
「そ、そうかな……変じゃない?」
「変じゃないよ」
即答だった。
「……ほんとに?」
「うん。うちも綺麗やと思う」
まっすぐな言葉に、白雪姫はどう返せばいいのか分からず、そっと視線を落とした。
(……なんか、慣れんなあ)
お互い、小学部の頃はまともに話したこともない。
しかも白雪姫には、そもそも友達というものの経験がない。
会話の間の取り方が、まるで分からなかった。
――そんな白雪姫が、風になびく髪を押さえて視線を逸らした、その一瞬。
蒼波の琥珀色の瞳が、彼女の横顔をじっと射抜いていた。
穏やかな笑みは、そこにはない。
何かを探るような、鋭い視線。
――そう。
蒼波は、ただのクラスメイトではなかった。
彼女は、全国に存在する神子の管理・育成組織に所属する、〝神子〟の一人。
延岡市川島町の寺院に生まれ育ち、そしてこの春から――〝むかばき青少年自然の家〟で暮らすことになっている少女だった。
昨日の夕方。
蒼波は、翠織からある報告を受けた。
行縢の山道で、一人の少女が魔物に襲われたこと。
その少女が、驚くべき霊力を持っていること。
そして――自然の家へ勧誘したこと。
小さい頃から翠織に手ほどきを受けてきた蒼波は、その話に強い興味を抱いた。
――しかも、その少女が同じクラスの白雪姫さんだなんて。
だが、興味を抱いた直後。翠織はいつもの調子で、あっさりとこう言ったのだ。
――蒼波ちゃん、同じ学校なんだから。白雪姫ちゃんが自然の家に来やすくなるように、上手く仲良くなってちょうだい。
半ば無茶振りである。
(……無茶言わんでよ、翠織先生)
蒼波が、これまでクラスメイトと一定の距離を保ってきた理由。
それは、自分が〝異能を持つ者〟だからだ。
いつ戦いに身を投じるか分からない。魔物に狙われやすい体質でもある。
深い絆を結べば結ぶほど、相手を巻き込み、いつか別れる痛みが増えるだけ。
――だから、作らなかった。
だから普通の友達の作り方など、生まれてこのかた、一度も知らないままだった。
それなのに、期限は今日中。
不慣れと焦りが重なった結果が、今朝のあの強引な誘い方だったのである。
(……このまま世間話しちょっても、埒が明かんよね)
蒼波は、密かに息を吸った。
少しだけ、カマをかけてみることにしたのだ。
「ねえ、白雪姫さん」
「うん?」
「昨日さ。行縢の方で、なんか騒ぎがあったって聞いたっちゃけど……何か知らん?」
――ぴくり、と。
白雪姫の肩が、小さく強張った。
(……っ、騒ぎ⁉)
脳裏に、昨日の光景が一気に噴き出す。
白目を剥いた、漆黒の獣。
胸を貫いた爪の感触。
手のひらから溢れた、凍てつく冷気。
そして――八雲翠織の言葉。
――これから話すことは、とても重大な秘密よ。
――学校の友達にも、施設の先生にも、絶対に口外しないと約束できる?
(……言えん。絶対に、言えん)
もし自分が喋ってしまって、蒼波があんな化け物に狙われることになったら。
白雪姫は必死に笑顔を作った。
「え、えっと……ううん、私、昨日はまっすぐ帰ったから……何も、知らんかな……あはは……」
――下手すぎた。
声は震えているし、目線は泳いでいるし、笑顔は完全に引き攣っている。
「…………」
その様子を見て、蒼波はふっと息を吐いた。
そして、苦笑する。
「……ふふ。無理して誤魔化さんでいいよ、白雪姫さん」
「……え?」
「ごめん。黙っちょったっちゃけど――」
蒼波は、まっすぐに白雪姫の目を見た。
「うち、全部知ってるんよ。昨日、行縢であったことも。白雪姫さんの中にある力のことも」
「…………っ」
白雪姫の呼吸が、止まった。
「な、なんで……」
「うちも、同じやから」
蒼波は、ゆっくりと言った。
「――うちも、〝神子〟なんよ」
「……えっ⁉」
思わず声が裏返った。
「うちの家、川島町のお寺でね。翠織先生には、小さい頃から神子の手ほどきを受けてるの。それにうち、この春から〝むかばき青少年自然の家〟で暮らすことになっちょって」
「あ、あの施設で……⁉ 蒼波さんが……⁉」
昨日、自分が目を覚ましたあの部屋。
あの木の匂いのする宿泊棟に、彼女も暮らしている。
あまりに現実味がなくて、白雪姫はただ呆然とするしかなかった。
「うん。……あとね」
蒼波は、少しだけ言葉を選ぶように間を置いた。
「うちが今まで、みんなの誘いを断ってた理由も、それ」
「え……」
「神子は、普通の人より魔物に狙われやすいの。霊力が、ご馳走やけん。……多分、昨日白雪姫さんが襲われたのも、それが理由やと思う」
「あ……」
――ああ、そうか。
白雪姫の中で、ひとつの謎が音を立てて解けた。
誰とでも話すのに、誰とも友達にならなかった彼女。
冷たいわけでも、気取っていたわけでもない。
(……巻き込まんように、してたんや)
胸の奥が、きゅっと痛んだ。
「だから、その……」
蒼波は、少しだけ視線を落とした。
「同じ神子やし……仲良く、してくれんかな。学校でも、話したり、遊んだり……できたら、嬉しい」
「……っ、うん! うん、もちろん!」
白雪姫は、勢いよく頷いた。
友達になりたいと言われたのなんて、生まれて初めてだったから。
「……ありがと」
蒼波は、ふわりと笑った。
――そのはずだった。
――キーンコーン……。
昼休みの終わりを告げる予鈴が、校舎に響き渡る。
「あ、チャイム。……戻ろっか」
「うん」
先に歩き出した蒼波の背中を、白雪姫は追いかける。
――けれど。
振り返る直前、ほんの一瞬だけ。
蒼波の笑みに、翳りが差したのを。
白雪姫は、たしかに見た。
(……今の)
あれは。
嬉しさでも、照れくささでもない。
――罪悪感だ。
白雪姫は、昔から人に遠慮ばかりして生きてきた。
だからこそ、人の顔色を読むことだけは、誰よりも得意だった。
(なんで蒼波さん、あんな……申し訳なさそうな顔を、したっちゃろ)
答えは出ないまま、午後の授業が始まった。
❆
――放課後。
送迎の車に揺られ、白雪姫は児童養護施設へと帰ってきた。
「あ、白雪姫ちゃん。お客さんが来ちょってね」
「お客さん、ですか?」
「うん。白雪姫ちゃんと、あとうちにも用事があるんやって」
――その言葉で、白雪姫はすぐに察した。
(……八雲さんや)
応接室の扉を開けると、案の定だった。
「こんにちは、白雪姫ちゃん。……座って」
昨日と違い、翠織はきちんとしたスーツ姿だった。
深緑の衣を纏っていた時とは印象がまるで違う。髪をきっちりとまとめ、膝の上には書類の束。
どこからどう見ても、有能な施設職員である。
――話し合いが、始まった。
「――以上の理由から、柊野さんを、私どもの〝むかばき青少年自然の家〟でお預かりしたいと考えております」
翠織の口調は、驚くほど事務的だった。
「彼女が幼少期を過ごした土地に戻ることは、精神面の安定に繋がるかと存じます。また、当施設は桜ケ丘小中学校からも近く、自転車通学が可能です。生活環境、安全管理の面につきましても、万全を期すことをお約束いたします」
施設の先生は、真剣な面持ちで話に耳を傾けていた。
時折メモを取り、質問を挟み、そしてまた黙り込む。
その横顔には、はっきりと葛藤が浮かんでいた。
やがて、先生は白雪姫のほうへ身体を向けた。
「白雪姫ちゃん。……八雲さんから、ありがたいお話をいただいたっちゃけど」
「はい」
「最後は、あなたの気持ちを一番に優先したいの。……あなたは、どうしたい?」
――問われて、白雪姫は少しだけ考えた。
この施設を離れるのは、正直、寂しい。
まだ十日ほどしか経っていないけれど、ここの職員さんたちは優しかった。
――けれど。
(自然の家に行けば……また、行縢で暮らせる)
父と母と歩いた道。
一人で遊んだ神社。
カレーを作った、あの炊飯場。
そして。
(……蒼波さんも、おる)
同年代の子なんて、一人もいないと思っていた。
同じ神子で、同じクラスで――友達になりたいと、言ってくれた子がいる。
それは、想像していた以上に大きな支えだった。
だが、それと同時に。
胸の奥で、ずっとくすぶっているものがあった。
昼休みの終わり、蒼波が見せた、あの表情。
そして今、目の前で淡々と話を進めている、翠織の姿。
――ばらばらだった欠片が、かちりと組み合わさる音がした。
(……もしかして)
それでも。
「……私、〝むかばき青少年自然の家〟に行きます」
白雪姫は、はっきりとそう告げた。
施設の先生は、少しだけ寂しそうに――けれど温かく、頷いてくれた。
❆
決まってしまえば、話は早かった。
持ち物は、元々多くない。
施設に来た時に持ってきた鞄と、生家から運び出した衣類。
そして、両親と自分が写った、あの写真立て。
キャリーケース一つで、白雪姫の全財産は収まってしまった。
荷物を車のトランクに積み終え、白雪姫は玄関先で深く頭を下げた。
「……短い間でしたけど。本当に、お世話になりました」
「元気でね、白雪姫ちゃん」
「いつでも遊びに来てよかけんね」
子どもたちも、何人か見送りに出てきてくれていた。
あの、髪のことを聞いてきた小さな子も、もじもじしながら手を振っている。
白雪姫は、その一人一人に、ちゃんと手を振り返した。
❆
車が、夕暮れの国道を走っていく。
窓の外の景色は、少しずつ山へと近づいていた。
ハンドルを握る翠織の横顔を、白雪姫はちらりと見上げる。
――ずっと、胸に引っかかっていたこと。
聞くかどうか、しばらく迷って。
それでも、白雪姫は口を開いた。
「……八雲さん」
「なぁに、白雪姫ちゃん」
「八雲さん、蒼波さんに……」
膝の上で、指をきゅっと握る。
「私のことで、何か……頼みましたか?」
――ぴくり、と。
ハンドルを握る手が、わずかに強張った。
翠織は一瞬だけ白雪姫へ視線を走らせ、それからすぐに前へ戻す。
「……あら」
小さな溜息とともに、感嘆が漏れた。
(……大した観察力ね、この子)
「すごいわね、白雪姫ちゃん。そこまで見抜くなんて」
「……やっぱり」
「ええ、その通りよ」
翠織は、隠す気もないという様子であっさりと認めた。
「蒼波ちゃんにはお願いしたわ。――白雪姫ちゃんが自然の家に来やすくなるように、上手く仲良くなってちょうだい、ってね」
「…………」
「同じクラスなんだもの。大人が百回説得するより、同い年の子が一回誘ってくれるほうが、ずっと効くでしょう?」
悪びれない口調だった。
実際、それは大人の判断として、間違ってはいないのだろう。
――けれど。
「八雲さん」
白雪姫は、まっすぐに彼女を見上げた。
「お願いが、あります」
「……お願い?」
「誰かが嫌がるようなことは、しないでほしいです」
車内の空気が、少しだけ張り詰めた。
白雪姫は、そっと胸に手を当てて言葉を続ける。
「蒼波さん、すごく不器用でした。話しかけ方も、なんか、いっぱいいっぱいで」
「……」
「でも、必死に話してくれました。私の髪のことも、綺麗やって言ってくれました」
窓の外を、夕日を浴びた山影が流れていく。
「……だけど最後に、すごく申し訳なさそうな顔をしたんです。辛そうな顔でした」
あの一瞬の翳り。
「たぶん、八雲さんに言われて無理をして……嘘をついてるみたいで、苦しかったんやと思います」
翠織は、無言だった。
ただ静かに、白雪姫の言葉を受け止めている。
白雪姫は、一度息を整えた。
そして、きっぱりと言い切った。
「私は……誰かに言われたからじゃなくて」
声が、震えないように。
「蒼波さんと、ちゃんと友達になりたいんです。だから――もう、あんなふうに誰かに無理をさせるのは、やめてください」
しん、と車内が静まり返る。
タイヤが道を擦る音だけが、低く響いていた。
やがて。
「…………参ったわね」
翠織の口元が、ふっと緩んだ。
「まさか、十二歳の女の子にお説教されるなんて。……大人失格だわ、私」
「あっ、い、いえ、そんなつもりじゃ……!」
「いいのよ」
翠織は、今日いちばん柔らかな笑みを浮かべた。
「約束するわ。……ごめんなさいね。私の焦りが、蒼波ちゃんにも、あなたにも嫌な思いをさせてしまった」
「……いえ」
「これからは、二人で自然に仲良くなってちょうだい。……私は、余計な口出しはしないから」
「……はい。ありがとうございます、八雲さん」
白雪姫は、ほっと胸を撫で下ろして微笑んだ。
――フロントガラスの向こう。
街の中を走る車窓の奥で、夕日を背負った行縢山が、少しずつ、少しずつ近づいてくる。
角のような二つの岩壁が、茜色に染まって聳え立っていた。
これから始まる、新しい生活。
神子としての、まだ何も分からない運命。
不安がないと言えば、嘘になる。
それでも――白雪姫の胸には、確かなあたたかさが宿っていた。
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